
この場をお借りして。タダシとのこれまでのことを書いてみました。子どもたちのおかげでやってこれたのかもしれません。そして、これからも。小説です。
呪いの社畜スーツ
玄関に立つ「おじさん」、私のパートナー。
タダシはIT企業に勤める、私よりちょっとだけ年下の男だ。私たちは特に婚姻届を出していないけれど、お互い事実婚だと勝手に思っている。正確には、私だけが早く結婚したいと焦り、タダシの方は「え、別に今が快適じゃん?」という仏のような無頓着さで、日々を過ごしている。
そんな彼にとって、人生最大のラスボスはファッションだ。特にひどいのが、彼の着ているスーツである。それはタダシが新卒で入社した時に買った、推定8年以上前の代物だ。タダシの成長期がとっくの昔に終わったように、このスーツの寿命もとうに過ぎ去っている。見るからにヨレヨレで、肩はパットが内蔵されているのかと疑うほど角張り、ウエストはダボつき、色も本来のネイビーから「くたびれた海の底の色」に変化していた。
「ねぇ、タダシ。そのスーツ、たぶんもう、人間じゃないよ?」
朝、出勤前のタダシに向かって私が言うと、彼は、また始まったという顔で、おにぎりを一口で頬張った。
「機能に問題ない。縫製はまだ健在だ」
「健在じゃない! それ、会社で戦前の遺産って呼ばれてるよ、きっと!」
会社で同僚と話すタダシの姿を想像すると、私のプライドが音を立てて崩れ去る。私にとって、タダシの外見は、彼の社会的信頼度を測るバロメーターであり、私自身の人生への投資なのだ。このヨレヨレスーツは、投資利回りがマイナスに突入している。
緊急オペレーション:スーツ狩り
私は決意した。この呪いの社畜スーツを、この世から消し去る。幸い、高校時代の友人ミカが、超高級スーツ専門店に転職していた。私はすぐに彼女に連絡を取り、半ば脅迫に近い口調でタダシを車に乗せて店へと向かった。
タダシは助手席で、まるでこれから歯医者で親知らずを抜かれるかのような不機嫌なオーラを全身から放っていた。
「行きたくない。服ごときに金をかけるのは非効率だ」
「うるさい! 非効率なのは、そのスーツのせいでタダシの出世の芽が摘まれることよ!」
店に着くと、ミカがプロ中のプロの笑顔で迎えてくれた。彼女は私の意図を即座に理解し、タダシをターゲットに定めた。
「タダシさん、今日は自己投資です! 最高の素材で、あなたのITスキルを視覚化しましょう!」
「スキルは内面に」
タダシの抵抗は虚しく、ミカは彼の体型を瞬時にスキャンし、似合いそうなスーツを次々とハンガーラックから引き抜いた。ミカが選ぶのは、どれもシャープで洗練されたデザイン。私は男性スーツの知識なんてゼロだけど、とにかく、今のタダシが着ているものとは真逆のものが最高だと知っていた。
ビフォー・アフターの衝撃
タダシは試着室へ。数分後、扉が開いた。
「すごい! 誰、このイケメン?!」
思わず立ち上がって叫んだ。そこに立っていたのは、いつものタダシではない。肩幅はぴったり、ウエストラインはスマートに絞られ、何よりそのネイビーの色が、彼本来の清潔感を際立たせていた。まるで、老朽化したOSが最新バージョンにアップグレードされたかのようだ。タダシ自身も戸惑っている。鏡に映る自分を見つめ、
「処理速度が上がった気がする」
と、わけのわからない感想を漏らした。しかし、ここからが問題だった。タダシは、私やミカが、これだ!と絶賛する三次元イケメン化スーツには見向きもせず、代わりに試着室に持ち込んだ、妙にダボっとした、昔の呪いのスーツの色違いばかりを手に取って悩み始めたのだ。
「うーん、このゆったり感、座り心地が良いな。長時間ディスプレイに向かうにはこのルーズフィットが最適解では?」
「ダメーーーーーッ!!」
私の叫びが店内に響き渡る。ミカは優雅な笑顔のまま、タダシの選んだルーズフィットスーツをそっとハンガーに戻した。結局、私が選んだ3着の戦闘服と、それに完璧に合うネクタイ5本を購入した。もちろん、全額私がカードで支払った。投資に躊躇はない。
次なる課題:私服のバグ
これでタダシが会社に行っても恥ずかしくはない!そう安堵したのも束の間。タダシの問題は、スーツだけでは終わらなかったのだ。週末の彼のファッションセンスは、まるで予測不能なバグだった。真夏なのに、なぜか分厚いウールのジャケットを羽織り、真冬には謎のメッセージTシャツ一枚で過ごそうとする。
せっかくの高級スーツも、会社でちゃんと着ているのか不安になった。着こなすというより、タダシがスーツという名の檻に入れられているという表現がしっくりくる。彼の美的センスは、未だ機能性と効率のバグに侵されたままなのだ。
「もうこれは、結婚して彼の生活全般に介入するしかないのではないか?」
彼の意識を根本から変えるには、四六時中、彼の隣にいて、全ての選択肢を私が上書き保存するしかない。私のタダシ改造計画は、この事実婚という名の曖昧な契約を破棄し、彼を正式に私の人生の管理下に置くという、新たなステージへと進むことを決意したのだった。
新車バトル勃発! 燃費 vs. 赤い流線型
新居と空白の駐車スペース。タダシとの新生活は始まったばかり。真新しい賃貸マンションのベランダから見下ろす駐車場は、アスファルトがまぶしい。そして、そこには私たち専用の空白のスペースがぽっかり空いていた。
結婚を機に、私は愛用の軽自動車を廃車にした。タダシは根っからの電車通勤・徒歩移動こそ至高という主義で車を持たない。しかし、家具や家電を運び込み、いざ生活を始めると、すぐに気付いた。
「車、いるね」
「うん。いる」
週末のまとめ買い、ちょっとした遠出、そして何より、私の新生活への期待が詰まったノリノリのドライブには、車は必要不可欠だ。ある日の夕食後、私が
「ねぇ、どんな車がいいかな?」
と切り出すと、タダシは早速、頭の中で計算機の起動音を鳴らし始めた。
私の理想:「CMで見た、あの流線型のフォルム! 赤かオレンジの明るい色で、軽快なCMソングが似合うやつ!」
タダシの理想:「生涯維持費、保険料、残価率を最小化し、将来の家族構成変化に耐えうる拡張性を備えた、効率特化の無個性な箱」
車選びは、まさに私たちの価値観の縮図だった。私は直感と感情。タダシは徹底した論理と客観性。
ディーラー巡り:戦慄のスペックチェック
週末、私たちはディーラー巡りという名のバトルフィールドに足を踏み入れた。トヨタのショールームで、私がメタリックグリーンのコンパクトカーを指差すと、タダシがすかさずカタログを開いた。
「この色、若草色の閃光って名前で可愛くない?」
「待て。この車の後部座席のニールーム(膝周りの空間)は、標準的な日本人男性の平均座高に対して−3cmだ。将来、子供が成長した際の快適性が低下する。また、トランク容量も、一週間分の買い物とベビーカーを同時に収納するには非線形的に不足する」
日産では、トラック仕様の力強いSUVに惹かれた。
「これならキャンプにも行けるし、タダシのパソコンだってたくさん積めるよ!」
と言うと、タダシは首を振った。
「その走破性は、私たちの居住エリアの平均降雪量や、年間キャンプ回数を考慮すると、過剰なオーバースペックだ。この無駄なパワーは、すべて燃費という名のコストに変換される。非効率。」
ホンダでは、小さなバンタイプを試乗した。私が
「家族が増えても大丈夫!」
とはしゃぐと、タダシはまたしても冷静な分析を始めた。
「このクラスの車の保険料は、同価格帯のセダンに比べると約7%高い。そして、まだ子供もいない段階で増える前提の投資をするのは、最適化の観点から見て時期尚早だ」
もう、うんざりだ。私たちの会話は、いつまで経っても、かわいい/かっこいい、と燃費/維持費という、永遠に交わらない平行線をたどっていた。営業担当者も、私たちの間でオロオロするばかりだ。
「タダシ。これは移動手段じゃないの。生活の彩りなの!」
「彩り? 彩度を追求するより、寿命と安全性を担保すべきだ」
運命の赤に出会った、私
何度ディーラーに足を運んでも決まらない。私は少しずつ、もしかして、私たちは根本的に合わないのでは?という、車とは関係ない不安さえ感じ始めていた。
ある日、一人でショッピングモールを歩いていると、煌びやかな広告に目が釘付けになった。流線型の美しいフォルム、そして、鮮やかなパッション・レッドのボディ。以前私がCMで見て、これ!と心に決めたあの車だ。その瞬間、私の胸の中で何かが弾けた。もう、タダシのロジック地獄に付き合っていられない。
「そうだ、これだ。私の人生のハンドルは、私が握る!」
翌日、私はタダシに何も告げず、その販売店に直行した。人気車種で納車まで時間がかかると言われたが、迷いはなかった。サインし、頭金を払い、即座に契約を完了させた。タダシの意見を無視した罪悪感は、一瞬で解放感に変わった。
タダシの想定外のリアクション
そして、納車の日。私はタダシに
「ちょっと一緒に買い物に行ってほしいの」
とだけ伝え、ディーラーの駐車場に連れて行った。そこには、真新しい赤い車が、太陽の光を反射させて誇らしげに佇んでいた。タダシは一瞬、硬直した。彼の顔には、なぜ私が知らない決定が実行されている?という、IT管理者が見るような致命的なエラーメッセージが浮かび上がっていた。彼はきっと、私に何の相談もなく車を決めたことに、腹を立てているだろうと思った。
「た、タダシ、ごめん。あの、私が勝手に、」
私が恐る恐る言い訳を始めようとした次の瞬間、彼の顔はみるみるうちに変化した。エラーメッセージは消え、代わりに満面の笑みが広がったのだ。
「え、これ、ボクたちの車!? この空力特性!」
タダシは、まるで少年が初めてロボットを与えられたかのように目を輝かせた。彼は赤色のボディをなで、ドアを開けて内装を覗き込んだ。そして、目を閉じ、シートに深く腰掛けた。
「シートのホールド性が予想以上に高い。この設計は、コーナリング時のG(重力加速度)を最適に分散させるための、最・適・解!」
彼は燃費も維持費も、将来の家族構成も全て忘れ去り、一瞬で赤いスポーツカー(コンパクトだけど)という存在そのものに魅了されていた。彼の頭の中の計算機は、今、完全にロジックモードから運転の楽しさシミュレーションモードに切り替わったのだ。私は胸をなでおろし、心から思った。タダシは、論理的なようでいて、その実、誰よりもカッコいいという感情的な刺激に弱いのかもしれない、と。
「じゃあ、まずは近くの井の頭公園に行ってみようか! この車の運動性能、試してみたいしな!」
私は運転席に座り、彼のナビゲーター役としての指示に従って、風を切る赤い車を走らせた。この車は、私たち二人の意見が完全に一致したわけではないけれど、これから私たちの人生を、間違いなく予測不能な楽しさで満たしてくれるだろうと確信した。タダシ改造計画、ミッション2「効率主義者の感情の琴線に触れろ」は、予想外の形で成功を収めたのだった。
効率主義者の弱点と夢の国の現実
保育園の門をくぐり、まだ遊び足りない様子のジロウの手を引いて家路を急ぐ。タロウが6歳、ジロウが4歳の頃だ。体が弱かったジロウを案じ、私はスイミング教室に通わせることにした。水泳は全身運動だし、喘息にも良いと聞く。何より、水に親しむことで、少しでも自信をつけてくれたら、と願っていた。私の直感は当たったようで、ジロウは持ち前の明るさで水とすぐに友達になり、みるみるうちに上達していった。スイミング教室は、活気に満ちていた。そして、その待合室は、子育ての悩みを共有し、時にはおすすめレシピを教え合う、ママさんたちの社交場でもあった。
ある日、私はジロウの最終練習に、これまで一度も来たことのないタダシを半ば強引に連れてきた。
「ねぇ、タダシ。今日、ジロウのスイミングの最終日だから、見に来てくれない?」
「えー、ボクが行ってもなぁ」
タダシは、仕事が忙しいというのもあるが、それ以上に人混みとママさんたちの集団が苦手なのだ。彼のロジックは、非効率で数値化できない社交の場では、完全にシャットダウンしてしまう。待合室は、いつものようにママさん仲間で賑わっていた。夫は、その光景にさらに居心地が悪そうに、柱の陰に隠れるようにしてじっと耐えている。
「あら、たみさんのご主人?」
私の友達が話しかけてくれても、夫は恐縮したように頭を下げるばかり。友達はすぐに私のもとへ戻ってきて、耳打ちした。
「そうとう緊張してるようね」
私は苦笑いしながら頷いた。人付き合いが苦手だとは思っていたが、彼は今、自分の殻の中に閉じこもり、一秒あたりの空気の吸入量を最小限に抑えることで、社交の負荷に耐えているのだろう。それでも、ジロウの大舞台を家族みんなで見てあげたい。プールサイドでは、ジロウが満面の笑みで修了証書を掲げた。その時、タダシはいつの間にか柱の陰から出てきて、ジロウの頭を撫でていた。その顔には、やはり照れくさそうな笑顔が浮かんでいたけれど、どこかホッとしたような表情も見て取れた。
「ジロウ、よく頑張ったね!」
私たち家族の絆が深まる、かけがえのない時間だった。スイミングのおかげで、ジロウは丈夫になった。そしてタダシも、あれ以来、少しずつ人付き合いに慣れてきたようだ。今ではPTAの集まりにも顔を出すように、まあ、出席率を最適化しているだけかもしれないが。
土曜日の朝の大事件 ~最後のプリン戦争~
土曜日の朝。我が家のリビングは、戦場と静寂が絶妙にブレンドされた奇妙な空間だった。夫のタダシ(41歳)は、ソファの上で新聞を広げながら、頭に乗せた老眼鏡を探していた。
「あれ?昨夜は確かにここに?」
「お父さん、それ頭」
と、キッチンから声をかけたのは、この家の平和維持軍であるお母さんのたみ(永遠の39歳、3年目)だ。
「あ、本当だ!」
タダシはハッとして老眼鏡を下ろし、たみに向かってにっこり笑った。
「さすが、たみ!君の洞察力はKGBも認めるだろう!」
「それより、明日の旅行の準備は終わったんですか?」
たみはコーヒーを淹れながら、軽くタダシを睨んだ。明日の旅行とは、家族念願の温泉旅館一泊二日の旅のことだ。たみが予約を取り、スケジュールを組み、パッキングリストまで作成した、たみ主導の超重要ミッションである。
リビングの隅では、長男のタロウ(12歳)が自分の世界に入り込んでいた。彼はスマホの画面に釘付けになり、ヘッドホンから大音量の音楽が漏れていた。
「マジでそれな。ありえんー」
と、画面の中の誰かに向かって時折つぶやいている。その時、静寂を切り裂く悲鳴が響いた。
「うわあああああ!最後の一個が!」
犯人は小学3年生のジロウ(10歳)だ。彼は冷蔵庫の前でガタガタと震えながら、小さなカップを指差している。そこにあるのは、家族全員が大好きな高級とろけるプリン、その最後の一個。
「誰だ、食べたのは!犯人は正直に手を挙げろ!」
ジロウは顔を真っ赤にして叫んだ。たみがため息をつく。
「あらあら。それは私が昨夜、誰か食べるか聞こうと思って置いておいたものよ」
ジロウがたみに駆け寄り、瞳をキラキラさせた。
「じゃあ、僕が食べていいの?僕、昨日の夜、算数の宿題を完璧にやったよ!」
「ずるいぞ、ジロウ!」
タロウがヘッドホンを外し、飛び起きた。
「僕が週末の課題を終わらせたのは、そのプリンのためだ!脳への栄養が必要なんだよ!中学受験があるんだから!」
「受験は来年だろ!僕だって背が伸びるのに栄養が必要だ!」
たみが「まあまあ」と仲裁に入ろうとした瞬間、最も予想外の人物が参戦した。タダシが新聞をバサッと置き、真剣な表情で冷蔵庫に歩み寄った。
「待て、お前たち。このプリンは、家族の平和の象徴だ」
タロウとジロウは、一斉に父、タダシを見上げた。
「これは、今日の午後にママが淹れる奇跡の紅茶のお供に、どうしても添えたい一品なんだ!パパに任せろ。愛の力で解決する!」
そう言うや否や、タダシはカップを手に取った。次の瞬間、タロウがタダシの腕に、ジロウがタダシの足に、それぞれしがみつき、壮絶な最後のプリン争奪戦が勃発した。
「パパずるい!」
「おい、放せ、放さんか!」
「お父さん、ひとりじめは許さん!」
「うおっ!待て、カップが、カップが傾くぅ!」
タダシはまるでラグビーボールを抱えた選手のようにリビングを逃げ回り、タロウは両手を顔の前で組み、祈るようなポーズでその様子を見守った。ついにタダシがバランスを崩し、プリンのカップは空中高く舞い上がった。三人が息を呑んで見つめる中、プリンはスローモーションのように下降したみの手に、完璧にキャッチされた。
「ハイ、そこまで」
たみは穏やかに微笑んだ。カップには一滴の揺れもない。
「お母さん!」
家族三人の声が同時に響いた。たみは冷蔵庫の引き出しを一つ開けて、言った。
「みんな。これは昨日の夜、私がこっそり買ってきて隠しておいたとろけるプリン詰め合わせボックスよ。これで今日の騒動は終わり。パパ、老眼鏡は頭の上。タロウ、音漏れしてる。ジロウ、歯磨きはしたの?」家族三人は顔を見合わせ、そして大声で笑い出した。
「やっぱりママにはかなわないなぁ!」
タダシがデヘヘと笑うと、タロウとジロウも残りのプリンに目を輝かせた。
「さあ、みんな。急いで準備しなさい。お母さん特製パッキングリストに沿って、忘れ物がないようにね」
たみが号令をかける。タダシは、よし!と立ち上がったものの、その足元には、先ほどの争奪戦で飛ばされた自分の靴下の片方だけが落ちているのを、彼はまだ気づいていなかった。たみはそれを拾い上げ、またそっと頭を抱えるのだった。
つづく
続きはこちらの物語になります。











