
サトルが物心ついたころ、家の鴨居には軍服姿の父の写真がかかっていた。本人には一度も会ったことがないのに写真だけは毎日見ているので、この人はしゃべらないけど、いつも家にいると思っていた。母は農作業に出かけ、兄フサヨシは小学生ながら田んぼを手伝う立派な働き手。サトルはといえば、家の周りで虫を追いかけては母に「田んぼより虫取りが得意ね」と笑われていた。
大八車の枯れ枝
ある日、兄が言った。
「サトル、枯れ枝を取りに山へ行くぞ!」
「えー、いいよ。だけど、遠いよね、きっと」
「遠いからこそ冒険なんだ!」
こうして兄が大八車を引き、サトルが後ろから押す枯れ枝遠征隊が結成された。片道4kmの山道は、行きは楽しく歌を歌いながら進むが、帰りは荷物が重くて歌どころではない。サトルは、行きはよいよい帰りは苦しいって、ほんとにあるんだなと妙に納得した。
途中で、この山は枝を拾っていい山だと兄が説明する。サトルは「じゃあ、あの山はダメなの?」と聞きながら、勝手に「あの山の名前はダメ山だね」と聞くと、兄に「そんな山は地図にない!」といわれる。そんなたわいのない話をしながら、歩いた。
夕暮れ時、最後の上り坂に差しかかると、兄が必死に大八車を引き、サトルは後ろから「押してるんだか乗ってるんだか分からん!」と笑われながらも必死に踏ん張る。ようやく家に着いたころには真っ暗で、母が「おつかれさん、オオカミにつかまったかと思った」と迎えてくれた。
その枯れ枝は、後日、兄が少しずつ田んぼに漉き込んでいった。水はけの悪い田んぼにとっては大切な改良材。サトルは「僕の押した枝で米ができるんだ!」と胸を張ったが、どうして枯れ枝がお米の肥料になるのかよくわからないでいた。母は「押したよりも食べた方が多いね」と笑った。
数年後、田んぼは見事に実り、隣近所と同じくらいの収穫を上げられるようになった。サトルは「やっぱり僕の押した力だ!」と自慢し、兄に「お前は押したというより、途中で座り込んでた」と冷静に指摘される。母は「どっちでもいいよ、米ができるんだから」とまとめてしまう。
こうして、戦後の欠乏の中でも、家族の笑いと努力で暮らしは少しずつ豊かになっていったのだった。
峠を越える少年
サトルが物心ついた頃、家の周りにはいつも風の音と、鶏の鳴き声が響いていた。母は朝早くから畑に出て、兄フサヨシは学校帰りに田んぼへ直行する。サトルはまだ幼く、手伝いといえば草取りや水汲みくらいだったが、それでも「働いている」という誇りを胸に抱いていた。
峠を越えた先の駅には、汽車が一日に数本だけ走っていた。汽車の汽笛は山里まで届き、サトルにとっては遠い世界の合図だった。兄と一緒に峠を越えたこともある。片道8kmの道のりは、子どもの足には果てしなく長い。途中で見かける野兎や、山の湧き水が唯一の楽しみだった。
ある日、兄が言った。
「サトル、汽車に乗ってみたいか?」
「うん、乗ってみたい!」
だが、汽車に乗るには切符がいる。切符を買うにはお金がいる。戦時中の欠乏の中で、そんな贅沢は夢のまた夢だった。サトルは、駅の裏手の小道から汽車が通り過ぎるのを見送るだけだった。黒い煙が空に広がり、車窓から顔を出す人々の姿が、まるで別世界の住人のように見えた。
帰り道、兄が大八車を引きながらぽつりと言った。
「父さんが帰ってきたら、汽車に乗せてもらえるかもしれないな」
サトルは黙ってうなずいた。鴨居にかかる軍服姿の父の写真を思い出す。見たことのない父が、汽車に乗せてくれる日を夢見ながら、サトルは峠道を歩いた。
その夜、母は囲炉裏の火を見つめながら言った。
「汽車に乗らなくても、峠を越えられる足がある。それがあんたたちだよ」
サトルはその言葉を胸に刻んだ。汽車は遠い憧れだったが、自分の足で峠を越えることこそが、少年にとっての誇りになりつつあった。
そんなある日の昼、サトルは玉音放送を聞いたような気がしている。
初もうでと鬼ごっこの夜
年が明けると、サトルの家の近くでは恒例の初もうでがあった。山の中腹に小さな祠があり、そこに近所の家族が集まるのだ。夜の12時を過ぎるころ、母とサトル、兄フサヨシ、それから近所の子どもたちが連れ立って歩き出す。
「眠いよ〜」とサトルが言うと、母は笑って「眠いからこそご利益があるんだよ」と答える。兄は「そんなわけないだろ」と突っ込み、近所の子どもたちが「じゃあ眠い人ほど幸せになるんだ!」と大騒ぎ。真夜中の山道は、まるで遠足のようににぎやかだった。
夜空はピカピカ輝いていて、星が落ちてきそうだった。サトルは「もし星が落ちてきたら、祠にお賽銭の代わりに入れよう」と真顔で言い、みんなに大笑いされた。
祠に着くと、甘酒がふるまわれた。ぬるくて、ちょっと酸っぱくて、子どもには「うーん…」という味だったが、一人一杯ずつもらえるのが嬉しい。フサヨシは「これは大人の味だ」と得意げに言い、サトルは「じゃあ僕はまだ子どもでいいや」と肩をすくめる。
お賽銭を投げ入れたあと、子どもたちは「何お願いした?」と聞き合うのが恒例だった。
「お菓子が毎日食べられますように!」
「鬼ごっこで絶対勝てますように!」
「兄ちゃんが宿題を代わりにやってくれますように!」
願い事はどれも子どもらしくて、母は「神さまも困っちゃうね」と笑った。
普段の遊びといえば、家の周りでの鬼ごっこやかくれんぼ。範囲を決めないと、永遠に走り回ってしまう。ある日、鬼になった近所の子が泣きながら帰ってしまい、母たちが「だから範囲を決めなさいって言ったでしょ!」と説教する一幕もあった。サトルは「泣いたら負けだ」と言いながらも、次は自分が鬼になって泣きそうになり、兄に「お前もか!」と突っ込まれていた。
そんな小さな騒ぎも、家族や近所の人たちが一緒だからこそ楽しい。祠への初もうでの帰り道、眠さと笑いが入り混じった夜は、サトルにとって「家族と村の仲間がいる」という安心を感じるひとときだった。
一宮さんの秋祭りサーカス
村には小学校がひとつしかなく、遠い子どもは毎日4kmの道のりを歩いて通っていた。サトルの家からも決して近くはなく、雨の日は「今日は臨時休校にしてくれないかな」と本気で祈ったものだ。もちろんそんな願いが叶うはずもなく、母に「足があるうちは歩ける!」と励まされて、結局は長靴をぐしょぐしょにして登校するのだった。
そんな子どもたちの楽しみは、年に一度の町の神社の祭り。汽車の停まる町では天王さん、さらに山を二つ越えた先では一宮(いっきゅう)さんと呼ばれる祭りがあった。距離的には一宮さんの方がずっと遠いのに、なぜか子どもたちは「一宮さんに行ったほうが自慢できる」と思っていた。
備後一宮 吉備津神社(びんごいちのみや きびつじんじゃ)は、広島県福山市新市町に鎮座する備後国の一宮です。大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を主祭神とし、古くから「一宮(いっきゅう)さん」の愛称で地域住民に親しまれています。Google検索より
秋祭りの日、サトルと兄フサヨシは母に連れられて一宮さんへ向かった。片道十数キロの道のりは、まるで小さな冒険旅行。途中で「まだ着かないの?」とサトルが言うと、兄は「歩いた分だけ飴がうまくなるんだ」と妙な理屈をこねる。母は「屋台よりもお賽銭を忘れないでね」と釘を刺す。
神社に着くと、屋台のにぎわいに子どもたちは目を輝かせた。金魚すくいではサトルが「絶対に10匹取る!」と宣言したが、結果は1匹だけ。しかも帰り道で水がこぼれてしまい、兄に「お前の金魚は川に里帰りするしかないな」と笑われる始末だった。
その年、町には木下サーカスもやってきた。空中ブランコや馬の曲乗りを見た子どもたちは大興奮。サトルは「僕も空中ブランコに乗る!」と叫び、兄に「落ちたら田んぼに漉き込まれるぞ」と突っ込まれて大笑い。母は「サーカスは真似するものじゃないよ」と真顔で言うが、子どもたちは家に帰ると木の枝をブランコに見立てて遊び始めた。
結局、枝は折れてサトルが尻もちをつき、兄が「ほら見ろ、サーカス団には入れないな」と勝ち誇る。サトルは「じゃあ僕は金魚すくい団を作る!」と負けずに言い返し、母は「そんな団体聞いたことないよ」と笑った。金魚は、自宅の庭に水くみ場があってそこの濁った水の中にいたのだ。
秋祭りとサーカスの記憶は、疲れと笑いが入り混じった宝物だった。遠い道のりも、子どもたちにとっては自分たちの村が世界とつながっている証のように感じられたのだった。
天王さんの見世物小屋
一宮さんの祭りよりは近いといっても、天王さんの神社まで歩いていくのは子どもにとって大冒険だった。片道2時間、しかも子どもだけで歩いていくのだから、途中で「もう帰ろうよ」と言い出す子が必ず一人はいた。すると兄フサヨシが「ここで帰ったら来年まで笑われるぞ」と脅し文句を言い、結局みんなでぞろぞろ歩き続けることになる。
疫隈國社 素盞嗚神社(てんのうさん)市指定重要文化財素盞嗚神社(巨旦将来屋敷跡)この素盞嗚神社は、備後風土記に見られる蘇民将来伝説の舞台となる神話に彩られた由緒正しい古社です。社伝によれば679年の創建したとされ、後に遣唐使であった吉備真備が天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請し、さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされています。新市町観光協会より
夕方になると屋台が並び始め、香ばしい匂いに誘われたサトルたちは「お腹すいた!」と大合唱。ポケットの中のお金はもちろんわずかで、食べ物か金魚すくいか、どちらかしか選べない。おもちゃなんて買えるはずもない。結局「飴を買って、金魚すくいは見学」という妥協案に落ち着くのが毎年のパターンだった。
そして子どもたちの最大の関心は、見世物小屋。のぼりには「ろくろっくび」「鶏の生肉を食う口裂け女」といったおどろおどろしい文字が踊っている。サトルは「今年こそ入ってみたい」というが、入場料を聞いて「やっぱり来年にしよう」とあっさり撤回するのも毎年のことだった。兄に「お前の来年は永遠に来ないな」と突っ込まれるのが恒例だった。
それでもサトルに楽しみもあった。見世物小屋から出てきた大人に出口インタビューをするのだ。
「どうでした?」と聞くと、
「こわかったぞ!」
「子どもが見るもんじゃない!」
と返ってくる。サトルはそのたびに「やっぱりすごいんだ!」と目を輝かせる。
ある年、近所のおじさんが「中で鶏を食う女が出てきたんだ」と真顔で語った。サトルは「鶏のなま肉?」と首をかしげ、兄といっしょに、思い出してはその後2か月、震えが止まらなかった。
結局、見世物小屋には一度も入らなかったが、出口インタビューだけで十分にわくわくできた。サトルにとっては、入るよりも想像するほうが楽しいという、子どもらしい結論に落ち着いたのだった。
夜遅くまでにぎわう祭りの帰り道、子どもたちは「来年こそ」と毎年同じ約束をする。だが翌年もまた、屋台と出口インタビューで満足してしまうのであった。
真空管ラジオと台所の放送局
サトルが高校に進学したのは、山陽本線が通る備後地方の中核都市だった。優秀な生徒は府中高校へ、その他の男子は福山工業高校へ進むのが定番。サトルは「ラジオを作りたい!」という一心で工業高校を選んだ。
中学のころから鉱石ラジオに夢中で、バリコンを回しては「かすかに聞こえるぞ!」と耳を澄ませていた。母は「ご飯の時間だよ」と呼んでも、サトルは「ちょっとまって!」と返事をする。そんなときはさっさとお膳を下げられてしまう。
高校に入ると、真空管ラジオの世界に足を踏み入れた。最初は1本の真空管で動くラジオ。次は2本、そして3本。真空管が増えるたびにサトルの胸も膨らんでいった。
完成した3本真空管ラジオは台所に設置された。母は「ご飯を作りながらニュースが聞ける」と喜んだ。兄は「すごいな」といった。夕食時には家族3人、なんとなくラジオを聴きながら生活することが増えた。
やがて遊びに来た友達が「これ、うちにも作ってくれよ、父ちゃんが頼んで来いってさ」と言い出した。サトルは、材料費に少しだけ上乗せした対価でアルバイトすることになる。母は「商売上手になったね」とニヤリ。本当は、その近所のお母さんに、ラジオ代に似合うくらいの野菜を母は持って行ってくれていたのだった。
こうしてサトルは、ラジオを売って得たお金で次の部品を買うという「簡単なビジネス」を学んでいった。これで本人はいろんな電気回路を学ぶことになる。
鉄工所と田んぼ
高校を卒業したサトルは、鉄工所に就職した。時代はまさに高度成長の黎明期。造船業が世界一へと駆け上がる過渡期で、鉄工所でも船舶用の部品づくりに追われていた。船の舵(かじ)やウィンチを油圧で動かす仕組みが増え、サトルは「油圧ってすごいなあ」と感心しながら図面と格闘する毎日だった。
瀬戸内海沿いの造船所を一軒ずつ回る仕事は、まるで営業マンのようでもあり、技師のようでもあった。昼は船の現場、夜は電動機の試作。サトルは「僕は鉄工所の便利屋だ」と自分に言い聞かせながら、訪問するたびに新しい製品アイデアを見つけてくる。それが、他の営業マンとは違う自分の得意なところだ、と、どこか誇らしげだった。
一方、兄フサヨシは小学校を出てすぐに農家を継いでいた。中学校へは進まず、田んぼと畑が彼の教室だった。村の人々は「フサヨシは働き者だ」と口をそろえ、母は「サトルは電気、フサヨシは農家。ふたりともよく働いてくれる」といった。
ある日、サトルが出張から帰ると、兄が泥だらけの顔で迎えた。
「東京まで行ったんか?どうだった?」
サトルは「兄ちゃん、電気は金にならんよ。機械もうちの会社より大きい会社はいくらでもある。農家、がんばってくれてありがとう」と返した。母は「どっちも大事だよ」と思った。
大阪や東京への出張が増えると、サトルは都会の喧騒に驚いた。電車の速さ、人の多さ、ネオンのまぶしさ。帰ってくると、家の田んぼのカエルの声が一番落ち着く。だけど、この家のためには、今は頑張ってお金を稼がなければと思う。
母はあえて、都会への出張をサトルに尋ねることはなかった。次男に継がせる田畑はなかったからだ。ただ、静かに見守っているだけだった。
こうして、電気と農業という全く違う道を歩む兄弟は、互いに支え合いながら暮らしていった。サトルの鉄工所での仕事も、フサヨシの田んぼも、どちらも家族の未来を形づくる大切な営みだった。
そして母は、土間にあるかまどの火を見つめながらぽつりと言った。
「父さんがいなくても、あんたたちがいるから、うちはちゃんと回ってるよ」
その言葉に、サトルもフサヨシも少し照れながら笑った。戦中から続いた欠乏の時代を越え、家族の物語は新しい時代へと歩み始めていた。
著者追記
その後、結婚した父は貸家からの鉄工所勤めをはじめます。鉄工所は結婚祝いに、大阪支店長のポストを用意してくれました。長男が生まれて6か月目のころです。しかし、妻(私の母)は大阪へ行きませんでした。夫婦共働きでしたので仕事を辞めたくなかったというより、知らない土地で子育てを続ける自信がなかったのだろうと思います。
単身赴任した父でしたが、会社の裁量でふたたび、鉄工所の本社がある地元へ戻ってきました(これも鉄工所の配慮だろうと思います)。本社での仕事は外回りではなく倉庫の管理だったそうです。エンジニアでもあったので、不要な在庫を必要な在庫に加工したり、動かない装置を動くようにする作業を探し出しては積極的に行動していたのだと思います。
倉庫番は嫌な役目だと思っていたかもしれませんが、その後、会社を辞めて独立するときの大きな知識を得ることになった(と、母から話を聞きました)。倉庫にある装置や材料の修理や改修をしているときに外部のいろんな業者と接点を得ることができたからです。
私の想像ですが、営業マンはお金を払ってもらう立場ですが、倉庫番はお金を払ってモノを購入する立場になります。社外の営業マンがたくさん押しかけて来てそれで人脈ができたのではないかと思います。
その後、鉄工所を辞めて、自営業の会社をたちあげました。今日も営業のできるエンジニアとして、後進の育成に携わっています。
完








