
ななみ(27)は、結婚してもまだ遊び足りないと思っていた。友達とカフェ巡りしたり、夜の街をふらりと歩いたり、そんな自由な時間が恋しかった。でも、ミツルとの結婚は彼女にとって人生の新しいステージでもあった。だからこそ、社会とのつながりを絶ちたくなくて、歯科医院の受付の仕事だけは続けさせてほしいと、結婚前にミツルにお願いした。
受付越しの再会
「いいよ。ななみが笑ってる方が、俺も安心するし」
ミツルはそう言って、少し照れたように笑った。
その歯科医院は、新宿のNSビルの中にある。朝から夕方まで、近隣の会社員や社長たちが、勤務時間中にも関わらず、なぜか頻繁に訪れる。ななみは受付カウンターの奥で、患者の名前を呼びながら、時折「この人、また来たな」と思うこともあった。
ある日の午後、スーツ姿の男性が受付に現れた。
「こんにちは、予約していたスズキミツルです」
その声に、ななみは一瞬フリーズした。
「え? ミツル?」
顔を上げると、そこには中学卒業以来、ほぼ会っていなかった幼馴染のミツルが立っていた。保育所、小学校、中学と、ずっと同じ道を歩いてきたのに、高校進学を機にすっかり疎遠になっていた彼。
「え、ななみ? うわ、まじか。ここで働いてたの?」
ミツルは驚いた顔で笑った。
ななみは、受付の制服のまま、思わず立ち上がった。
「なにこの偶然! てか、歯、痛いの?」
「いや、会社の健康診断で虫歯って言われてさ。で、会社の人にここ勧められて。まさか、ななみがいるとは」
その日、ミツルは診察を終えた後、待合室でななみと少しだけ話した。
「ななみ、変わってないな。いや、ちょっと綺麗になったかも」
「なにそれ、営業トーク?」
「いや、ほんとに。今度、飯でも行く?」
「え、歯医者の受付でナンパ? でも、いいよ。久しぶりだし」
その、飯でも行く?が、ふたりの再会のきっかけだった。
そして半年後、ふたりは結婚した。
すれ違いのLINEと、謎の「ユウカ」
結婚して3ヶ月。ななみは仕事と家事の両立に奮闘しながらも、どこか自分だけが頑張ってる?というモヤモヤを抱えていた。ミツルは優しいけれど、最近は仕事が忙しいのか、帰宅も遅く、会話も減っていた。
そんなある日、ななみはミツルのスマホにふと目をやった。画面には、LINEの通知が。
ユウカ「明日、楽しみにしてるね♡」
「え?」
ななみの心に、ざわりと冷たい風が吹いた。
ユウカって誰? ♡ってなに? 明日って、何があるの?
その夜、ミツルは「明日はちょっと遅くなるかも」とだけ言って、そそくさと寝室へ。ななみは聞きたい気持ちをぐっとこらえた。
翌日、ななみは仕事中もそわそわしていた。受付で患者の保険証を受け取りながらも、頭の中は「ユウカ」でいっぱい。
まさか浮気? いや、でもミツルがそんなこと.
でも、あの♡はどう考えても怪しい。
その夜、ミツルはいつもよりおしゃれなシャツを着て出かけていった。
「ちょっと会社の人と飲み会。遅くなるかも」
「ふーん、そうなんだ」
ななみは笑顔を作ったが、心の中は大荒れだった。
そして数時間後。ななみが帰宅すると、リビングの電気がついていた。ドアを開けると、そこには
「サプラーイズ!!」
クラッカーの音とともに、ミツルと、ななみの元、親友で中学生時代の幼馴染、ユウカ、そして数人の旧友たちが笑顔で立っていた。
「ななみ、誕生日おめでとう!!」
そう、今日はななみの誕生日。ミツルは、中学生時代の旧友たちと密かに連絡を取り合いながら、ユウカとこっそりサプライズパーティーを計画していたのだった。
「えっ、えええええええええええええええええええええええ」
見えない境界線と、ネクタイピンの向こう側
「USJ行こうよ! ななみ、最近ちゃんと遊んでる?」
ユウカからの誘いは、ななみにとってちょうどいい気分転換だった。ミツルも「ユウカなら安心だし、行ってきなよ」と快く送り出してくれた。
新幹線の中、ユウカはスマホでホテルのレストランを検索していた。
「夜はちょっと贅沢しようよ。せっかくだし」
「うん、でも、私、最近ちょっと節約モードでさ」
「えー、ななみらしくない! 結婚したからって、そんなに我慢しなくていいじゃん」
その言葉に、ななみは少しだけ胸がチクリとした。
USJではしゃぎながらも、ななみはどこか自分が主婦であることを意識していた。お土産選びのときも、ミツルの好物のクッキーを優先して選び、職場へのお土産は個包装でコスパがいいものを探した。
一方ユウカは、誰に渡すかは言わないまま、ブランド物のネクタイピンを手に取った。
「これ、いいよね。ちょっと高いけど、特別な人に渡したいなって」
「特別な人?」
「うん、まぁ、いろいろあるのよ。ふふ」
ななみは笑いながらも、心の中でふと考えた。
私は、ミツルのことを思って選んでる。ユウカは、誰かのことを思って選んでる。だけど、その誰かは、私の生活とは違う場所にいる。
夕食の席でも、ユウカはワインを頼み、コース料理を楽しんでいた。ななみは、ミツルが「今月はちょっと節約しよう」と言っていたのを思い出し、単品メニューを選んだ。
「ななみ、ほんとに変わったね。前はもっと自由だったのに」
「そ、そうかな。変わったっていうか、選ぶものが変わっただけかも」
その夜、ホテルの部屋でななみはミツルにLINEを送った。
ななみ「USJ楽しかったよ。ユウカは相変わらず自由で、ちょっと羨ましかったかも」
ミツル「ななみが選んだものは、俺にはすごくありがたいよ。クッキー、楽しみにしてる」
その返信に、ななみはふっと笑った。
私は、私の選び方でいいんだ。ユウカはユウカで、私とは違うだけ
見えない境界線は、きっと「違い」ではなく「選び方の違い」なのだと、ななみは思った。
カーシェアと、ふたりの地図
「今日は、ちょっと走ろうか」
夕食後、ミツルがぽつりと言った。
ななみはすぐにピンときた。
「カーシェア、予約する?」
「うん。今日はちょっと贅沢してみようかな」
スマホを開いて、タイムズのアプリを操作するミツル。
「ななみ、どれがいい?」
「えー、今日は外車にしちゃおうよ。プレミアム料金、たまにはいいじゃん」
「ななみが言うと、なんか安心するな」
車種を選ぶその瞬間から、ふたりの旅は始まっていた。
助手席に乗り込んだななみは、窓の外を眺めながら思い出す。
「そういえば、長野まで行ったことあったよね。蛍、すごかった」
「うん。あのとき、帰り道でコンビニの肉まん食べたの、覚えてる?」
「覚えてる! あれ、なんかすごく美味しかった」
ふたりのドライブは、目的地がなくても楽しい。
「今日はどこ行くの?」
「うーん、海、見たい?」
「満月だったら、大洗海岸がいいな」
「じゃあ、行っちゃう?」
高速道路を走りながら、ななみはふと口にした。
「ユウカと旅行したとき、ちょっと価値観の違い感じたんだ」
「へぇ、どんな?」
「お土産の選び方とか、夕食のメニューとか。私、ミツルのこと考えて選んじゃうんだよね」
「それ、すごく嬉しいよ。俺も、ななみが喜ぶ顔見たくてドライブしてるし」
その言葉に、ななみは胸がじんわりと温かくなった。
海岸に着くと、満月が静かに海を照らしていた。波の音だけが響く中、ふたりは車のボンネットに腰かけて、缶コーヒーを分け合った。
「ねえ、ミツル」
「ん?」
「私たち、地図がなくても、ちゃんと進んでる気がする」
「うん。ななみが隣にいれば、どこでも目的地になるよ」
その夜、ふたりは月の光に照らされながら、少しだけ未来の話をした。
「いつか、子どもができたら、軽自動車じゃ足りないかもね」
「じゃあ、ミニバンにしよう。カーシェアで、家族旅行だ」
ふたりの旅は、まだ始まったばかりだった。
茶わん蒸しと、ミツル家のしきたり
夕方、ななみは熱にうなされながら毛布にくるまっていた。インフルエンザの診断を受けたばかりで、体はだるく、頭もぼんやりしている。
そこへ、ミツルが仕事帰りにコンビニ袋を提げて帰ってきた。
「氷買ってきたよ。それと、これ」
袋の中には、ななみの好きな高級アイスクリームが入っていた。
「えっ、アイス? 熱あるのに?」
「うちの家、熱出たらレディーボーデンって決まってるんだよ。しきたりだから」
「しきたりって。どんな家なのよ」
ななみは笑いながら、スプーンでアイスをすくった。冷たさが喉に心地よく、少しだけ元気が出た気がした。
その夜、ミツルは台所で何かをゴリゴリとすりおろしていた。
「リンゴ、すりおろしてみた。食べられそうだったら、鍋焼きうどんもあるよ。明日、レンジでチンすれば食べられるようにしておいたから」
「え、そんなのまで?」
翌朝、ななみが冷蔵庫を開けると、ラップに包まれた鍋焼きうどんの具材がきれいに並んでいた。
この人、いつの間にこんなことまで。
その日の夕方、ミツルは「今晩のごはん、任せて」と言い残してスーパーへ出かけていった。
夜9時過ぎ、台所から「できたよ~」という声が響く。
ななみがふらふらとリビングに行くと、ミツルが両手で茶わん蒸しを運んできた。
「料亭風にしてみた。つもり」
表面にはうっすら膜が張っていて、中身はトロトロ。スプーンを入れると、出汁の香りがふわっと広がった。
「おいしい。料亭の味ね」
「ほんと? 蒸し器ないから、鍋でなんとかしてみたんだけど、失敗したかと思ったよ」
ななみは、茶わん蒸しを一口食べながら思った。「この人、こんなに私のこと考えてくれてるんだ」
高級アイスも、リンゴのすりおろしも、鍋焼きうどんも、茶わん蒸しも。
どれも完璧ではないけれど、どれもななみのため、だった。
「ねえ、ミツル」
「ん?」
「私、結婚してよかったかも」
「え、今さら? 茶わん蒸しで?」
「うん。茶わん蒸しで、確信した」
「熱にうなされちゃってる?ひょっとして?」
その翌々日、ミツルもインフルエンザに羅漢した。
クリスマス予定日と、ミツルの言語崩壊
NSビルの婦人科クリニック。ななみは、診察室の椅子に座りながら、心臓の音が自分でも聞こえる気がしていた。
「予定日は12月25日ですね」
医師の言葉に、ななみは思わず「えっ」と声を漏らした。
クリスマス。赤ちゃんの誕生日が、クリスマス?
診察室を出たあと、ななみはしばらくベンチに座っていた。
「うれしい。でも、どうしよう。ミツルになんて言えばいいんだろう」
その夜、ななみは意を決して、ニコニコ顔でミツルに告げた。
「赤ちゃん、できたよ」
ミツルは、目を見開いて固まった。
「ええぇええええええええええええええええ」
おなかの中のサンタさん
11月。
ななみは、こたつに入りながら、みかんを剥いていた。おなかのふくらみは、パジャマのゴムをきつくしていた。
「ミツルー、そろそろマタニティパジャマ買いたいんだけど」
「お、じゃあ今度のドライブはベビー用品店巡りにしようか」
「ドライブって。それ、カーシェアで?」
「もちろん。今日は軽じゃなくて、ミニバン予約しといた」
「気が早いよ!」
ふたりは、近所のショッピングモールへ出かけた。
ベビー服売り場で、ミツルは真剣な顔でベビー服を選んでいた。
「このクマのやつ、かわいくない?」
「それ、よだれかけじゃなくて、犬のバンダナだよ」
「あ、ほんとだ」
その日、ふたりはベビー服を一着も買わずに帰った。
でも、ななみのスマホには、ミツルが撮ったクマのバンダナを首に巻いた自分の写真が残っていた。
ある日曜日、ななみはふと、カレンダーを見てつぶやいた。
「予定日、12月25日ってことは。今度のお正月、3人で迎えるのか」
「おせち、3人分か。赤ちゃんにはまだ早いけど、離乳食おせちとかあるのかな」
「気が早いよ!」
「でもさ、なんか楽しみだな」
その夜、ななみは日記を開いた。
《11月15日 おなかの中に、ちいさなサンタさんがいる。まだ会ったことないけど、もうすでに、私たちの家族の一員。来年の今ごろは、きっと笑ってる。泣いてる。ミツルはオムツ替えでテンパってる。私は、きっと、幸せだ》
はじめまして、わたしたちの小さな世界
12月25日。
東京は、珍しく雪がちらついていた。
「まさか、本当に予定日に生まれるとはね」
ミツルが、病室の窓の外を見ながらつぶやいた。
ななみは、ベッドの上で小さな命を腕に抱いていた。
赤ちゃんは、まだ目を開けたり閉じたりしながら、ふにゃふにゃと小さな声を出している。
「この子、サンタさんより早起きだったね」
「うん。プレゼント、もらう側じゃなくて、来てくれた側だったね」
聖母病院での出産は、想像以上に大変だった。
陣痛の波にのまれながら、ななみは何度も「もう無理」と叫んだ。
でも、ミツルがずっと手を握ってくれていた。
「ななみ、がんばれ。俺、ここにいるから」
その言葉だけが、唯一の灯りだった。
そして今、ふたりの間には、3キロちょっとの小さな命がいる。
「名前、どうする?」
「うーん。考えてたけど、顔見たら、なんか全部違う気がしてきた」
「わかる。なんか、もうこの子が決めてる感じするよね」
「うん。じゃあ、もう一回、ゼロから考えようか」
「うん。3人で、ね」
年が明けて、正月。
ななみは、まだ入院中の病院のベッドの上でお雑煮とミツルの手作りおせちらしきものの写真を思い出していた。
「黒豆が。黒焦げだったのよね」
「でも、気持ちはこもってたでしょ?」
「うん。あれは炭焼き焙煎黒豆って名前だったんでしょう」
ふたりは笑い合い、赤ちゃんがその声に反応して、ふにゃっと笑ったように見えた。
これから退院したら、きっと大変なこともある。夜泣きも、オムツ替えも、寝不足も。でも、私たちなら、笑いながら乗り越えていける気がする。
ななみは、赤ちゃんの小さな手をそっと握った。
その手は、まだ何も知らないけれど、すでにふたりの世界を変えていた。
「ようこそ、わたしたちの世界へ」
「これから、よろしくね」
こうして、ななみとミツルの物語は、新しい章へと歩き出した。
今度は、3人で。
完










