
「ねえ、ひかる。今日、数学の授業で隣の席のひとがさ、いきなり、ワタシ、タカハシデスって言われて、変な汗かいたわ」夜間中学校の校門を軽トラで出たところの信号で、きみこは顔を覆った。「そりゃ、その人が頑張って覚えた日本語で自己紹介したんでしょ。良い人じゃない」「そうなんだけどさ!私もアタシ、キミコデスって返すべきだったのかな!?もう!」
夜間中学
それを聞いて笑うひかるは、今年19歳。となりのきみこも同じく19歳だが、二人の間には決定的な違いがあった。きみこが夜間中学校の正規の生徒であるのに対し、ひかるはきみこの付き添いだった。きみこは昼間、実家で農業の手伝いをしながら、夜に中学校で学び直している。
ひかるは高校卒業後、定職にはついていないものの持ち前の明るさでバイトを転々とする自由人だ。
「まさか19になって、きみこと一緒に個性派揃いの中学校に通うことになるとはねえ」
「だから!ひかるは付き添いでしょ!でも、ひかるがいてくれると本当に心強いんだ。みんな真剣すぎたり、変なおやじとかもいるし、私だけ浮いてる気がして」
夜間中学校の生徒は多岐にわたる。昼間働きながら学ぶ若者、戦時中の事情で学校に通えなかった高齢者、そして日本で暮らすために日本語や基礎教育を学ぶ外国人。平均年齢はおそらく70歳を超えている。
「浮いてるって、ひかるが一番浮いてるわよ。先生に、高橋さんの付き添いで来ている、自由研究枠の小泉さんって言われてるんだから」
「失礼な!私、みんなの代表として、クラスのムードメーカーやってるだけだもん。昨日も田中先生に小泉さんのおかげで、マリアさんの日本語が急に進歩しましたって褒められたし!」
ひかるは、きみこの勉強をサポートする傍ら、日本語に苦戦する外国籍の生徒におしゃれな若者言葉を教えたり、人生の先輩である高齢の生徒から昔の恋愛話を聞き出したりと、本来の目的を忘れかけていた。
夜間中学(やかんちゅうがく)とは、夜間の時間帯に公立中学校で義務教育(中学課程)を提供する学校で、様々な事情で昼間に学べなかった人(外国人、不登校経験者、働きながら学び直したい人など)を対象とし、昼間の中学校と同じ内容を学び、卒業資格を得られる「学び直しの場」です。昼間の中学と同じように、全日制と同様の教育カリキュラム(国語・数学・社会など)と学校行事(運動会、修学旅行など)があり、年齢・国籍を問わず学び直しをサポートしています。Google検索より
ひかるの母親は、娘が昼間家でゴロゴロしているよりはマシと、この夜間の付き添い中学校生活を半ば諦めて見守っていた。
鋼鉄の恋
付き添い生活が始まって一ヶ月が過ぎた、ある晴れた日の午後。ひかるはきみこの理科の参考書を買いに金沢の駅前まで来ていた。
「どうせすぐ飽きるって言ったのに、きみこ、数学だけじゃなくて理科まで手を出したわね。やる気出しすぎでしょ」
ブツブツ言いながら歩いていると、少し奥まった路地のシャッターが開いていた。そこから漂ってくるのは、金属が削られる油と、熱を持った鉄の独特な匂い。好奇心旺盛なひかるは、つい中を覗き込んでしまった。中は想像以上に広く、巨大な機械がいくつも並んでいた。機械の轟音の中に、時折、キーンという鋭い音が響く。
ひかるが目を凝らすと、奥の機械の前で、一人の若い男性が真剣な顔つきで小さなモニターを操作していた。背筋がピンと伸びたその姿は、この埃っぽい工場の中で異様に輝いて見えた。彼は作業服を着ていたが、その清潔感と、時折髪を掻き上げる仕草に、ひかるは目を奪われた。
(え、何、この人。めちゃくちゃ真剣じゃん。アイドルか、役者か?でも作業服)
男性が顔を上げ、ひかるの方を向いた。整った顔立ちで、少し眠たそうな目元。年齢はひかるよりも少し上に見える。彼はひかるに気づくと、一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐにわずかに口角を上げた。
「ん、どうかされましたか?何かお探しですか?」
ひかるは咄嗟に持っていた理科の参考書を前に突き出した。
「あ、ち、違います!あの、この、えーっと、科学の材料を探していて!学校の課題で、何か、その、金属の、切れ端しみたいなものって売ってないかなーって!」
完全な嘘だった。男性は目を丸くした後、クツクツと笑いだした。
「金属の切れ端し?高校生かな?うちの工場で探してる?うちが作ってるのは、自動車の部品だから。廃材なら、隣のスクラップ屋さんへは行かれましたか?」
「こ、高校生じゃありません!19です!中学生です!あ、付き添いで中学校に通ってるんです!」
ひかるは真っ赤になりながら、つい本当の自分の状況の一部を混ぜて反論してしまった。
「失礼。19歳でしたか。学生さん?しかも付き添いで。面白いね」
彼は少し考え込み、作業服の胸ポケットの前の名札を見せた。
「僕は、北出光太。ここでNCプログラミングをやってる。もし本当に金属に興味があるなら、もっとちゃんとしたサンプルになりそうな端材をあげてもいいよ、でも、なに中学生?19歳で?」
北出光太。彼が帰り際に差し出した名刺には、金沢市内の小さな町工場「鈴光精密金属」と印刷されていた。NCプログラマー、という肩書きが、ひかるにはなぜかとてもかっこよく見えた。
「すずみつせいみつ、北出さん。えっと、私は」
「いいよ、また、どこかで」
光太はそう言って機械の操作に戻った。ひかるは、まるで全身の空気が入れ替わったようなめまいを感じながら、その場を立ち去った。
町工場の、年上(たぶん)、NCプログラマー。やばい、恋だわ!
ひかるの頭の中は、金属のクズではなく、北出光太という名前に完全に占領されてしまった。彼女の付き添い中学校生活は、この日を境に彼のいる町工場への奇妙な片道切符を握ることになったのだった。
致命的なアルバイト
光太と出会ったあの日から、ひかるの生活は一変した。週に一度の週末に彼女は必ずきみこを伴い、市内のその工場へと向かうようになった。もちろん、表向きの理由は、中学校の理科の自由研究で使う金属サンプルを集めるためだ。
「ねえ、きみこ。この真鍮の切り粉、色がキラキラしてて綺麗じゃない?これ、アクセサリーになるわよ」
「ひかる、これは旋盤で削り取った金属クズでしょ?実験で使いたいの。アクセサリーじゃなくて、化学変化を見るのよ、中学の授業じゃ教えてもらえないことを学ばないとね」
きみこは真面目にノートを取り、光太が用意してくれた金属片を種類別に分類していた。一方の光太は、最初こそ戸惑っていたものの、ひかるの破天荒な言動と、きみこの真面目さのギャップが面白くなったのか、二人の金属科学の実験に積極的に協力するようになっていた。
彼は週末、工場を軽く開けて、NCプログラミングの合間を縫って、真鍮やステンレス、アルミなどの端材をひかるに提供した。
「北出さん、見て!このアルミ、光にかざすと虹色になるの!これは飾りになりますね!」
「それは単に、削り出した角度が絶妙で光が乱反射してるだけだよ、小泉さん。化学じゃなくて物理だね」
光太はそう言ってクスリと笑う。ひかるの目的はあくまで光太と会話すること。彼女は彼の、作業服の襟から覗く首筋や、プログラマー特有の細く長い指を観察することに夢中だった。最初は光太に憧れを抱いていたきみこだったが、すぐにひかると光太のコメディのようなやりとりに呆れて、純粋に、金属の種類と特性に興味を持ち始めていた。
きみこの理科のノートは、すでに夜間中学の同級生の間で光太の町工場から得た貴重なメモとして回覧されるほど充実していた。こうして三人の奇妙な関係は、約一ヶ月半続いた。ひかるはすっかり光太に夢中で、きみこはすっかり金属オタクになり、光太は二人の若いエネルギーに触れて少し週末が楽しくなっていた。
ビーチサイドの判断
ある猛暑の土曜日。光太はさすがに工場に二人を呼ぶのは忍びないと、近くの海岸に誘った。
「今日はさすがに金属レクチャはお休みにして、海に行こう。こんな夏らしい格好してるから工場では目立ってしまうよ、なんか変だし」
ひかるときみこは、それぞれ持っていた金属特性の専門書コピーと金属サンプルをバッグにしまい、光太のライトバンの助手席と後部座席に乗り込んだ。
砂浜で、ひかるは光太の気を引こうと砂に埋めたきみこに海水をぶっかけたり、なぜか光太と砂浜でビーチフラッグ対決を挑んだりして大はしゃぎした。
「やりました!北出さんの負け!罰ゲームで、私たちに新しいあだなをつけてください!」「ちょっと待って、それ全然罰ゲームになってないよ!?」
夕方、潮風に吹かれ、疲労困憊で二人はぐったりしていた。光太のライトバンが金沢方面へ向かって走り出した頃、きみこがポツリと言った。
「ねえ、北出さん。私、ちょっと喉が渇いちゃった。このまま金沢まで帰るのは遠いから、おうちによって、お茶とかもらっちゃダメかな?」
その言葉に、ひかるはギョッとした。彼女の恋はまだ工場の前で立ち話をするというレベルだったのだ。しかし、ひかるには今日、絶対外せないアルバイトがあった。
「えーっ!きみこ、急に大胆!まあ、いいけどさ。私はパス!ごめん、北出さん。私、実家のTシャツプリントのバイトがあるから、この一つ手前のバス停で降ろしてもらうね!」
ひかるの家族は金沢で小さなTシャツプリント店を経営しており、この時期は夏祭りTシャツの注文で猫の手も借りたい状況だった。ひかるは光太と二人きりになるチャンスは明日もある!と軽く考え、親友を置いていくという恋の戦略において致命的な判断を下した。
「あ、そうなの?じゃあ、お疲れ様。また来週」
と光太はあっさり言った。ライトバンが走り去るのを見送りながら、ひかるは心の中で小さくガッツポーズをした。
「さすが私、今日はTシャツで、明日また金属レクチャでまた会える!」と。
呪いのTシャツ
それから数日が過ぎた。夜間中学でのきみこの様子がおかしい。いつものように教科書やノートを開いているのだが、金属の話をしない。それどころか、授業中に突然ニヤニヤし始め、日本語を勉強している外国人のマリアさんに、なぜか恋の駆け引きについて尋ねている。
「ねえ、マリアさん。もし、すごくいい人を見つけたら、すぐにアタックする?それとも、ちょっと引いてみる?」
「キミコ、アタック!アタック、イズ、ベスト!」
そして、きみこが夜間中学の休憩時間にブレザー風の上着を脱いだその下にあったTシャツを見て、ひかるは戦慄した。それは、ひかるの実家でプリントされたものだった。「 鋼鉄の愛」
「き、きみこ、これ、いつ作ったの?」
「あ、これ?この間、北出さんの家にお邪魔したときに、ね?すごく意気投合してさ。金属が大好きって話で盛り上がっちゃって。そしたら北出さんがね、その熱意Tシャツにしたらいいのにって言ってくれて!」
ひかるの血の気が引いた。
「デザインはどうしたの?まさか」
「うん。北出さんの家で、徹夜でデザインしたんだ。 私の家まで戻るのが大変だからって、北出さんの家に泊まっちゃった。朝まで金属の可能性について語り明かして、超楽しかった!」
「北出さんの家で徹夜」「泊まっちゃった」「金属の可能性について語り明かした」
その言葉は、まるで金属加工の刃物のように、ひかるの心を深く鋭く削った。
金属の可能性って、そっちじゃないでしょ!私の恋の可能性でしょ!?あのとき!なぜ私はアルバイトなんかに行ったのよ!自分の実家でプリントできるTシャツのために、恋の戦場を捨てたなんて!
ひかるは、自分が恋に落ちてから一ヶ月半かけて築いた北出光太の心を掴むための実験という名の努力が、たった一晩で親友きみこに追い抜かれてしまったことを理解した。ライトバンの助手席に座るのがきみこになったらどうしよう。ひかるの頭の中で、Tシャツプリントのアルバイトと引き換えに、恋を失った自分を呪う声が響き渡った。
三年目のさざ波
ひかるは、親友きみこが光太の家で徹夜のデザイン作業をしたという話を聞いて、一晩で恋の主導権を失ったことを悟った。仕方ないわ。きみこは真面目で純粋。私は光太さんの顔が好きで、きみこは本当に金属が好き。純愛には勝てないのよ!そう理屈で割り切り、きみこの恋を応援するという大人の女性らしいスタンスを取ることにした。
もちろん、その決断は、きみこと光太が順調に関係を進展させていく中で、毎度のように揺さぶられることになる。
「ねえ、ひかる。この間、北出さんが仕事のデバッグ中に、金属製コースターをプレゼントしてくれたの!これ純度が高いから、君のコレクションにするといいよって!きゃー!」
「そ、そう、コースターか。お皿じゃないだけマシね。でも、熱いものは乗せない方がいいわよ。熱伝導率が高いからって、何言ってんだ私!」
きみこはそれからも頻繁に工場へ出かけ、光太の家に泊まり、その度にひかるに事細かに報告した。報告の内容は、いつも金属の話題に彩られていた。
「この間ね、北出さんが夜中までプログラムの打ち込みをしてるのを見てたんだけど、ふと彼が私の顔を見て、君の瞳の輝きは、最高品質のステンレスみたいだって言ってくれたの!」
「ステン、レス?(それは錆びにくくて強度があるって意味か、ただの金属って意味か!?どっちだ!?)」
ひかるは笑顔で
「良かったね、きみこ」
と言いながら、心の奥ではさざ波どころか、津波警報が鳴り響いていた。彼女の唯一の救いは、きみこから報告される進展が、どう聞いてもロマンチックではなく、ひたすら理系オタク同士の交流にしか聞こえなかったことだ。そして、ひかるは恋の敗者としての責務を果たし続けた。それは、きみこが考案する理系Tシャツを黙々とプリントすることだ。
※きみこはそのTシャツをネット販売していた。
金属は愛、に始まり、元素記号は恋、NC旋盤の鼓動など、奇妙なTシャツの注文は続き、ひかるの実家のTシャツプリント店は、夜間中学の関連団体(きみこのこと)のおかげで、この3年間安定した収益を得ることになった。
22歳のフリーダム
それから3年。ひかるは22歳になっていた。きみこも夜間中学を卒業し、実家の農業を継いだ年だった。彼女はそこで、夜間中学と光太から学んだ物理・科学(化学も)の知識を活かし、超精密な自動給水システムや、ドローンによる土壌分析など、農業のハイテク化を推し進める若き経営者となっていくつもりだった。
きみこは相変わらずで、時々Tシャツの注文をメールでよこしてきた。それはもっぱら農業用の新しい素材というくくりのように思えた。
一方、ひかるは相変わらずTシャツ屋のバイトをメインに、時々カフェで働いたりと、自由奔放な生活を送っていた。
夜間中学の付き添いがなくなった今、学校近くにある光太の工場へ行く理由もなくなり、光太とは自然と疎遠になっていた。きみこと光太の関係も3年の間に変化していたようだった。
「最近、北出さんとどうなの?」
と、ひかるが聞くと、きみこは少し顔を曇らせた。
「うーん。北出さん、最近、新しいNCのシステム開発で超忙しいみたいで。連絡しても、今、加工物の表面仕上げがミクロン単位で気になってるとか、仕事の話ばっかりで」
きみこは、以前のように熱量高く金属の話をしなくなっていた。恋の炎が、仕事の忙しさという鉄壁に阻まれて、少しずつ弱まっているように見えた。
(あんなに徹夜までして盛り上がったのにね。恋って、金属よりも脆いのかしら?)
ひかるは静観を決め込んだ。いつかきみこの恋が終われば、その時は親友として慰めてあげよう、と。そして、できれば自分に順番が回ってこないかな、と心の片隅で願っていた。
どろどろの破局
その日は突然やってきた。ひかるがTシャツ屋の店内で、次の新作Tシャツ「石川の地層」のデザインをチェックしていた午後。店のシャッターが開き、一台の汚れた軽トラックが、金沢市内の小さな店には不釣り合いな爆音を立てて滑り込んできた。
運転席から降りてきたのは、全身泥まみれのきみこだった。作業服には大きな土の染みがつき、髪は乱れ、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「ひ、ひか、るぅぅぅ!」
きみこはTシャツ屋の奥まで走ってくると、ひかるの体を力いっぱい抱きしめた。ひかるの着ていた最新作の試作品Tシャツにも、泥ときみこの涙が盛大に付着した。
「ちょっ、きみこ!何があったのよ!泥まみれじゃない!」
「ひかるぅ!私、ふられちゃったのぉ!」
きみこはそう言って、床に崩れ落ちた。農業で鍛えられたはずのたくましい体は、今、失恋のショックでぐにゃぐにゃになっていた。
「北出さんが!君の愛は重すぎる。僕が今探求しているのは、もっと軽くて強靭な新素材なんだって!」
「新素材!?」
きみことひかるの絶叫が店内に響き渡る。ひかるは一瞬、頭が真っ白になった後、猛烈な感情に襲われた。
(新素材って何よ!私、金属より軽くて強靭な素材なんて、きみこに教えてないわよ!)
(ああ、神様!ざまあみろ! じゃなくて、かわいそうに、きみこ!親友の私が、今こそ、この泥と涙を拭ってあげなくては!)
ひかるは急いで雑巾を手に取り、まずは床の泥を拭き始めた。恋の破局も、ファミリーコメディにおいては、まず床を綺麗にするところから始まるのだ。
恋の怨念
Tシャツ屋の床の泥を拭き終えたひかるは、ようやく泥と涙の塊となったきみこの顔を覗き込んだ。
「ねえ、きみこ。ちょっと落ち着いて。顔洗ってきなさい。とりあえず、その作業服はもう、新素材になっちゃってるから脱いで」
きみこは嗚咽を上げながら、破局の経緯を語った。
「北出さんはね、春から大阪に行くの。もっと大きな会社で、新しいNC技術を使って、誰も見たことのない素材を削りたいんだって。だから、私といると物理的に距離が離れるし、精神的にも、愛の重さが探求の妨げになるって」
ひかるは絶句した。
(愛の重さが、探求の妨げ?あんたの愛は、鉛か何かだったわけ!?)
ひかるは、自分が3年前に逃した恋のチャンスを思い出した。あの時、きみこは光太と金属の可能性について語り明かしたことで、光太の心を掴んだ。しかし、光太の探求心は、もはや純粋な金属愛すら超越し、新素材という、彼女たちには手の届かない高次元の領域に行ってしまったらしい。ひかるは、親友が振られた理由が、恋のライバルである自分の敗因と同じ、彼の仕事への異常な情熱だと気づいた。
「きみこ。ひどい。ひどすぎるわ、北出さん。北出さんのために、あんなに金属の勉強頑張って、農作業で鍛えた腕で、あんなにたくさんTシャツを作ってあげてたのに!」
「そうよ!私が作ったTシャツ、北出さんも着てたのに!」
ひかるの心の中に、光太への憎しみが燃え上がった。その憎しみは、純粋な怒りというよりは、なぜ、きみこの純愛も、私の顔面アピールも、あの人のNC技術には勝てなかったのかという、芸術家が理解できない凡庸な批判に対する憤りにも似ていた。
「あの人、きっと大阪で、新素材に夢中とかいうTシャツでも作るつもりよ!そんなの、絶対に許せない!」
その瞬間、きみこはガバッと顔を上げた。
「ひかる。それだわ。私、負けた理由がわかった。北出さんは、私が作った金属は愛Tシャツを、もう古いものだと思ったんだわ。だから」
きみこは目を爛々と輝かせ、ひかるの腕を掴んだ。
「ひかる!新素材こそ我が命!Tシャツを、至急プリントして!」
「はあ!?何を言ってるのよ、きみこ!?」
「いいから!私は、彼が大阪へ旅立つ前に、彼の探求を理解し、応援していることを示さないと!そして、そのTシャツの売上で、私は新素材の株を買うわ!」
ひかるの憎しみは、きみこの底なしの行動力と、Tシャツプリントという現実的なビジネスに、またしても利用されてしまった。
恋の裏返し
きみこはすぐに立ち直り、光太の新素材という言葉を逆手に取って、新たなビジネスと、光太への理解者アピールを開始した。ひかるは、きみこの破天荒な復讐計画に巻き込まれながらも、光太が大阪へ旅立つ日を数えていた。
「北出さんは、ね?大阪で、もっと大きな機械を触るんだって。そしたら、もっとすごいものができるはずだわ」
きみこは、憎しみではなく、どこか誇らしげに語る。
「あんた、本当に振られたの?」
ひかるの心の光太への感情は複雑だった。最初は、親友を振った男への憎しみ。次に、3年前の自分を後悔させた男への逆恨み。そして、最終的にその感情は、自分の愛より、NC技術と新素材を愛した男への、理解不能な執着へと変わっていった。
(あのバカ。Tシャツの素材だって、どれだけ繊細な熱と圧力がいるか知ってる?それがミクロン単位の加工なんて、どれだけ大変なことか。私にだって、彼の情熱は理解できるわ!)
ひかるは、きみこを慰めるフリをしながら、毎日、光太の顔を思い出しては、心の中で悪態をついた。
「あんな男、大阪で大きな機械に頭をぶつけて、NCのパスワードを忘れてしまえばいい!」
「新素材に恋するなんて、どうかしてるわ!私なんて、そこら辺の綿100%よ!でも、綿100%の良さを知ってる!あんた、本当に何もわかってない!」
ひかるの憎しみは、光太への強烈な興味と恋心の裏返しだった。3年間の片思いが、憎しみという燃料を得て、再び燃え上がろうとしていた。そして、運命の数日後。きみこが大阪へ旅立つ北出さんに、お餞別として新素材Tシャツの第1号を届けに行く!と言い出した。
「ひかる!あんたも来るのよ!親友として、私の勇姿を見届けるの!」
「はあ?なんで私が、あんたの元カレへの健気なアピールを見届けなきゃいけないのよ!」
しかし、ひかるには、3年間の恨みと恋心を精算する、最後のチャンスにも思えた。
「わかったわ。行くわよ、きみこ。ただし、運転は私がする。あんたの軽トラック、泥がついててダサいんだもん!」
ひかるは、22歳にして、7歳年上の元カレを親友に持った、複雑な状況を抱えながら、3年ぶりに夜間中学近くの工場へ向かうことになった。大阪へ旅立つ前の光太と、ひかるの再会が待っていた。
24歳の春
光太が大阪へ旅立ってから、きみこの失恋リハビリ期間が始まった。ひかるは親友の面倒を見るという付き添いのプロとして、きみこの傍に寄り添い続けた。きみこは失恋のショックでしばらく泥にまみれていたが、持ち前の真面目さがすぐに立ち直りを促した。
彼女は失恋の痛みを昇華させるかのように、農業のハイテク化に猛進し、光太への復讐と称して発注した新素材こそ我が命!Tシャツの売上を元手に、実際に農業関連の新素材メーカーの株を買い始めた。
ひかるは、そんなきみこを支えながら、光太への複雑な感情を胸の奥で温め続けた。
「ねえ、きみこ。大阪の北出さん、元気かしらね。あんな大きな会社に入って、今頃、純粋な金属よりも、合成樹脂とか炭素繊維とか、軽くてわけのわからないものに夢中になってるに違いないわ」
「さあね。でも、ひかる。憎んでるくせに、北出さんの転職先の業界情報を一番集めてるのって、あんたよ」
ひかるはムッとした。
「うるさいわね!これは、綿100%の意地よ!あの人が新しい素材に夢中になればなるほど、私はこのTシャツの優しさ、肌触り、着心地の良さを世界に訴える。あんたがフラれたのは、綿じゃなくて金属の愛に溺れたせいよ!」
そう言いながらも、ひかるの憎しみは、3年間の片思いが形を変えたものだった。遠く離れた大阪で、光太がどんな新素材と向き合っているのか、その探求心に自分が入る隙はないのか、ひかるは心の底で彼のことを想い続けていた。しかし、きみこの心は、光太への恋心ではなく、彼に振られた理由である探求そのものへとシフトしていった。
きみこの新素材
光太の旅立ちから丸2年が経ち、ひかるが24歳になった春。きみこは、金沢のTシャツ屋に、今までにないほど真剣な顔でやってきた。そして、テーブルの上に、これまた今までにない、超高級なシルクのTシャツを広げた。
「ひかる。これ、最後にプリントしてほしいの」そのTシャツは、きみこのいつものノリとは違い、控えめに、しかし力強い文字でSee you in the Lab.と書かれていた。
「どういう意味?実験室で会おう?何よこれ。また北出さんへのアピール?」
きみこは首を振った。
「違う。これは、私自身の決意よ。ひかる。私、この春から、スイスの専門学校に留学することにした」「はあ!?スイス!?なんでよ!」
「北出さんが、私の愛を重すぎるって言ったでしょ?その原因は、私が彼の探求に追いついていなかったからだと思ったの。だから私は、農業を極めるために、最先端のWebデザインを研究する、スイスの専門学校の門を叩いたわ。農業のハイテク化には、最先端のNC技術を活かした設計思想が必要だって気づいたのよ!」
ひかるは開いた口が塞がらなかった。あの夜間中学でワタシ、キミコデスと変な汗をかいていたきみこが、たった5年でNCプログラマーの元カレに触発され、スイスの専門学校へ行くという、超高次元の決断を下したのだ。
「留学って。じゃあ、農業はどうすんのよ!」
「大丈夫。遠隔でドローンを操作して管理する。これもWebインターフェースと新技術の応用よ。ひかる、私はもう、北出さんの愛を追うんじゃない。私が、新素材を追いかける側の人間になる!」
きみこはそう宣言し、ひかるに最後のTシャツを託した。
国際線ターミナル
宣言数日後。ひかるときみこは、関西国際空港の国際線ターミナルにいた。
「ねえ、きみこ。なんで関空なのよ。わざわざ大阪まで来て、北出さんに会おうとか、そういう魂胆じゃないでしょうね?」
「違うわよ、ひかる。スイスへの直行便がここから出るし、それに、万が一、北出さんが見送りに来てくれたらって、微塵も期待してないけど!」
きみこは、ひかるがプリントしたSee you in the Lab. Tシャツを抱きしめ、ゲートへと向かう。ひかるは、親友の背中を見つめながら、心の底から感銘を受けていた。きみこは、愛を失ったことで、自分の人生の新しい可能性(Webデザインという新分野)を見つけ出したのだ。
「元気でね、きみこ!向こうで変な金属とか、石とか、拾ってこないでよ!」
きみこが手を振ってゲートを潜るのを見届けた後、ひかるは一人、静かにその場に立ち尽くした。
(きみこは、北出さんの言葉をバネにして、遠いスイスへ行った。私は?私はこの2年間、北出さんへの憎しみをTシャツにプリントして、金沢のこの小さな店で、綿100%の意地を張ってただけだ)
ひかるは、自分が3年前に北出光太と出会い、そして恋に落ちてからの付き添い人生を振り返った。きみこの付き添いとして夜間中学へ。きみこの恋の付き添いとして珠洲へ。きみこの失恋リハビリの付き添いとして2年間。
「もう、やめる。誰かの付き添いは終わり」
ひかるは、遠く離れた大阪の空を仰いだ。光太がいる場所。彼が夢中になっている新しいNC技術と新素材がある場所。
「ねえ、北出さん。あんたの愛は重すぎるなんて、誰にも言わせないわよ。私、小泉ひかるは、これからは私の人生を、あんたの NC 旋盤みたいに、超精密に、自分の力で削り出してやる!」
ひかるは意を決し、きみこの軽トラックのキーを握りしめた。彼女の決心は固かった。向かう先は、きみこの軽トラックが向かうには遠すぎる場所。大阪。彼女の、失われた3年間を取り戻すための、最初で最後の、大胆な単独潜入作戦が、今、始まろうとしていた。
綿100%と新素材
関西国際空港で、きみこの軽トラックを借り受けたひかる(24歳)は、一路、大阪の中心部へと向かった。
(大阪の男なんて、きっとノリが軽くてチャラいんだわ!あんな、愛が重いとか言う理屈屋は、大阪の会社なんかで馴染めるわけない!)
ひかるの頭の中には、きみこを振った光太(29歳)への憎しみが渦巻いていたが、その奥底では、3年間燻っていた恋の炎がNC旋盤の熱のように滾っていた。彼女は光太が勤めるという新素材を扱う大手メーカーのオフィスビルにたどり着いた。しかし、セキュリティは厳重。社員証がないと入れない。ひかるは途方に暮れたが、すぐに閃いた。
(そうだ、私にはこれがある!)
ひかるは、バッグから新素材こそ我が命!Tシャツを取り出し、その場で着替えた。そして、正面受付の前に立ちはだかった。
「あの!すみません!わたくし、新素材開発のためのプロモーションTシャツを届けに参りました!北出光太さんに至急お渡ししたいのですが!」
その迫力と、Tシャツに込められた尋常でない熱意(と、きみこの復讐心)に圧倒され、受付嬢は慌てて光太へ内線を入れた。数分後。スーツに身を包んだ光太が、戸惑った表情でロビーに現れた。3年ぶりに見た光太は、少し痩せて、目の下のクマは濃くなっていたが、以前にも増して知的な雰囲気を纏っていた。
「小泉さん?え、なんでここに?それに、そのTシャツ」
光太はひかるの着ているTシャツを見て、目を見開いた。
「北出さん!久しぶりね!」
ひかるの目には、憎しみと恋心が混ざった、複雑な涙が滲んでいた。
「きみこが、振られた理由を聞いたわ!愛が重いんですってね!あなたは!自分の探求のためなら、純粋な愛も優しさも切り捨てるのね!」
ひかるは涙声で叫び、持っていたTシャツの束を床に叩きつけた。
「あなたには私みたいに軽くて、いつもそばにあって優しくて、でも絶対に切れない綿の素晴らしさがわからないのよ!」
ロビーの社員たちが振り向く中、光太はひかるの叫びを静かに聞いていた。
仕事の契約
ひかるの渾身の告白(兼罵倒)を聞き終えた光太は、フッと息を吐き、静かに言った。
「小泉さん。君のTシャツへの熱意は、相変わらずすごいね」
「熱意じゃないわよ!これは」
「聞いてくれ、小泉さん。僕がこのTシャツを覚えているのは、プリントの精度が、僕のやってたNCみたいなミクロン単位の基準を満たしていたからなんだ」
「え?」
光太は床に落ちたTシャツを一枚拾い上げた。
「この文字のフォントの縁取り。熱と圧力のコントロールが完璧だ。金沢にいた頃、僕はもっと軽くて強靭な新素材を削り出すことに夢中になった。でも、今、大阪に来て、もっと大きな問題に直面している」
光太は真剣な眼差しで、ひかるの目を見た。
「僕が開発している超高性能の新しい素材は、熱収縮率が極端に低いため、従来の工業用プリンターではロゴやマークを正確に印字できない。従来のインクやシルクスクリーンでは、すぐに剥がれてしまうんだ」
光太は、ひかるが着ているTシャツを指差した。
「君のところのプリント技術なら、この新素材にも対応できるんじゃないかと、ずっと考えていた。君のその綿100%の優しさの技術があれば、僕の新素材のプロモーションが完成するかもしれない」
ひかるは、自分の感情が完全に無視され、Tシャツの技術者として見られていることに気づき、力が抜けた。
「つまり、あなたは、私に新素材のプリントをしてほしいってこと?」
「そう。ビジネスのパートナーとして、君の力が借りたい。その愛、じゃなくて、綿100%の意地を、僕の新素材のために貸してくれないか」
ひかるの激しい憎しみと恋心は、光太の究極の仕事愛の前で、見事に屈服させられた。キスも、抱擁も、ロマンチックな告白もない。あったのは、ビジネスのオファーだった。
「あなたのせいで、私の親友はスイスの専門学校に行ったのよ!」
だが、ひかるは光太の真剣な瞳から目を逸らせなかった。彼女は3年間、彼の隣に立つチャンスを逃し続けてきた。そして、今、彼は隣に立つのではなく、仕事で繋がるという、予想外の扉を開いた。
「わかったわ。代わりに、金沢の私の家へ、一年に一度、機械のメンテナンスに来ること。それが契約条件よ」
光太はニヤリと笑った。
「承知した。おやすい御用。その時は最高の金属製コースターを持参するよ」
ひかるは、その瞬間、長年の片思いが報われたような気がした。ロマンスはなかったが、彼が自分を必要としてくれたのだ。
NCときみこの笑顔
ひかるは金沢に戻り、Tシャツ屋の新しい柱として特殊素材向け超精密プリント部門を立ち上げた。きみこの軽トラックは、金沢—大阪間を週に一度往復するビジネスカーに生まれ変わった。そして数ヶ月後。ひかるの元に、スイスのきみこから、Webカメラを使ったテレビ電話がかかってきた。
「ひかる!見て!」
画面に映ったきみこは、以前よりも健康的で、自信に満ちた笑顔を浮かべていた。彼女は、自作のWebデザインで美しく彩られた、故郷の農園の新しいECサイトを見せてくれた。そして、彼女が着ていたTシャツには、Webデザインを学んだことの誇りが溢れていた。See you in the Lab.(実験室で会いましょう)
「ひかる、聞いて。私ね、光太の新素材のプロモーションサイトを、デザインしてあげることにしたの。光太、私のデザインを見て、君の表現は、僕のNCプログラムの出力結果のように、美しいねって言ってくれたのよ!」
きみこは心底嬉しそうだった。ひかるは笑った。
金属愛からWebデザインへ。きみこが北出光太に振られたことで、彼女は人生の新しい可能性、新素材を見つけた。そして、私は。憎しみをぶつけに行った結果、愛の代わりに最高の仕事を手に入れた。
ひかるは自分のTシャツ工場から、大阪へ納品する新素材Tシャツの山を見つめた。それは、光太が削り出す新素材と同じくらい、ひかるの人生を精密に、そして力強く削り出す、新しい人生の始まりだった。
「良かったわね、きみこ。じゃあ、私は仕事に戻るわ。光太の注文、急ぎなんだから!」
ひかるは、そう言い残して電話を切った。彼女は知っている。遠くスイスにいるきみこと、大阪にいる光太、そして金沢にいる自分が、Tシャツと新素材という名の、奇妙で強靭な糸で、しっかりと繋がっていることを。ひかるは、自分の胸に手を当てた。そこには、いつまでも変わらない、優しくて暖かい綿100%の肌触りがあった。
きみこもひかるも気づいてはいなかったけど、光太は「いつのまにか呼び捨てにされるようになっちゃったな、あいつらと同年代みたいに」そんなちっぽけなことを気にしていたのだった。
完










