昭和39年生まれ61歳の電気屋が見た令和の奇跡。便利すぎる時代に僕たちが置き忘れた心の豊かさ
🌿昭和39年生まれ61歳の電気屋が見た令和の奇跡

昭和39年生まれの電気屋・田中義男、61歳。家電の配達先で出会う人々との何気ない会話が、町の記憶と人情をそっと照らす。全自動を手放し二槽式を選ぶ老人、スマホを見ずに子を育てる若い夫婦、そして屋台のラーメンと昔話。変わりゆく時代の中で、変わらない温もりを見つける、静かであたたかな物語です。


麦茶とエアコンと田中さんの午後

「よし、これで冷房もバッチリですね」

田中義男(61)は、エアコンのリモコンを手に、試運転の風を確認した。室内機の下には、脚立と工具箱。汗をぬぐいながら、壁際に置いたカバーを丁寧に拭く。

「田中さん、ほんとうによく働かれますね」

声の主は、山本ひとみ(61)。同い年の女性が、トレーに麦茶とおやつを載せてやってきた。麦茶のグラスには氷がカラカラと音を立て、隣には小皿に盛られたきなこ餅と塩せんべい。

「この前の冷蔵庫のときも、夕方8時だったのに電話したらすぐに来てくださって。ほんと助かりました」

田中は、少し照れくさそうに笑った。

「いえいえ、こんなのあたりまえですよ。今どき、電気屋で家電を買い替える人はそう多くありませんからね。大切なお客様なので、何でも言ってください、ご遠慮いりませんから」

ひとみは麦茶を差し出しながら、ふと目を細めた。

「田中さんって、昔からこの仕事されてるんですか?」

「ええ、もう40年近くですね。最初は親方の助手で、冷蔵庫の搬入で腰を痛めて」

「まあ、そんなに長く!」

「でも、こうしてお客様に喜んでもらえると、やっぱり続けてきてよかったなって思いますよ」

ふたりは、麦茶をすすりながら、しばしの休憩。ビジネスライクなやりとりのはずだったが、どこか心がほぐれていく。

「田中さんって、昔から本当にいい人だな」

ひとみはそう思った。声には出さなかったけれど。

「山本さんって、ほんとに気遣いのある方だ」

田中も、そう感じていた。もちろん、口には出さずに。エアコンの風が、静かに部屋を冷やしていく。麦茶の氷が、カランと鳴った。

田中義男、午後の配達と小さな選択

田中義男は、洗濯機の配達伝票を見ながら、軽トラックのエンジンを切った。3丁目、池田さん宅。午前中に引き上げ依頼が入っていた全自動洗濯機は、まだ新しい型だった。だが、池田さんが望んだのは、昔ながらの二槽式。

「使い方がわからんのよ。ボタンが多すぎて、どこ押してもピーピーうるさいし」

池田さんは玄関先で少し困ったように笑った。義男は、二槽式洗濯機を荷台から下ろしながら、池田さんの言葉にうなずいた。

「わかりますよ。最近のは、洗濯より先に説明書と格闘ですからね」

池田さんは、義男よりも一回り以上年上のはずだが、受け答えはしっかりしている。けれど、機械の前では誰でも不安になる。義男自身も、初めてスマートフォンを手にしたときは、電話をかけるだけで汗をかいた。

「昔のは、洗いとすすぎを分けて、タイマー回して、ホースで水入れて。それだけだった。あれがよかった」

義男は、設置場所を確認しながら、池田さんの言葉を心に留めた。便利さは、時に人を置いてきぼりにする。池田さんが求めているのは、機能ではなく自分でできるという感覚なのだ。

設置を終え、動作確認をしていると、池田さんがそっと義男の肩を叩いた。

「ありがとう、電気屋さん。これなら、また自分で洗濯できる」

義男は笑って答えた。

「ええ、池田さんの手で回すタイマーの方が、きっと正確ですよ」

軽トラックに戻る途中、義男はふと考えた。自分の仕事は、ただ物を運ぶだけじゃない。人の暮らしのリズムを整えることでもある。池田さんのように、わからないと言える人に寄り添えるのは、61歳になった今だからこそかもしれない。

エンジンをかけると、午後の陽ざしがフロントガラスに差し込んだ。義男は、次の配達先へとゆっくりハンドルを切った。

田中義男、テレビと沈黙の午後

軽トラックの荷台から、薄型テレビの箱を慎重に下ろしながら、田中義男は吉田さんご夫婦の玄関先に目をやった。新築の戸建て。玄関脇にはベビーカーが折りたたまれて置かれている。若い夫婦は、にこやかに出迎えてくれた。

「ありがとうございます。これで、子どもと一緒にYOUTUBEが見られます」

奥さんがそう言って笑った。義男はテレビを設置しながら、いつものように、受信料契約の話をそれとなく切り出す。

「ちなみに、NHKの受信契約の件なんですが」

すると、ご主人がすぐに答えた。

「うちはテレビはYOUTUBE専用なんで、NHKは見ないんですよ。だから契約はしてません」

義男は、言いかけて、ふと口をつぐんだ。

「いやいやいや、そうはいっても。受信設備を所有しているということは、」

その先の言葉が、喉の奥で止まった。義男は、テレビの脚部を固定しながら、心の中で小さくため息をついた。NHKの受信料は、月額で言えば缶コーヒー数本分。若い共働き家庭にとって、決して重い負担ではないはずだ。だが、問題は金額ではない。義男は、何度も似たような場面に遭遇してきた。払う・払わないの判断には、損得よりも他人と比べて損したくないという感情が潜んでいる。

「隣の家が払ってないなら、うちも払わない」「見ないのに払うのは不公平だ」

そんな声を義男は何度も聞いてきた。だが配達員の立場でそれを論じることはできない。義男はテレビの設置を終えると、リモコンの使い方を簡単に説明し笑顔で頭を下げた。

「これですぐにYOUTUBEも見られますよ。お子さんと楽しんでください」

ご夫婦は嬉しそうにうなずいた。義男はトラックに戻りながら、ふと考えた。自分が若かった頃はテレビはみんなで見るものだった。今は自分で選ぶものになった。時代が変われば、価値の置き方も変わる。

それでも義男は思う。誰かと比べるより自分の暮らしに必要なものを選ぶ方がきっと心は穏やかだ。そういう選び方を若い人たちにもいつか伝えられたらいい。トラックのエンジンをかけると、夕方の風が少し冷たくなっていた。義男は、次の配達先へと静かにハンドルを切った。

田中義男、屋台の夜と昭和の残り香

駅前の風は冷たく、屋台の赤い提灯がゆらゆらと揺れていた。田中義男は、湯気の立つラーメンをすすりながら、瓶ビールを傾けていた。週に一度のこの時間が、彼にとってはささやかな贅沢だった。

「ダイヤル式だったな…足が長くて、角が丸くて…」

昭和のテレビの記憶が、ラーメンの湯気とともに立ちのぼる。ブラウン管がじわじわと映像を浮かび上がらせるまでの数秒。あの「間」が、なぜか懐かしい。リモコンなんてなかった。チャンネルを変えるには、立ち上がってガチャガチャと回すしかなかった。

「白黒だったかもしれんな」

義男は、ひとりごとのように呟いた。今の若い世帯、昼間の吉田さん夫妻のような人たちは、そんなテレビを見たこともないだろう。それと同じように、この屋台のような風景も、彼らには珍しく映るのかもしれない。そのときだった。

「こんばんは〜」

屋台の暖簾が揺れて、吉田さんご夫妻と、5歳くらいの男の子が顔をのぞかせた。義男は、思わず声を上げた。

「あやや!」

半分酔っていたせいか、声が大きくなってしまった。吉田さんの奥さんが笑いながら応じた。

「あ、電気屋さん、昼間はありがとうございました。奇遇ですね。ほら、ケンタ、静かにしてなさい」

ケンタくんは、屋台の椅子にちょこんと座り、興味津々で鍋の中を覗き込んでいる。義男は、少し照れながらビールを置いた。

「いやぁ、こんなところで会うとは。ラーメン屋台なんて、若い人は来ないと思ってましたよ」

吉田さんのご主人が笑った。

「実は、僕の父が昔よく連れてきてくれたんです。冬になると、ここでラーメン食べるのが恒例で。今日はその思い出話をしてたら、来たくなって」

義男は驚いたように目を見開いた。昭和の記憶が若い世代にもちゃんと受け継がれている。テレビも屋台も、ただ古いだけじゃない。誰かの記憶の中でちゃんと生きている。

「そうですか、なんだか、うれしいですね」

義男はラーメンの残りをすすりながら、ケンタくんが麺をつるりと食べる様子を眺めた。この町にはまだ残っている。人と人が偶然に出会い、少しだけ言葉を交わす場所が。

そして義男は思った。昭和のテレビも屋台のラーメンも、便利さでは測れない時間の味があるのだと。

田中義男、どうぶつクイズとスクリーンタイムの夜

「ピンポンピンポン!!」

ケンタくんが笑顔で手を叩いた。田中義男はラーメンの器を傾けながら、子どもと過ごすこのひとときに、なんとも言えない心地よさを感じていた。

「じゃあ、次はむずかしいぞ。耳が長くて、ぴょんぴょん跳ねる、にんじんが大好きな動物、なんだ?」

ケンタくんは首をかしげて考え込む。義男はわざと難しそうな顔をしてみせる。吉田さんご夫妻は隣の席でラーメンを食べ終え、湯気の余韻の中で静かに会話をしていた。

驚いたのは、ふたりともスマホに一度も目をやらなかったことだ。食事中も食後も。義男はふと気になって声をかけた。

「そういえば、テレビのほうは使えてますか?」

吉田さんの奥さんが笑顔で答えた。

「ええ、だいじょうぶですよ。まだ試しにつけてみただけですが問題なかったです」

「スマホとかでは動画見られないんですか?」

「ええ、私たちスマホのスクリーンタイムが毎日1時間以内になるよう頑張ってるんです」

義男は思わず「へえ」と声を漏らした。

「ケンタのような子どもの手本になりたいですから」

その言葉に義男は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。若いけれどしっかりとした考えを持っている。便利さに流されず、自分たちの暮らしを選び取っている。

「立派ですね、ほんとに」

義男は、ビールの残りをぐいと飲み干した。酔いが心地よく回り始めていた。昭和のテレビ、屋台のラーメン、どうぶつクイズ。そして、スマホを見ない若い夫婦。

「これからの日本も、安泰だな」

ぽつりと誰に言うでもなくつぶやいた。ケンタくんが、うさぎ!と答えを叫び、義男は笑いながらピンポンピンポン!と返した。屋台の夜は、静かに、あたたかく、そして少しだけ希望に満ちていた。

田中義男、屋台の灯と記憶の坂道

「最近の若い人にしちゃあ、珍しいご夫婦でしたね」

屋台の暖簾をくぐりながら、ごちそうさまと言った田中義男に、店主が名残惜しそうに声をかけてきた。田中さんは、少し足を止めて笑った。

「ええ、ほんとに。スマホも見ずに、ちゃんと向き合ってましたね」

店主は、鍋の火を弱めながら、ぽつりと昔話を始めた。

「昔はね、このあたりの道路は舗装なんてされてなくて、水たまりとぬかるみだらけだった。夜になると真っ暗で、よくけつまずいたもんですよ」

田中さんは、思わずビール瓶をもう一本注文した。店主の語る風景は、5歳のころの自分がよく目にしていたものだった。駅前の坂道、ぬかるみ、裸電球の灯り。記憶の奥に、祖母の手を引いて歩いた夜がよみがえる。

「失礼ですけど、何年のお生まれですか?」

田中さんが尋ねると、店主は笑って答えた。

「昭和39年だよ。東京オリンピックの年。昔のね、東京。今もこの町が気にいってね。61歳」

田中さんは、瓶を傾けながら静かにうなずいた。

「やっぱりそうですか。私も同じ年です」

ふたりはしばし黙って、屋台の灯に照らされた夜の風を感じていた。駅前の風景は変わった。舗装された道、LEDの街灯、スマホを見ながら歩く人々。でも、変わらないものもある。ラーメンの湯気、子どもの笑い声、そして、誰かと語らう時間。

田中さんは、ふと遠い記憶を思い出した。

「そういえば、渡辺ひとみも、同じクラスだった」

小学校の同じクラス。明るくて、よく笑う子だった。幼馴染で同級生の山本太一と結婚して山本ひとみになった。今、なぜかその名前がふいに浮かんだ。あの家、太一の家だったのか。そして、あの人は、もしかして、渡辺ひとみ?

「ああぁ、そうだったんだ、日本も捨てたもんじゃないな」

田中さんはそうつぶやいて、最後の一口を飲み干した。屋台の灯が少し揺れた。風が駅前を通り抜けていく。ラーメン屋台を後にした田中義男の背中は、少しだけ軽くなっていた。人と人がつながる場所は、まだこの町に残っている。昭和も、令和も、同じ空の下で。

田中義男は、またどこかで、誰かの子どもにどうぶつクイズを出題していることだろう。ピンポンピンポン!と、その子を喜ばせ、機嫌をとっている夜が、これからもきっとあるだろう。

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