
今回は舞台を徳島に移し、65歳の光夫さんと56歳の悦子さんが紡ぐ、大人の、けれどどこかクスッと笑える最強のバッテリー結成ストーリーをお届けします。どうぞお楽しみください。
コンビ

関光夫(65)は、徳島市内の老舗パルプ会社で、2年前からシニア再雇用として働いている。現役時代に比べて給料の明細は寂しくなったが、引き換えに手に入れたのは、5時ピタ退社という極上の時間的余裕だった。
「せっかくの第二の人生、何か世の中の役に立つことをせんとな」
そう一念発起して始めたのが、週に数回、失業者や生活困窮者を支援する福祉食堂「あわっこキッチン」でのボランティア活動だ。そこで光夫は、運命の調理員、川島悦子(56)と出会うことになる。
お互いに家庭があり、子どもも孫もいる身だ。会うのはこの福祉食堂の中だけ。連絡先もあえて交換せず、仕込みの合間に「今日の徳島ヴォルティスはどうでした?」なんて世間話をするだけの、文字通り清く正しいお付き合いを続けていた。しかし、人間だもの、考える。光夫は、自宅の湯船に浸かりながら、天井を見つめて真剣に悩んでいた。
(一体、俺と悦子さんの関係は何なんだろうか?)
カップルと言うには気恥ずかしいし、もちろん不倫の愛人なんてドロドロしたものでは断じてない。大人のパートナーなんて横文字を使うと、妙な誤解を招きそうだ。その時、光夫の脳裏に、大昔に学校の水泳授業で習ったバディという言葉が浮かび上がった。
「そうだ、バディだ! 溺れそうになった時に手を伸ばし、お互いの命を預け合う、あの命綱のような関係!」
翌日、食堂の休憩時間に、光夫は意を決して悦子にこの熱い胸の内をぶつけてみた。
「悦子さん。私とあなたの関係ですがね、私は『バディ』が一番しっくりくると思うんです」
悦子は、手にしたお玉をピタリと止め、丸い目をさらに丸くした。
「バディ? ああ、映画の相棒みたいなやつですか? 光夫さん、それならバッテリーっていうのはどうでしょう?」
「ば、バッテリー?」
「ほら、あさのあつこさんの小説にあったじゃないですか。ピッチャーとキャッチャーが、お互いを信じ切って一球を投じる、あの関係。私たち、あわっこキッチンのマウンドに立つバッテリーですよ!」
光夫の胸に、すぽんと快音を残してストライクが投げ込まれた。
「バッテリー! それだ! 素晴らしい!」
65歳と56歳。阿波の福祉食堂の片隅で、既婚者同士の最強のバッテリーが、1ミリの不純物もなく結成された瞬間だった。しかし、光夫には大学時代に心理学の講義で習った、ある一つの懸念があった。
「悦子さん、このバッテリーが穏やかに、傷つかずに長続きするためには、絶対に守らなければならない鉄則があるんです」
「鉄則?」
悦子が、今度は人参を刻む手を止めて身を乗り出した。
鉄則

「いいですか、悦子さん。私たちのようなバッテリーが傷つかず、穏やかに長続きする方法はただ一つ。共通の目標を常に外に向かって持つこと、なんです」
光夫は、食堂の事務机の上で、まるで大学の教授のように人差し指を立てた。
「お互いをじっと見つめ合うとね、どうしても甘えや期待が出てしまう。それが裏切られたとき、傷ついて相談すらできんくなるんです。だけど、目標が二人の外側にあれば、お互いの弱点を補い合って、なんとか達成しようと前を向ける。かつて大学の講義で教授が熱弁していたんです」
悦子は、手にした電卓のボタンを叩く手を止め、深く感心したように頷いた。
「なるほどなぁ! 外向きの目標ねぇ。じゃあ、まずはこのあわっこキッチンの山積みの課題を、二人の外向きの目標にしましょう!」
こうして二人の外向きミッションが本格的に始動した。まず着手したのは、光夫が大の得意とするボランティア食堂の会計作業だ。現役時代の事務処理能力をフルに発揮し、どんぶり勘定だった帳簿をスマートにデジタル化していく。
「光夫さん、本当に助かります! あ、ついでに相談なんですけど、新しく入ったボランティアの佐藤さんが、毎回キャベツの千切りを親指の太さで切っちゃうの、どう言えば傷つかないかしら?」
「よし、佐藤さん対策は私に任せてください。うまく伝えておきます」
悦子から受けるそんな相談も、光夫にとっては嬉しくてたまらないキャッチボールだった。本業のパルプ会社で、年下の生意気な同僚から言われた愚痴を悦子に聞いてもらう時間も、絶妙な、心の外付けハードディスク、として機能していた。
さらに、光夫の外向きの熱意は、食堂の設備改善へと向かう。ある日、光夫は自宅からマイ電動工具一式を引っ提げてやってきた。
「食堂の動線をハイテク化します!」
そう宣言すると、慣れた手つきで壁にスマートスピーカー(アレクサ)を取り付け、薄暗かったバックヤードの隅にパッと明るい豆電球を増設した。
「アレクサ、3分タイマーかけて!」と他のスタッフたちが楽しそうに使いこなす姿を見て、光夫のドヤ顔は止まらない。極めつけは、長年使い込まれて黒ずんだ巨大な業務用まな板のメンテナンスだった。
「悦子さん、これを使って一気に綺麗にしましょう!」
光夫が取り出したのは、ウィィィィンと小気味よい音を立てる電動サンダー(研磨機)。光夫が力を込めてまな板を削り、悦子が隣で「すごーい! 新品みたいに白くなっていく!」と目を輝かせて粉を払う。飛び散る木屑の向こうで、少女のように楽しそうに笑う悦子の姿を見ながら、光夫はふと思った。
(なんだろうな、この感覚。まるで高校の文化祭の準備みたいだ。俺たち、いま猛烈に青春しとるんじゃないか?)
もちろん、お互いに帰るべき温かい家庭がある。けれど、この福祉食堂というマウンドの上で、同じ外の標的(まな板)に向かって電動工具を握る二人の間には、若い頃の恋愛よりもずっと深く、爽やかな信頼関係のタクトが確かに刻まれていた。
アイス

福祉食堂あわっこキッチンの最強バッテリーとして、光夫と悦子のコンビネーションは日を追うごとに冴え渡っていった。光夫の主な担当は、食堂にやってくる利用者への給仕、つまりホールの一員である。しかし、連休や地域のイベントが重なると、食堂は戦場と化す。お腹をすかせた利用者や、慣れない作業にあたふたするボランティアスタッフで、現場の空気はピリピリと張り詰めがちだった。そんな時、厨房からサッとマウンドへ救援に駆けつけてくれるのが、キャッチャーの悦子だった。
「はいはい、お待たせしました! 特製のアジフライ、揚げたてですよ!」
悦子がホールに一歩足を踏み入れるだけで、まるで徳島の阿波踊りの連がやってきたかのように、その場がパッと明るくなる。悦子は抜群のコミュニケーション能力で、少し気難しそうな利用者の懐にすぽんと飛び込み、「お父さん、今日はいい帽子被っとるねぇ」とご機嫌を取ってしまう。スタッフたちにも「みんなのおかげで助かるわ、ありがとう!」と笑顔のパスを回していく。
(素晴らしい!私一人では、あそこまでホールの空気をコントロールできん。さすが俺のバッテリーだ)
光夫は、悦子の見事なリードに心の中で深く拍手を送っていた。しかし、そんな二人のバッテリー絆が、最大級の試練にさらされる事件が起きた。
ある日の午後、食堂の受付に、見るからに対応が難しそうな訪問者がやってきたのだ。理不尽な要求を並べ立て、大声でスタッフを威圧する。ボランティアの佐藤さんたちは完全にすくみ上がってしまい、ホールの空気は一瞬で氷ついた。シニア再雇用とはいえ、長年社会の荒波を生き抜いてきた光夫だ。自分が前に出て対応しようと足を踏み出した、その時。
「光夫さん、ここは私に任せて!」
後ろから、悦子の力強い声が飛んできた。悦子はエプロンをきゅっと結び直すと、光夫の前にすっと立ちはだかり、その訪問者に向き合ったのだ。
「お客様、お話はよーく分かりました。でもね、ここで大声を出すのはルール違反です。まずはあちらで、落ち着いてお話ししましょう?」
悦子の放つ、大人の女性ならではの圧倒的な包容力と、毅然としたオーラ。それに気圧されたのか、さっきまで怒鳴っていた訪問者も、毒気を抜かれたように大人しく別室へと誘導されていった。まさに、全力のフロントサポート。光夫は、彼女の背中に心からの頼もしさを感じていた。その日の夕方。嵐が去った食堂のバックヤードで、光夫は悦子に深く頭を下げた。
「悦子さん、本当にありがとうございました。今日のピンチを救ってくれたあなたには、これを受け取っていただかなければ気が済みません」
光夫が恭しく差し出したのは、近くのコンビニで買ってきた、ちょっと高めの高級アイスバー2本だった。
「あら! 私の大好きなやつ!」
悦子は顔をほころばせ、少女のような笑顔でアイスを受け取った。夕暮れのあわっこキッチンの裏口で、65歳と56歳が並んでアイスをかじる。
「法外な全力サポートのお礼にしては、アイス2本じゃ安すぎましたかね?」
「何言ってるんですか、光夫さん。この冷たさが、最高の報酬ですよ」
ガリッとアイスをかじる悦子の横顔を見ながら、光夫は確信していた。これもまた、お互いに見つめ合うのではなく、食堂の平和を守るという外向きの目標を共有できたからこそ乗り越えられた、誇るべきバッテリーの勲章なのだと。
スコアボード

徳島の夕空が、ゆっくりと藍色に染まっていく。あわっこキッチンの裏口でアイスを食べ終えた光夫と悦子は、どちらからともなく、いつものように自分の家族の話を始めた。
「うちの孫がね、この春から小学校なんです。ランドセル姿を見て、なんだか急に目頭が熱うなってしもて」
悦子が優しく微笑む。
「それはおめでとうございます。うちの娘のところも、最近やっと家を建てましてね。引越しの手伝いに駆り出されて、腰がバキバキですよ」
光夫も苦笑いしながら応じる。お互いに、守るべき大切な家庭があり、愛する子どもや孫がいる。
ふとした瞬間に考えることがあった。もし、もっと若い頃、お互いに何の色もついていない20代の頃に出会っていれば、私たちは結婚していたのだろうか、と。いや、それは詮無い仮定だ。むしろ、還暦を過ぎ、様々な人生の酸いも甘いも噛み分けてきた今だからこそ、この絶妙な距離感の「バッテリー」になれたのだと、光夫は強く思っている。
若者たちのように結婚という一つの分かりやすい枠組みに収まることだけが、人間の深い結びつきのゴールではない。今のこの、名前のつかない、けれど誰よりもお互いの背中を預け合える関係のまま、深く、静かに続けていける方法を、ふたりは日々のボランティアを通じて自然と模索していた。
「悦子さん」
光夫は、静かに話し始めた。
「私はね、この食堂であなたと一緒に、電動工具でまな板を磨いたり、アレクサを取り付けたり、難解なお客さんをアイス2本の阿吽の呼吸で切り抜けたりした時間が、本当に愛おしいんです。大学の授業通り、私たちはいつも外向きの目標を共有できていた。だからこそ、お互いに甘えることもなく、傷つけることもなく、最高の信頼関係を築けたんだと思います」
悦子は、空になったアイスの棒を見つめながら、深く、深く頷いた。
「光夫さん、私も同じです。私、ここに来るのが毎回本当に楽しみなんですよ。もし、私たちがただの仲良しだったら、きっとどっちかが期待しすぎて、今頃喧嘩でもしていたかもしれませんね。外に向かって一緒に汗をかいているからこそ、光夫さんの良いところが、ダイヤモンドみたいにキラキラ光って見えるんです」
ふたりは、決してお互いの手を握ることはない。ただ、並んで同じ前方の景色を見つめている。
「さぁ、光夫さん! しんみりするのはここまで。明日は待ちに待った徳島名物・すだちうどんの日ですよ! 仕込みの計算、バチッとお願いしますね」
悦子がパッと立ち上がり、キャッチャーミットを叩くような仕草で光夫の肩をポンと叩いた。
「お任せください。計算は私の本領発揮ですから!」
光夫も現役時代の鋭い眼光を取り戻し、力強く立ち上がる。戸締りを終え、食堂の明かりが消える。
「それじゃあ、また来週」
「はい、お疲れ様でした。お気をつけて」
右と左、それぞれの家へと続く夜道を歩き出すふたりの背中には、目に見えないバッテリーのユニフォームが、何よりも誇らしく輝いていた。






