
都心から少し離れたオフィス街の一角、雑居ビルの4階にふるさとネットのオフィスがある。
全国各地の美味しい特産品を扱う、従業員30名ほどの活気あふれる通販会社だ。クリスマス商戦の激務を終え、社内は静かな年越しムードに包まれていた。だが、この日ばかりは空気が違う。社長のモリオさん(50代、丸顔でいつも上機嫌)が主催する恒例の「けじめの飲み会」だ。
システムエンジニアは縁の下の力持ち
「今年も営業のみんな、よくやってくれた!それからフウタが頑張って、40年モノのパソコンを全部、いや、ほとんど動かしてくれたおかげだ!みんな、ありがとう!」
モリオ社長は、グラスを掲げながら熱っぽく語った。
フウタ、32歳。彼が社内システムを支えるのは事実だが、そのシステムというのが、起動時にギャリギャリ!と悲鳴をあげる骨董品ばかりで、フウタの肩書きはシステムエンジニアというより古物PC救命士の方がしっくりくる。
最近は、どこかから紛れ込むコンピュータウィルスーーまだ大事に至っていないがーーとの地味な闘いも彼の日常だ。
「よっしゃ、乾杯だ!」
威勢のいい乾杯の音頭と同時に、フウタの飲み会サバイバル術が発動した。
「よし、オレは戦闘開始」
フウタが飲み会を愛する理由は二つ。
一つは酒、二つ目は食べ物だ。特に今回のケータリングのサンドイッチは、普段会社の近くのコンビニでは見かけない高級感あふれるものだった。
しかし、目立ってはいけない。32歳のSEが一人で皿を山盛りにするのはスマートじゃない。
彼はグラスにワインを注ぐと、大皿の隅に置かれた高級サンドイッチをさりげなく、しかし確実に五つほど確保した。
そして、視線で営業部のキミコ(30歳、ハキハキとした物言いが特徴)を探した。
「キミコさん、ちょっと」
フウタが手招きすると、キミコは
「お、フウタ、早いね」
と、笑いながら近づいてきた。
フウタは彼女にワインを渡し、サンドイッチを一つ差し出した。
「お疲れ様です。キミコさん最近は、どうですか?」
フウタは、口癖を放った後、すかさずサンドイッチを一口頬張った。
彼の役割は、ここで終わりだ。あとは、聞き役に徹する。
キミコは、彼の魔法の呪文「最近どう?」に引き寄せられるように、たちまち話し始めた。
「聞いてよ、フウタ!この間、新年の初売り企画でさ、モリオ社長がまた幻の蟹缶を全国独占販売したいとか言い出してさ。その仕入れ交渉がもう大変で!」
「ふむふむ。蟹缶か」
フウタは、噛む音が聞こえないように、上品に口元を覆いながら相槌を打つ。
「それでね、営業部の田中くんがさ、その交渉で大失敗をやらかしたわけ。もうね、社長の顔色が。あ、田中くんだ!」
キミコは突然、背後の席にいた若い男性社員に大声で呼びかけた。
「田中くーん!ちょっと!フウタさんが田中くんの武勇伝聞きたがってるよ!」
田中は、なぜか耳が赤くなりながら小走りでやってきた。
「え、あ、お疲れ様です、フウタさん。武勇伝なんて、ただの失敗談で」
「さあ、遠慮しないで、フウタさんに話してあげなさい!フウタさんは聞いてるだけだから、全部話してOKよ!」
キミコは田中くんをフウタの前に押し出すと、フウタのグラスにワインを足し、自分のサンドイッチを確保しに行った。フウタはモグモグとサンドイッチを味わいながら、ニコッと笑顔を向ける。
「田中くん。最近どう?」
フウタがニコッと笑顔を向けると、田中くんは一瞬たじろいだ後、観念したようにため息をついた。
彼の耳はまだ赤いままだった。
「いや、フウタさん、それがですね、社長が年明けに売りたいっていう幻の蟹缶の仕入れリストの件なんですけど」
「幻の蟹缶?それ、いい響きだね」
フウタは残りのサンドイッチを片手に、興味深そうに目を細めた。
「ありがとうございます。で、急いで全国の食品工場に見積もり依頼のリストを作ったんですが、もう徹夜続きで目が回ってたんでしょうね。リストアップ中に、誤ってペットフード専門の缶詰工場を入れちゃったんですよ」
キミコが後ろから
「猫まっしぐら工場ね!」
と、爆笑しながらツッコミを入れた。
「そうなんです、猫まっしぐら工場!他の工場はすべて人間用の高級食材を扱っているところばっかりなのに。そのリストをそのまま、モリオ社長に提出しちゃって」
田中くんは顔面蒼白になりながら続ける。
フウタは美味しそうにワインを飲み干し、ふむふむと深く頷いた。
「で、社長はそのまま全部の工場に見積もり依頼を送っちゃったんです。当然、猫まっしぐら工場からは、他のどの会社よりも15%も安い見積もりが来たわけです」
「待って、なんでそれが値引きに繋がるんよ?」
フウタは素朴な疑問を口にした。キミコが、残りのサンドイッチを確保し終えて戻ってくると、ワイングラスを片手に胸を張った。
「そこが、田中くんの唯一褒められるところ!田中くんはね、猫まっしぐら工場の見積もりを、社長に見つからないようにちゃっかり隠したのよ。そして、本命の高級蟹缶工場3社に対して、『同業他社からは、この価格の20%オフで仕入れられるという提案が来ている』って、大嘘をかまして、猛烈な値引き交渉を仕掛けたの!」
「ええっ!?」
フウタは驚きのあまり、口の中のサンドイッチを飲み込むのを忘れた。
「そしたらどうなったと思う?普通の仕入れ価格から、さらに20%も引いたら、完全に赤字になるはずなのに、そのうちの一社だけが、その破格値を受け入れてくれたんです!」
田中くんは、成功したことなのに、なぜか土下座しそうな顔をしている。
「信じられない!田中くん、天才じゃん!」
フウタは感嘆の声を上げた。
「天才って言うか、相手が折れたのは、うちが結構大きな取引先だったからで。でも、社長にはバレちゃって。『田中!お前、まさかペットフード工場を交渉に使ったんじゃないだろうな!』って、ものすごい剣幕で!」
モリオ社長は、仕入価格が大暴落したことで大喜びしたものの、同時に、危うく猫用蟹缶を仕入れるところだった事実に激怒したらしい。
フウタは、その想像上の修羅場を頭の中で再生し、静かにクスクスと笑った。
「いやー、田中くん、すごいね。結果オーライってやつだ。おめでとう」
「フウタさんがそう言ってくれると、気が楽になります。でも、来年は絶対リストチェックを百回やります」
田中くんは、心の底から誓った。フウタはワインを一口飲み、満足げに微笑んだ。
「キミコさん、田中くん。営業のはなしは最高だ。さて、僕の任務はまだ終わらない」
フウタは辺りを見回し、次の標的を探し始めた。
彼の目線の先には、経理部のカズミ(40代、フウタの古いパソコンの主なユーザー)が、遠慮がちにチキンを突いている姿があった。フウタの次の獲物が決まった瞬間だった。
「キミコさん、カズミさんを連れてきてくれないかい?聞きたい話があるんだ」
フウタの誘いで席にやってきたカズミさんは、フウタよりも一回り年上の経理のベテランだ。フウタがオフィスで一番お世話になっているのは、このカズミさんが使う起動に5分もかかる骨董品PCである。
「カズミさん、お疲れさまです」
フウタは、遠慮がちにグラスを差し出した。
「フウタさん、お疲れさま。田中くんもナイスファイトだったわね。経理としては、あれだけ仕入価格を下げてくれると、年明けの予算組みが楽になるんだけど」
カズミさんはそう言いながら、チキンを一切れ口に運んだ。フウタは、すかさず本題に入ろうとした。
「あの、カズミさん、実は聞いて下さい。最近なんですけど、商売道具のマウスが調子悪いんですけど」
ガリガリ。
フウタの言葉は、カズミさんがチキンを噛み砕く音にかき消されそうになったが、彼女はすぐに手を上げて、フウタの言葉を遮った。
「ストップ、フウタさん。ここは飲みの場だから、仕事の話はなしにしましょうね。それに来年の話をすると鬼が笑うって言うわ。今度ね、今度」
「あ、は、はい。失礼しました」
フウタは慌てて口を閉じた。
カズミさんは微笑むと、仕事モードから一転して家庭モードの顔になった。
「それよりも、フウタさん、いい機会だから相談にのってくれない?うちの中学生の娘がね、新しいパソコンが欲しいって言っているのよ」
「おお、いいですね!」
「でね、いくつか見繕ってくれない?会社のパソコンみたいに大きくて性能の良いのでなくていいからさ、小さくて安いのを何個か」
フウタは、一瞬フリーズした。
「え、何個かって言われても。パソコンなら基本、一台でいいでしょう、一台で。何をしたいかによりますけど」
「そうよね!だからプロに聞こうと思って。」
「コスパ優先だったら、ヨドバシカメラで僕が代わりに買ってきてあげますよ。どうせ、持って帰るの重いって言うんでしょうから」
フウタは反射的に、自分から面倒な依頼を引き受けてしまっていた。これが彼の性分だった。
「ありがとう、助かるわ!うちの娘、美術部に入ったんだけど、最近、デジタルで絵を描きたいって言い出して。タブレットじゃなくて、ちゃんとしたパソコンでって。あとは、部活のポスター作りとかも」
キミコがワインを一口飲み、「へえ、デジタルイラストかぁ、今どきね!」と合いの手を入れる。
そこからは、カズミさんの娘さんが中学校でどんなクラブ活動をしていて、どうしてパソコンが必要になったか、そしてどのくらいお小遣いを貯めているかという、微笑ましい話が20分ばかり続いた。
フウタは、時折サンドイッチを補充しながら、相槌を打つ。その話に引き寄せられるように、キミコさんと同期の営業、タクマさんとヨシコさんも輪に加わってきた。
「カズミさんの娘さんがデジタルイラストね。うちの子も最近、動画編集にハマり出してさ。フウタくん、動画編集もできるパソコンって、どれくらいするの?」
と、タクマさんが聞く。
「フウタさーん、うちの経費計算の古いパソコン、来年は絶対買い替えてくれるって、社長に交渉してくれない?この際だから、カズミさんの娘さんのパソコンと抱き合わせで!」
と、ヨシコさんが冗談めかして言った。
フウタの周りには、いつの間にか小さな人の輪ができていた。彼の役割は、飲み会の中心でサンドイッチとワインを楽しみながら、皆の「最近どう?」を聞き出すこと。フウタの夜は、まだまだ長そうだ。
初売り戦争とプロのこだわり
新年を迎えても、フウタに休みはなかった。正確に言えば、仕事は休みだが、年末の飲み会で引き受けた、経理部カズミさんの娘へのパソコン選定・購入代行という私的プロジェクトが残っている。
プロは、年明けから動く。フウタは元旦の夜に、カズミさんから聞いたデジタルイラストとポスター作りという用途を脳内で反芻し、最適な構成を割り出していた。
ターゲットは、都内でも有数の巨大電気店、ヨドバシカメラの初売りだ。時刻は朝9時45分。開店15分前だというのに、すでに店頭には長蛇の列ができている。フウタはその熱気に少し気圧されながらも、手袋をはめた手でスマホのメモアプリを開き、ターゲットリストを確認した。
【カズミさんの娘用プロジェクト:必要構成】
ノートパソコン:デジタルイラスト(ペイントツール必須)、ポスター制作。スペック:CPUは中程度、メモリは8GB以上。最重要は画質。
戦略:一世代前のモデルの在庫処分品を狙う。機能は十分で、価格は大幅ダウン。※これぞSEの知恵
周辺機器:イラスト制作の効率化。ペンタブレット(Wacomの安価な板タブで十分)を必ずセットで買うこと。
フウタは自分に言い聞かせた。ノートパソコンだけを買うのは凡人のやることだ。プロの仕事とは、利用者が次に欲しいと思うであろうツールまで見越して、先回りして提供すること。
カズミさんは小さくて安いものを何個かと言っていたが、きっとそれは最高の組み合わせをいくつかという意味だろう。
よし、ノートPCとペンタブの連携チェックは、僕のプロ魂にかけても必須だ。もしカズミさんがいらないって言ったら、自分で使えばいい。うちの骨董品PCじゃ、さすがにペンタブなんて認識しないだろうし、検証機として置いておこう。
彼は、すでに不要になった場合の自己消費ルートまで確保済みだった。
定刻の午前10時。シャッターがガラガラと上がり、店内へと雪崩のように客が吸い込まれていく。
フウタは、特売のテレビやゲーム機目当ての集団とは別の、PCコーナーへと冷静に向かっていく。
「急げ!あのワゴンだ!」
彼の目に飛び込んできたのは、在庫一掃処分!新モデル発表に伴う最終価格!と書かれたポップが貼られた台だった。
まさにフウタの狙い通り、ディスプレイ品質に定評のあるメーカーの、一世代前のモデルが並んでいた。価格は定価から30%オフ。これならカズミさんの予算内のはずだ。フウタは、スペック表を片っ端から確認し、目的のモデルを確保すると、そのままペンタブレットのコーナーへ直行。
イラスト初心者向けのシンプルな板タブも、初売り価格になっていた。ノートパソコンとペンタブレットを両手に抱え、レジに並ぶフウタの顔は、サンドイッチとワインをたらふく食べた昨年末の夜と同じくらい、満足感に満ちていた。
「これで、カズミさんの娘さんのデジタルデビューは万全だ。あとは、どうやってこの二つのアイテムを、彼女に押し付けるかだな」
レジ袋から覗く、新しいガジェットの箱と、新年の人混みのざわめき。フウタの新年は、こうして誰かのための世話焼きで幕を開けたのだった。
プロの道徳律と夜の配達作戦
正月の都内は、いつもより空気が澄み、車の音も少ない。フウタは、昨年末の飲み会で田中くんが言っていた来年はリストチェックを百回という言葉を思い出しながら、それよりも遥かに厳格な、心の中で守るべきプロの道徳律を再確認していた。
フウタはシステムエンジニアだ。会社の全パソコンのトラブルシューティングを担っている。
その気になれば、経理部のカズミさんが使う骨董品PCの暗証番号や、ファイルの中身、さらには経理部の全社員の給与計算ファイルだって、日常の作業中にそれとなく目にするチャンスはいくらでもあった。
カズミさんの住所だって、何かトラブルがあれば、社内ネットワークを介してすぐに見つけられる。だが、彼はそれを頑なに拒んできた。
システムエンジニアは、知ってはいけないことを見て見ぬふりをする力が必要だ。これが、僕たちの唯一の道徳なんだ。
彼の頭の中では、これが社内ネットワークの信頼を維持するための必須スキルであり、もし誰かがこれを破れば、都内のふるさとネットという小さな通販会社の平和は崩壊する。
だからこそ、彼は今まで一度も、カズミさんの個人情報をメモしたり、仕事とは無関係な好奇心でファイルを開いたりしたことはなかった。
フウタが手に入れたカズミさんの唯一の個人情報は、飲み会の終わりにご依頼の品物が手に入ったらお届けに上がりたいので、お休み中に一度お電話していいですか?と、ごく自然に尋ねてゲットした電話番号だけだ。
正月休みは1月3日まで。猶予はなかった。
フウタは、初売りの戦果、ノートPCとペンタブを手にして、1月2日の夕方から電話をかけ始めたが、カズミさんは一向に出ない。留守電にも、フウタのプライベートに踏み込みすぎないという倫理観が邪魔をして、メッセージは残せなかった。
そして、3日の午後6時過ぎ。ようやく電話が繋がった。フウタは、深呼吸をして、ハキハキとした声で話しかけた。
「もしもし、カズミさんのご自宅でしょうか?新年おめでとうございます。ふるさとネットのフウタです」
電話の向こうで、わずかな間が空いた。
「はい?どちらさまでしょうか?」
フウタは、頭をガツンと殴られたようなショックを受けた。
えっ、誰?ってどういうこと!?フウタです、って言ったのに!僕の声ってそんなに特徴ないかな。しかも、一週間前まで私のパソコンが動かない!って言われてたのに!
たった数日間の正月休みで、カズミさんの中でフウタの存在が完全に仕事場のモブにリセットされていたことに、フウタは内心で深く傷ついた。
モブとは「モブキャラ」という言葉からの派生で、「主要なキャラクター以外のその他大勢」的なニュアンスがモブにはある
「あ、フウタです!フウタ!年明けにパソコンの件でご連絡するかもしれませんと申し上げましたが、システム担当のフウタです!」
フウタは少し大声になった。
「ああ!フウタさん!ごめんなさい、ごめんなさい!うちの電話にフウタさんの番号が登録されてないから、全くわからなくて!もうお正月ボケで頭が働いていませんでした!」
カズミさんの明るい笑い声が、フウタのショックを多少和らげた。
「いえいえ、大丈夫です!実はご依頼のパソコンと、それから、アーティストとしてこれがないと始まらない周辺機器もバッチリ手に入りました」
「あら、さすがフウタさん!ありがとうございます!」
フウタは、この日のうちにミッションを完了しなければならない。
「ついては、今日中にお届けしたいのですが。何しろ明日から仕事ですし。ただ、こちらの都合で恐縮なのですが、夜9時頃になってしまうのですが、ご都合どうでしょうか?」
フウタは、夜9時という時間を言えば、さすがに今日はもう遅いからと断られるだろうと思っていた。しかし、カズミさんの返事は、フウタの予想を裏切った。
「大丈夫よ!娘も楽しみにしていますし。全然気にしないでください。9時、お待ちしていますね」
フウタは、重いノートパソコンの箱と、小さなペンタブレットの箱を前に、大きく深呼吸をした。こうして、フウタの私的プロジェクトは、カズミさんの自宅訪問という、フウタにとって新たな修羅場へと進むことになったのだった。
菊名での暖かな遭遇
電話を切ったフウタは、重い使命感に駆られて、すぐに自宅のある船橋からカズミさんの自宅がある菊名へのルート検索を開始した。千葉と神奈川。都内を横断する、乗り換えを複数挟む複雑なルートだ。
夜9時ちょうどに到着するためには特急は使えないな。乗り換え案内アプリで最短ルートを!
フウタは、初売りの戦利品であるノートパソコンとペンタブレットを頑丈な紙袋に入れ、急いで家を出た。
電車の揺れで箱が傷つかないように、まるで機密文書でも運ぶかのように慎重に抱えて。しかし、やはり夜間の複雑な乗り換えは時間を食い、菊名駅に到着したのは約束の9時を少し回った頃だった。
カズミさんの家のインターホンを押すと、少しの間の後、玄関の扉が開いた。対応してくれたのは、カズミさんの旦那さんだった。フウタよりも少し恰幅の良い、優しそうな雰囲気の男性だ。
「ああ、フウタさん!わざわざすみません、うちの妻がご迷惑をおかけして」
「いえ、とんでもないです。ふるさとネットのフウタと申します」
フウタは深々と頭を下げた。その直後、奥からカズミさんが顔を出し、フウタを手招きした。
「フウタさん!本当にありがとう。わざわざこんな遅くに。ほら、せっかく来てくれたんだから、上がって、お屠蘇の1杯だけでも上がっていってくださいな」
「えっ、いや、あの」
フウタは慌てた。まさか上がり込むことになるとは想定していなかった。彼はプロの道徳律に基づき、プライベートへの不干渉を強く意識していたため、動揺を隠せない。
しかし、カズミさんに促されるままリビングに通されると、そこはとてもアットホームな空間だった。テレビでは、家族でDVD鑑賞をされていたらしく、画面にはハリウッド映画の字幕が流れている。テーブルの上には、みかんと少しのお正月料理が並べられていた。
「こちら、娘のユリカです。ほら、挨拶しなさい」
カズミさんに促され、フウタはユリカさんと初めて対面した。
ユリカさんは、カズミさんと同じく丸い目をした、少しはにかんだ中学2年生だ。
「こ、こんにちは。ふるさとネットのフウタです。これ、お年玉代わりじゃないけど、大切に使ってくださいね」
フウタはパソコンとペンタブレットの紙袋を差し出した。
「わあ、ありがとうございます!」
ユリカさんは目を輝かせた。フウタはすかさず、ユリカさんに向けたプロのひと言を添えた。
「ええと、使い方わからなかったり、なんか変な動きをしたりしたら、気楽に連絡してね。僕、得意だから」
キモいと思われたかもしれない!フウタは、この余計な一言が、思春期の女の子にはどう響くか一瞬で不安になった。
だが、ユリカさんはニコッと笑って、はい!と返事をしてくれたので、フウタは内心ホッと胸を撫で下ろした。
「さあさあ、遠慮しないで、お屠蘇じゃなくてもビールでいいかしら?あなた、フウタさんにビールを」
「では、遠慮なく」
フウタは、勧められるままにビールを一杯いただいた。
一口飲むと、昼間の初売り戦争で消耗した体に染み渡る。ビールを飲みながら、カズミさんと旦那さんは、娘のユリカさんが最近どんなことに興味があるか、中学校での出来事など、他愛もない話をしてくれた。
フウタは再び聞き役に徹するモードに入り、温かい家族の雰囲気を味わった。しかし、この温かさに長く浸っているわけにはいかない。
「すみませんカズミさん、もうそろそろお暇しないと、帰りの電車がなくなっちゃうので」
フウタが立ち上がると、カズミさんと旦那さんは顔を見合わせた。
「あら、そうだったわね!フウタさん、遠いのにごめんね」
「大丈夫ですよ。ビール、ごちそうさまでした!」
フウタが玄関を出ると、なんとカズミさんと旦那さんが、駅まで送ってくれると言う。
「夜道は暗いからね。それに、お礼をちゃんと言いたくて」
旦那さんが優しく言った。
菊名駅までの道のり、フウタは二人に深々と頭を下げ、感謝の言葉を繰り返した。
最終電車に滑り込み、船橋へと向かう電車の中で、フウタは重い紙袋から解放された自分の手を眺めた。たった数時間の短い冬休みだったけれど、なんだかあったかい家族愛に触れることができたなぁ、と思った。
彼が普段、トラブルシューティングという孤独な作業の中で触れるのは、冷たい鉄と埃を被った古いパソコンばかりだったからだ。
僕もいつか、あんな温かい家庭を持てるかな。フウタは、年末の喧騒と、正月早々の任務を終え、ほろ酔い気分でまどろんだ。明日はもう仕事始め。オフィスには、また悲鳴を上げる骨董品PCと、様々なトラブルが待っているはずだ。
三千円と、再起動の魔法
1月4日、仕事始め。
都内のふるさとネット社内は、まだ正月ボケと、年末の商戦の疲れが残る、どこかゆるんだ空気に包まれていた。
フウタは、最終電車で船橋に戻り、短いながらも温かい体験をした菊名の夜を夢に見ながら、なんとか定時に出社した。
「あけましておめでとうございます」
「今年もよろしく」
挨拶が交わされる中、フウタは自分のデスクで、年季の入った業務日報用のPCを起動させた。彼の目の前には、今日もまた最近どう?と声をかけてくる誰かの、あるいは、悲鳴を上げる骨董品の気配が漂っている。
そして昼休み。フウタがコンビニ弁当を取り出そうとした瞬間、経理部のカズミさんが、ニコニコとした笑顔で彼のデスクにやってきた。
「フウタさん、ちょっといい?」
カズミさんは、フウタの目の前に、ぴしっと折られた紙幣と、なんとも可愛らしい、今年の干支のイラストが入ったポチ袋を差し出した。
「娘のパソコン、本当にありがとうね。あれで12万円弱だったかしら。これはその代金と。それから、フウタさん、こんなに正月休みに動いてくれたお礼」
フウタはまず代金を受け取り、次にそのポチ袋を手に取った。
中にはピン札の三千円が入っていた。
三千円も。
フウタは心の中でソロバンを弾いた。真冬の初売り戦争への参戦、船橋から菊名への片道2時間近い夜間移動、そしてユリカさんへの操作指導という名の自己紹介。これだけの作業量から見れば、三千円は確かに割に合わない格安労働かもしれない。
しかし、フウタはすぐに考えを改めた。総額12万円にもなるノートパソコンとペンタブレットに対して、カズミさんが個人の財布から、これだけのお礼を出してくれたのだ。カズミさんも、フウタも、都内で贅沢な暮らしをしているわけではない。だからこそ、このたった三千円には年末の温かい家族愛にも似た強いありがたみが込められている気がした。
「カズミさん、ありがとうございます!これ、本当に助かります!」
フウタは素直に感謝を伝え、ポチ袋を丁寧に机の引き出しにしまった。その直後、まるで何かに呼ばれたかのように、カズミさんの笑顔が曇った。
「あのね、フウタさん。実を言うと、うちの仕事用PCが、さっきからおかしいのよ」
「おかしい、というと?」
「ネットに接続できません、ってエラーが出てて。経理への連絡メールも何も受信できていないのよ。さっきまで動いてたのに、そんなエラー表示が出ちゃって」
カズミさんの机に置かれた、埃をかぶった年代物のデスクトップPC。フウタにとって最も見慣れた、そして最も厄介な商売道具だった。フウタは立ち上がり、昨日のお礼を兼ねて、まず一言声をかけた。
「まずは、昨日はお気遣いいただきありがとうございました。娘さん、パソコン喜んでくれましたか?」
「ええ、もう大喜びで。ずっと横で設定を手伝わされてたわ」
カズミさんは少し疲れた顔で笑った。フウタは、トラブルPCの前に立ち、その巨大なモニターをじっと見つめた。彼は静かにカズミさんに指示を出す。
「分かりました。ネットに繋がらない、ですね。ええと、ではカズミさん、とりあえず再起動してみてください」
フウタのトラブルシューティングは、常にここから始まる。彼の唯一のトラブルシューティング法と言っても過言ではない。
彼は知っていた。この年代物のPCは、ハードウェアの故障や、ネットワークカードの物理的な接触不良、あるいは、OS内の設定ファイルのちょっとしたバグが原因で動かなくなる。そして、その原因の9割は再起動によってリフレッシュされ、奇跡的に解決してしまうのだ。
フウタは心の中で付け加えた。
再起動で直らないなら、もうメーカー修理に出すしかない。僕の手に負えるのは、再起動の魔法だけだ。
フウタは、三千円のお年玉を手にした充足感と、目の前のPCが再起動という名の神頼みで直ってくれることへの、かすかな期待を胸に抱いていた。
フウタの決断と新しい道
カズミさんはフウタに言われるまま、神に祈るような面持ちでPCの電源ボタンを押した。年代物の骨董品PCは、唸りを上げ、ゆっくりと再起動を開始する。
フウタは、三千円のお年玉と、温かい菊名の記憶を胸に、静かに奇跡が起こるのを待った。再起動が完了し、デスクトップ画面が表示される。フウタは祈るように見守ったが、希望は無残に打ち砕かれた。画面の右下には、期待を裏切らない赤いバツ印と共に、無情なメッセージが再び表示されていた。
『ネットワーク接続がありません』
「あーあ」
カズミさんは、ため息とともに肩を落とした。フウタも内心で頭を抱えた。再起動の魔法が効かない。これはもう、ソフトウェアや設定の問題ではなく、ハードウェア、つまり物理的な故障であることを意味していた。
メーカー修理に出した結果、やはりマザーボードの交換が必要という連絡が入った。フウタは冷静に修理の見積もりをカズミさんに回し、代替機の手配を終えた。
カズミさんが一時的に田中くんの隣で業務をこなす様子は、フウタにとってどこか微笑ましいコメディのワンシーンのように映った。自分のデスクに戻ったフウタは、引き出しから三千円入りのポチ袋をそっと取り出した。
三千円はパソコンの修理代でも交通費でもない。これは、僕の人助け代だ。
フウタは、自分が誰かの役に立てているという小さな満足感を噛み締めた。だが、同時に胸には大きな虚無感があった。フウタの仕事は、古いPCをどうにか延命させ、社内のシステムという冷たい壁を守ること。
一方で、キミコやタクマ、ヨシコといった営業職は、活き活きと顧客と話し、新しい企画を次々と生み出し、会社の外へとフウタの知らない喜びを運んでいる。
特に、カズミさんの娘のためにPCを選び、その喜びを間近で見たこと、カズミさんが三千円という心からの感謝をくれたことが、フウタの意識を変えた。彼のトラブルシューティングの知識は、冷たい鉄を直すためではなく、誰かのお困りごとを解決し、笑顔を生むために使いたい。
「よし」
フウタは立ち上がり、社長のモリオさんのデスクへ向かった。
「社長。相談があります」
数日後、フウタは経理と営業の間で正式な移動手続きを終えた。モリオ社長は最初こそ、
「お前が?話は聞くだけのフウタが?」
と腹を抱えて笑ったが、フウタが、
「社内のPC全てを知っている自分が、お客様の悩みを聞けば、必ず最適な提案ができる」
と熱弁すると、社長は深く頷いてくれた。
それから半年後。
フウタは、新しい名刺を手に、クライアントである酒造会社のオフィスにいた。
「フウタさんのおかげで、経理システムと在庫管理システムがやっと連携しましたよ!以前の担当者は無理だの一点張りだったのに」
フウタは、営業職のスーツに身を包みながら、冷静に答える。
「ありがとうございます。結局、古いサーバーのネットワーク設定の中に、以前の管理者が仕込んだルーティングのバグが残っていただけです。システムの入れ替えよりも、そのバグを見つける方が早かったんですよ」
フウタはSE時代に培ったシステム内部の深層構造とトラブルの原因を即座に特定する能力をそのまま営業に持ち込んでいた。
彼は売るのではなく、お客様のPCとシステムの悩みを自分の知識で解決し結果として最適な商品を買ってもらうという独自のスタイルを確立していった。
彼の成績は、ふるさとネット営業部の中でも普通の営業マンと同じくらいまで成長した。
フウタは、達成感とともに酒造会社を後にした。次のアポイントメントに向かう電車の中で、フウタは窓に映る自分の顔を見た。そこには以前の静かなSEの顔ではなく、人との交流にエネルギーを燃やす活き活きとした営業マンの顔があった。
フウタは、クライアントに電話をかける前に、思わず口癖を呟いた。
「最近どう?フフ、これが、最高の営業トークだ」
彼は、もう冷たいPCの前に一人で座っているのではない。システムと人、その両方の世界を繋ぐ役割を担っていた。フウタの、新たな物語の始まりだった。
モリオ社長はフウタが後戻りしないことを見届けて、システムエンジニアをもうひとり雇ってくれた。










