
定年退職を迎えた信介(しんすけ)と、相変わらず賑やかな家族たちとの日常のお話しです。「長岡の風」物語を読んでいらっしゃる方は、ちょっとだけピンとくるお話かもしれません。
定年退職

「というわけで、人生は勝つことよりご機嫌でいること。努力の向け方を間違えると、自分を破壊します。みなさんもお気をつけください。以上!」
パチパチパチパチ!
満杯の会議室で拍手が送られる中、本日をもって定年退職を迎えた伊集院信介(61歳)は、満足げに深々と一礼した。長年勤め上げた会社での最後の挨拶。若い頃は、
「夢を持て!」「誰よりも努力しろ!」
と、叩き込まれ、肩にガチガチに力を入れて走り続けてきた信介だったが、60歳を過ぎてたどり着いた境地は、
「人生は気合いより抜き方」
だった。花束と記念品を抱えて帰宅すると、玄関で待っていたのは、妻の妙子と、たまに実家に顔を出すアラサーの長女・さやかだった。
「お父さん、お疲れ様〜!無事に終わった?」
「お疲れ!最後のスピーチ、ちゃんと言いたいこと言えた?」
「ふっふっふ。大好評だったよ」
信介はドヤ顔で胸を張ると、ダイニングテーブルに花束を置き、さっそくスピーチの要約を家族に披露し始めた。
「私はな、後輩たちに教えてやったんだよ。人生、頑張らない・マネージしない・我慢しないが、一番だってね!そもそも人と比べるなんて無意味!チャレンジしたければすればいいし、無理だと思ったら即撤収!期待しすぎないのが、ご機嫌のコツよ!」
熱弁を振るう信介だったが、妻の妙子はビールをグラスに注ぎながら、全く動じた様子もなく言い放った。
「お父さん。それ、会社の人には深いお言葉に見えたかもしれないけどさ」
「ん?」
「我が家から言わせてもらえば、お父さんは昔から、自分がやりたくないことから速攻で撤収するプロだったわよ」
「えっ」
すかさず長女のさやかも乗っかる。
「そうだよ!私が小学生のとき、日曜日に、よーし!今日は庭の物置をDIYで作るぞ!って大張り切りでホームセンター行ったのに、説明書見た瞬間に、うーん、無理!って即撤収して、業者に丸投げしたじゃん!」
「あ、あれは、自分の向き不向きを見極めた、高度な判断だ!」
「単に説明書読むのが面倒だっただけでしょ!」
ガハハと笑う妙子とさやか。信介は苦笑いしながらも、冷えたビールを一口煽った。まあ、家族の言う通りかもしれない。昔は、途中で投げ出すのは悪だ、と思っていた時期もあった。だが、向いていない努力を続けて自分を追い詰めるくらいなら、さっさと撤収して、まあ、そういうこともあると笑っている方が、自分も周りもハッピーなのだ。そこへ、部屋からドタバタと降りてきたのは、大学生の次男・和樹だった。何やら眉間にシワを寄せ、スマホとにらめっこをしている。
「はあ。マジで終わった」
ドカッと椅子に座り込み、どん底のようなため息をつく和樹。
「どうした和樹?珍しく深刻な顔して」
と、信介。
「就活だよ、就活!サークルの同期はもう内定もらってるのに、俺だけ全落ち!ガチで人生詰んだ。もう努力しても意味ないのかな」
和樹は頭を抱え、今にも世の終わりのような雰囲気を漂わせている。信介は缶ビールを置き、ニコッと笑った。
「和樹。人生の悩みの8割は、まあ、なんとかなるで解決するぞ。根拠なんてなくていいんだ。過去も結局なんとかなってきたろ?」
「いや、今回は本気でヤバいんだって!お父さんみたいに能天気になれないよ!」
どん底の和樹と、超脱力モードの定年親父。
「よし!」
信介はポンと膝を叩いた。
「明日からお父さんは毎日ヒマだ!和樹、お前の、肩の力抜きレッスンを開始するぞ!」
「えっ、就活の指導じゃなくて!?」
こうして、定年を迎えた信介のご機嫌な第二の人生と、追い詰められた息子の脱力作戦が幕を開けたのだった。
面接対策

「いいか、和樹。面接で一番やっちゃいけないのは、自分を実物以上に大きく見せようとすることだ。力んで自分に合わない会社に入っても、あとで自分が破壊されるだけだぞ」
翌朝。リビングのテーブルには、和樹のエントリーシートと、信介が淹れた緑茶が置かれていた。
「いや、言いたいことは分かるよお父さん。でもさ、面接官は、御社のために必死で努力します!って情熱的なヤツを採りたいわけじゃん?力抜いて生きてますなんて言ったら即落とされるよ」
頭を抱える和樹に、信介は呑気に煎餅をボリボリかじりながら言った。
「そうじゃない。頑張らないってのはな、サボることじゃないんだ。白黒つけすぎないとか、他人の評価軸でたたかわないってことだ。ほら、試しに模擬面接やってみよう。お父さんが面接官な」
信介はメガネをクイッと上げ、急に厳格な面接官の顔を作った。
「えー、伊集院和樹さん。あなたの最大の挫折体験と、それをどう乗り越えたかを教えてください」
和樹は姿勢を正し、丸暗記してきたセリフを早口で喋り出した。
「はい!大学2年の時にサークルのイベント集客で目標人数に達せず、大きな挫折を味わいました!しかし、私は諦めずに毎日100人に声をかけ、徹夜でチラシを配り直し、最終的に目標を達成して乗り越えました!」
言い切った和樹は、どうだ!と言わんばかりの顔をした。しかし、面接官役の信介はうーんと首をひねる。
「うーん。不合格」
「なんでだよ!めっちゃ頑張って乗り越えたストーリーじゃん!」
「必死すぎて、見てて疲れる。徹夜で100人とか、読んでるこっちの肩まで凝ってくるわ。それに乗り越えたって言い切るけど、人生なんてそんな綺麗に白黒つかないだろ?まあ、目標には届かなかったけど、残ったメンバーでラーメン食って笑ったら意外とスッキリして、次は別のやり方を試しましたくらいでいいんだよ」
「そんな適当な回答ある!?絶対落とされるって!」
そこへ、買い出しから帰ってきた妻の妙子が割って入ってきた。
「ちょっとお父さん、変なアドバイスして和樹を迷わせないでよ。和樹も和樹よ、ガチガチになりすぎて顔が怖いから、もっと笑いなさい」
「笑う?この状況で!?」
「そうだよ、和樹」
と、信介。
「面白いことがあるから笑うんじゃない、笑うから面白くなるんだ。機嫌の悪いヤツの隣には誰も座りたくないが、ご機嫌なやつの周りには勝手に人が集まる。面接も一緒だ」
「はあ。ご機嫌ねぇ」
和樹は半信半疑のまま、その日の午後に控えたWeb面接へと向かった。午後3時。和樹の部屋から、静かな話し声が聞こえてくる。リビングでは信介と妙子が、ドア越しにそわそわしながら耳を澄ませていた。
(あいつ、ちゃんと笑顔作れてるか?)
(お父さんが変なこと吹き込んだから心配だわ)
やがて面接が終わり、部屋から出てきた和樹は、なぜか放心状態だった。
「どうだった、和樹!?」
信介が身を乗り出す。和樹はゆっくりと二人を見た。
「なんか、奇跡が起きたかも」
「えっ!?」
「面接官の人にさ、今までで一番大変だったことは?って聞かれて、準備したセリフをド忘れしちゃってさ。テンパりすぎて、思わず、昨日まで不採用続きで落ち込んでたんですけど、今朝、父親に煎餅食いながら、まあなんとかなるって言われて、なんか吹っ切れました、って笑いながら言っちゃったんだよ」
「えぇっ!親の雑なアドバイスをそのまま言ったの!?」
妙子が叫ぶ。
「そしたらさ。面接官の人が爆笑して。君、いいねえ。最近の就活生はみんな金太郎飴みたいに同じ気合い入った話しかしないから、君みたいに肩の力抜けててご機嫌な人と一緒に仕事したいよ、って言われて。その場で一次面接、通った。」
信介は満足そうに大きく頷き、和樹の肩をポンと叩いた。
「ほら見ろ!無理に自分を飾らない、深刻になりすぎない!人生の本質はここにあるんだよ!」
「お父さん、ちょっとだけ尊敬するわ」
和樹がしみじみと言ったその時、玄関のドアが勢いよく開き、長女のさやかが駆け込んできた。
「お父さん!大変!おじいちゃん(信介の義父)が、趣味の陶芸で大失敗してもう人生終わりだって部屋に閉じこもっちゃったの!助けて!」
「な、なんだって!?」
せっかく脱力モードに入った伊集院家に、新たな深刻すぎるトラブルが舞い込んできたのだった。
頑固ジジイ

「ワシの最高傑作が!ワシの半生をかけた大皿がッ!」
信介たちが駆けつけると、義父・源造の工房には、見事に真ん中からパカリとふたつに割れた大きな陶器の皿が転がっていた。源造(83歳)は頭を抱え、まるで世界の終わりを迎えたかのように畳に突っ伏している。元・高校の校長だった源造は、昔から超がつくほどの真面目で完璧主義。「男たるもの常に高みを目指し、100点満点を目指すべきだ!」が口癖の、信介とは正反対の生き方をしてきた人物だ。
「お義父さん、どうしたんですか、急に?」
信介が声をかけると、源造は血走った目でガバッと起き上がった。
「信介ぇ!これを見ろ!市の美術展に出品する予定だった渾身の皿だ!釜から出したらこのザマだ!ワシのこれまでの努力は一体何だったんだ。もうおしまいだ、ワシの人生は失敗作だ!」
「いやいや、皿が一枚割れただけで人生の失敗作とまで。飛躍しすぎですよ!」
信介は思わず苦笑いした。
「笑い事じゃない!完璧を目指して何ヶ月も釜の温度を調整し、寝る間も惜しんで努力したんだぞ!?努力が報われないなんて、そんな惨めなことがあるか!」
ハァハァと肩で息をする源造。真面目すぎるがゆえに、たったひとつの想定外で自分自身を完全に破壊しかけている。
(やれやれ。典型的な力みすぎのパターンのやつだな)
信介はポンと手を叩くと、割れた皿の破片をひょいと拾い上げた。
「お義父さん。世の中には答えがないことも多いんですから。白黒つけようとしすぎると疲れますよ。ほら見てください、この割れ目」
「割れ目がどうした!欠陥品だ!」
「いいえ、見事な直線です。これ、ふたつに割れたおかげで最高のサンマ置きが2個できたじゃないですか」
「は?」
源造がポカンとする。信介は割れた半分の皿の上に、エアでサンマを乗せるジェスチャーをした。
「ほら、長方形でジャストサイズ!割れる前は大きすぎてテーブルに乗らなかったでしょ?むしろ引き算されて使いやすくなりましたよ。まあ、そういうこともある、です」
「な、なにをふざけたことを!芸術作品だぞ!サンマ皿だと!?」
怒り狂う源造だったが、横で見ていた長女のさやかが、
「あ、ホントだ。これフレンチの盛り付けとかに使ったら逆におしゃれじゃない?」
と乗っかってきた。
「でしょ?」
と、信介。
「お義父さん。人間、抱え込みすぎて、勝とうとしすぎると、苦しくなるんです。完璧を求めない。無理に100点を目指さない。昨日の自分よりちょっとご機嫌なら、それで大成功なんです。諦めてサッサと撤収するのも、立派な技術ですよ」
「撤収だと!?ワシは80年、一度だって途中で投げ出したことはないわ!」
「だから今、こうやって皿が一枚割れただけで人生の終わりみたいな顔してるんじゃないですか」
信介のズバリとした一言に、源造はぐうの音も出なくなった。
「人生は戦い続けるもんじゃなくて、楽しみながら進むもんです。ちょっと肩の力を抜いてみてください。意外とその方がうまくいくんですから」
信介はそう言うと、持参してきた缶ビールをプシュッと開け、源造の手に握らせた。
「さ、反省会は終わり!割れたもんは戻らないんだから、今日は美味しいもん食べて笑いましょう。笑うから面白くなるんです!」
源造は手に握らされた冷たい缶ビールと、割れたサンマ用の皿を交互に見比べた。長年、常に努力し、完璧でなければならないという重圧を自分に課し続けてきた老人に、信介のいい加減とも思える脱力が、じんわりと染み込んでいくようだった。
「フン。お前は昔から、そうやってヘラヘラと」
源造は気難しそうな顔を崩さないまま、ビールを一口ゴクリと飲んだ。
「で、サンマは。どこにあるんだ?」
「あ、今から妙子さんが買いに行きます!」
「よし、じゃあ、ワシも行く。そのサンマ皿が使えるか、長さを測ってから買わんとな」
源造の口元が、ほんの少しだけ柔らかく緩んでいた。
カンパイ

義父・源造のサンマ皿事件から数週間。伊集院家のリビングには、いつも以上の緊張感が漂っていた。
「ねえ、お母さん。お父さん、本当に大丈夫なの?」
大学の講義を終えて帰ってきた次男の和樹が、不安そうに母・妙子の顔を覗き込む。リビングのソファでは、信介が腕組みをして目をつむり、う〜む、と重々しい唸り声を上げていた。テーブルの上には、真新しいノートとペンが置かれている。
「分からないわよ。ここ数日、ずっとあの調子なの。俺の第二の人生の重大な決断だとか言ってさ」
妙子が呆れ顔で湯飲みを置く。そこへ、仕事帰りの長女・さやかもドタバタと入ってきた。
「ちょっと!お父さん、まさか怪しいシニア起業とか始めようとしてない!?会社辞めた反動でカフェ開くとか言い出したら全力で止めるよ!?」
家族のざわめきが最高潮に達したその時、信介がバッと目を開けた。
「決めたぞ!伊集院信介、61歳。第二の人生における、最大の目標(マネジメント)だ!」
「目標!?」
「頑張らない」「マネージしない」を座右の銘に掲げていたはずの男が、急に目標などと言い出したのだ。家族全員に緊張が走る。信介はノートを掲げ、堂々と宣言した。
「俺のこれからの目標は、毎日、昼過ぎに日当たりのいい場所で、最高のお昼寝をすることだ!!」
ズコーッ!!リビングに、見事なズッコケの音が響き渡った。
「なによそれ!計画って言ったからもっとすごいことかと思ったじゃないの!」
妙子が腰に手を当てて叫ぶ。
「大マジだよ!」
信介はドヤ顔で胸を張った。
「日差しは刻一刻と変わるだろ?縁側か、ソファか、はたまた庭のベンチかその日一番ご機嫌になれるポカポカスポットを見極めるのは、高度な判断力と好奇心が必要なんだ!興味を失わない、これぞ若さの秘訣よ!」
「もう。どこまでも肩の力が抜けてるんだから」
さやかは呆れつつも、思わず吹き出してしまった。その時、玄関の引き戸がガラガラと開き、
「お〜い、信介はおるか!」
と元気な声が響いた。入ってきたのは、手ぶらでニコニコ顔の義父・源造だった。以前の完璧主義で気難しかった頑固ジジイの面影はどこにもない。
「おじいちゃん!?」
和樹が驚く。
「おお、和樹か!聞いたぞ、無事に希望の会社から内定が出たそうじゃないか!」
「うん!面接で変に力まないで、まあなんとかなりますって笑ってたら、すごく評価してもらえてさ」
「ガハハ!それでいいんだよ!」
源造は、信介の隣にドカッと腰掛けると、自慢げに風呂敷包みを取り出した。中から出てきたのは、あの真ん中で割れてサンマ皿になった陶器の皿だ。
「見てみろ信介!金継ぎ(きんつぎ)をして修復してみたら、割れ目が金色に光って、かえって味わい深い名品になったぞ!先日、陶芸仲間に見せたら、この意図的な破調(はちょう)が見事だって、大絶賛されたわ!」
「ほら見ろお義父さん!」
信介が膝を叩く。
「失敗だと思ってさっさと撤収したからこそ、新しい魅力が生まれたんですよ!完璧を目指さない方が、人生はおもしろくなるんです!」
「うむ!まったくお前の言う通りだ!勝ち負けに拘るなんて、実に下らんことだったわい!」
元・校長の厳格だった源造が、信介と一緒になって少年のようにガハハと笑っている。
「さあさあ。和樹の内定祝いと、お父さんの昼寝目標達成と、おじいちゃんの復活祝い!まとめてカンパイしましょう!」
妙子が手際よく準備したご馳走がテーブルに並び、冷えたビールグラスがカチンと音を立てた。
「人生は戦い続けるもんじゃない、楽しみながら進むもんだ!」
信介の音頭で、賑やかな笑い声がリビングいっぱいに広がる。人と比べず、無理に好かれようとせず、答えのない毎日を、まあ、そういうこともあると軽やかに流していく。最高に脱力した信介を中心に、伊集院家の今日は、今日もとってもご機嫌だった。






