36歳日曜日の境界線:タツコの図書館と静かな午前のカフェ
36歳日曜日の境界線:タツコの図書館と静かな午前のカフェ

タツコはまちなかの静かなカフェのテーブル席でぼんやりと本を読んでいた。図書館で借りてきた装丁の堅いミステリー小説だ。彼女にとって、日曜日は厳格なルーティンに守られた、侵されない時間だった。


日曜日のモーニングルーティン

朝7時に目覚め、1LDKの賃貸マンションで部屋の掃除と身支度を整える。会社へ行く時間よりちょうど2時間遅い9時に、マンションを出る。9時10分には、自宅近くの市立図書館の分館に到着し10時のカフェ開店までに読みたい本を探し借りてしまう。

そして今、このカフェにいる。濃いめのブレンドコーヒーと、一切れのアイスチーズケーキ。彼女はいつもこの席で、正午になるまで静かに本を読む。周囲の話し声や、エスプレッソマシンの音が、かえって彼女の境界線を際立たせる。

本に視線を落としながらも、タツコの頭の隅には、スマートフォンの通知がちらついていた。

マッチングアプリではユリと名乗る彼女のアカウント。これまでに4度、DMが届いていた。しかし、いずれも真剣に結婚相手を探しているようには思えない、軽薄な内容。

実際にお会いするところまで至ったことは、一度もない。タツコは、画面の向こう側のユリと、現実のタツコの間に、大きな距離を保っていた。

正午。タツコは栞を挟み席を立った。昼ご飯は自宅に戻って済ませ、午後はベッドでゴロゴロ過ごす。そして夕食は、缶ビールをゆっくり飲みながら、動画配信サービスを2時間ほどサーフィンして過ごす。

日曜日のこのルーティンこそがタツコにとって他者の介入を許さない絶対的な安心の領域だった。

しかし今日、いつものようにカフェを出ようとしたとき、彼女のスマートフォンが小さく震えた。

アプリからの通知だ。

図書館という名の結び目:ユリが見つけた真面目な影

タツコのスマートフォンの通知が鳴った。カフェを出ようとした彼女は、慣れないその音に一瞬立ち止まる。画面を開くと、マッチングアプリの新しいDM。名前はリュウタ。年齢は34歳、もちろん独身。

「へえ、34歳か。こんな歳まで、この男は何をしていたんだろうね」

タツコは思わず、自分のことを棚に上げながら独り言を呟いた。彼女もまた、36歳まで結婚という道を選んでこなかった身だ。

リュウタの文面からは、これまでの軽薄なメッセージとは違う、微かな緊張感が伝わってきた。

「初めまして、リュウタと申します。マッチングありがとうございます!僕も群馬県出身なので色々話ができたらうれしいです!3枚目のサバトラの写真かわいいですね。実家で飼ってるんですか?」

特筆すべき感情は微塵も感じられない、極めて事務的な挨拶。しかし、地元が近いこと、そしてプロフィール写真にこっそり紛れ込ませた猫の写真に言及してきたことが、タツコの境界線をわずかに揺らした。

ほんの少しの好奇心から、タツコは返事を返すことにした。ペンネームはユリ。

「ユリです。猫の名前はこじろうといいます。褒めてくださってありがとうございます。実家の家猫です」

お互いに深く自分をさらけ出すような内容ではない。それでも、タツコにとっては大きな一歩だった。

そのメッセージに対して、10分も経たないうちに返信がきた。その返信の速さ、リュウタが真面目にアプリを見ている証拠のように思えた。

「ご返信ありがとうございます。僕は、プロフィールに書いたように会社員をしています。一昔は人気業種だった貿易会社に勤めていますが、いまではブラック企業と言われています。週末は図書館で過ごしています」

タツコの視線は、そのメッセージの中の一つの単語に釘付けになった。図書館。

彼女の日曜日のルーティンの中核。彼女にとって、外界との接触を最小限に抑え、唯一安心できる場所だ。

「図書館ね」

タツコは、日曜の午後にベッドでゴロゴロ過ごす予定を忘れ、思考を巡らせた。どこの図書館だろう。まさか、毎週日曜日の午前9時10分に彼女が訪れる、わが町の市立図書館にいるのだろうか。

もしそうなら、リュウタは、この静かなカフェのすぐそば、あるいは、本の貸し出しカウンターで、知らず知らずのうちにすれ違っている顔見知りかもしれない。

タツコは一気に不安と興奮が入り混じった感覚に襲われた。自分の絶対的な安全地帯に、ユリの存在を知る他者が侵入しているかもしれない。彼女は、午後のゴロゴロを返上し、急いで図書館へ引き返す衝動に駆られたが、結局その場に立ち尽くすことしかできなかった。

中央図書館の監視者:ユリの警戒心とリュウタの不器用な笑顔

リュウタの週末の居場所が判明した。それは、タツコが住む街にある市立中央図書館だった。タツコが毎週通っているのは、自宅から近い公民館併設の分館だったが、中央図書館も彼女のマンションから徒歩圏内だ。

「近い。近すぎる」

DMでやり取りを重ね、親近感が湧くどころか、タツコは強い警戒感に襲われた。普通なら、この近さが恋愛感情に結びつくのかもしれない。だが、タツコにとってリュウタは、自分の平穏なルーティンを壊しかねない未知の異性だった。何か悪いことが起こるかもしれないという漠然とした不安が、期待を上回っていた。

これは、真面目に結婚相手を探しているという本来の願望の裏返しだった。結婚したい、でも変化は怖い。タツコは、その矛盾した気持ちに全く気づいていない。

彼女は、密かにリュウタを観察することを決めた。ストーカーのような露骨な行動は避けるため、日曜日の朝、タツコは黒のタートルネックの襟を立て、つばの広いハットを深めに被るという、まるでスパイ映画のような装いで中央図書館へと向かった。

館内のエントランススペース。リュウタは、プロフィール写真よりも少し地味で、猫背気味の男性だった。真面目そうな面持ちで、広げたノートと書籍を前に、缶コーヒーを飲んでいる。タツコは、遠く離れたソファ、柱の陰からリュウタの様子をうかがった。

そのときだった。リュウタがふいに顔を上げ、一直線にタツコの方を見た。

「あの、ユリさんですよね?」

タツコは心臓が凍り付くのを感じた。完璧に隠れたつもりだったが、あまりにもやすやすと見破られてしまった。その瞬間、彼女の警戒心は最高潮に達した。

リュウタは、タツコの不審な服装や様子に怯えるどころか、不器用な笑顔を見せた。それは、DMの文面からは微塵も感じられなかった、妙に素直で誠実な笑顔だった。

タツコは、彼の笑顔とユリさんという呼びかけに押され、観念して声をかけた。

申し合わせたように、二人は図書館近くのカフェに入った。落ち着いた店内で、リュウタはぽつりぽつりと話し始めた。やはり、少し話し下手だ。

「あの、先ほどは急に話しかけてしまってすみません。でも、その、雰囲気が、プロフィール写真とそっくりだったので」

タツコは、幅広の帽子とタートルネックという変装(?)を見抜かれた恥ずかしさと、彼の予想外の素直さに、思わず自分の本名を名乗りそうになった。

「あ、わ、私」

しかし、長年、他人との間に境界線を引き続けてきた防御本能が勝った。タツコは、とっさに話術を駆使し、ユリという仮名を通し続けた。

「ユリです。まさかリュウタさんですよね。この辺りの方だったとは、存じ上げていましたが、本当にお会いできて驚きました」

リュウタは、タツコが本名ではなく偽名を使い続けていることに気づいているのかいないのか、曖昧な笑顔を浮かべて、借りていた本の話題を話し始めた。

タツコは、この日の突然の接触で、自分の日曜日のルーティンという絶対的な安全地帯が、リュウタという真面目な他者によって、確実に侵食され始めていることを悟った。

タツコの重荷:焦燥と負けたくないという感情

リュウタと中央図書館で接触して以来、タツコの日曜日午後のルーティンは完全に崩壊していた。

正午にカフェを出て自宅に戻り、午後をベッドで気楽に過ごす。その穏やかで安心できる時間が、今は焦燥に変わっていた。

動画を見ても内容がぜんぜん頭に入ってこない。ビールも進まない。頭の中は、あの話し下手の貿易会社社員リュウタのことで占められていた。

「あの口下手な貿易商人が。まだ図書館にいるんだろうか」

タツコは、そう罵るように口にしたが、それは自分自身の気持ちの裏返しだと知っていた。また会いたい。会う理由を作りたい。だが、それをリュウタに悟られたくない。

なんだか、負けたくないという奇妙な気持ちが湧き上がっていた。

何に負けたくないのか。リュウタを好きになったという気持ちを持つことが負けになるのだろうか。

タツコには、苦い記憶があった。あれは小学校の卒業式。一つ年上の初恋の先輩は卒業して遠い中学へ行く。タツコは勇気を出して、最後に何か残るものが欲しかったと伝えようとしたが、先輩はこまったように笑い、「ごめん、何もないよ」と言った。

その時感じた自分の気持ちは、誰かの人生に何も影響を与えないほど軽いものだという苦痛の記憶を、タツコは36歳になった今でも、心の奥で噛み締めていた。

だからこそリュウタに対して追いかける立場や待つ立場になることを本能的に拒否していたのだ。

重荷と次の約束

一方、リュウタもリュウタでタツコに下心見え見えだと言われることをとても恐れていた。もちろん下心がないわけではない。だからこそ慎重になり、またタツコに不審がられるのではないかとメッセージを打つ指が震えた。

そんな不器用な二人だったが、マッチングアプリというツールの勢いとお互いの静かなまた会いたいという願いが重なり、無事2回目の約束も取り付けることができた。

口下手なリュウタにしては最大限の積極性だった。

「市立中央図書館に午前11時30分、その後お昼をご一緒にいかがでしょうか」

タツコはメッセージを読んで、深くため息をついた。

「何しているんだろう、私」

ルーティンを捨て、偽名で恋をしようとしている自分に、戸惑いを覚える。だが、この日こそは、とタツコは静かに決意していた。今度はできればユリではなくタツコという本名を明かしてもいいかもしれない。

しかし、また別の抵抗感が湧き上がる。

タツコは、自分の名前が古風すぎて好きではなかった。子供の頃に読んだ龍の子太郎の物語のような、重く力強い印象があり、繊細な自分には似合わないと思っていたのだ。

タツコは本名を明かすべきか、そして、過去の初恋の記憶という敗北を乗り越えられるのか。日曜日の午前11時30分という時間が、彼女にとっての新たな境界線となるのだった。

古風な本名と児童書の共通点:タツコの解放とリュウタの空回り

日曜日の午前11時30分。タツコは市立中央図書館の正面エントランスで、リュウタを待っていた。

彼女は、この待ち合わせ時間から1分後の11時31分を、自分の告白の決行時間と決めていた。

リュウタが、定刻より少し早く駆け寄ってきた。お互いが顔を合わせた、その直後。タツコは、過去の敗北感やタツコという古風な名前に対するコンプレックスをすべて振り払うように、一気に言葉を絞り出した。

「あのぉ。いままで申し訳なかったのですが、わたしの本名はタツコと言います」

言い切った瞬間、長年胸の中に溜め込んでいた重い空気が抜けていくようだった。

リュウタは正直、面食らってしまった。突然の告白に、なんと返すべきか言葉が見つからない。「へ?」と、変な声が漏れてしまったが、彼はすぐに我に返った。

「そ、そんなのあたりまえですよ。ユリさん、じゃなくてタツコさん?」

彼の額に冷や汗がにじむのを見て、タツコは思わず笑いそうになった。図書館には立ち寄らず、二人はすぐに近所のカフェに直行した。

カフェまでの8分間の道のりは、タツコにとって一種の精神的な洪水だった。

「リュウタさんより2歳年上だから、本当にごめんなさい」そして、続けた。
「い、いえ、結婚したくないわけじゃないんです、私。ただ、その」

年齢のコンプレックス、結婚への消極的な姿勢、何もかもが言葉になって溢れ出し何を言っているのか自分でもわからなくなってしまった。しかしリュウタは一言も遮らず、ただタツコの話を不器用な笑顔のまま聞いていた。

カフェのドアを開けたとき、タツコは今日の私ってどうかしていると自嘲したが、同時に自分が普段から気にして言葉にできずにいたコンプレックスの源をすべて言い放てた喜びで今日なら何でもできそうな解放感に浸っていた。

リュウタもまた同じような感慨にふけっていた。

(初めて、タツコさんから内面を吐露してもらえたのかも)

その喜びに思考がぼんやりとしていたのだろう。交差点で、赤信号に変わった横断歩道を、彼は思わず歩き出してしまった。

「危ない!」

タツコに腕を引かれ、リュウタはハッと我に返った。彼の顔が真っ赤になる。

カフェのテーブルについてからも、リュウタはしばらく落ち着かなかったが、タツコは気にしなかった。彼女は、初めて本名で心を開いて話すことができているという事実に感動していた。

二人は図書館でよく読む本の情報交換をした。タツコが主に読むのは料理の本や雑誌だと知ってリュウタは驚いた。意外にも生活感のある趣味だ。

そしてリュウタは、ビジネス書の他に「がんこちゃんみたいな児童書も読みます」と打ち明けた。

「えっ」タツコは目を見開いた。

「実は、私も」

そういえば、彼女もまた、心が疲れたときには、昔読んだ児童書を借りては、ベッドの上でゴロゴロしながら読んでいた。タツコとリュウタ。ユリとタツコ。話し下手な貿易商人とコンプレックスの塊の女。

まったく接点がないと思っていた二人に、児童書という静かで温かい共通点が見つかった瞬間だった。

ユリの終焉とタツコの結婚:言葉と距離が育む愛のカタチ

タツコが本名を明かしてからは二人の話は驚くほどトントン拍子に進んでいった。

障害物といえば二人とも少し歳を重ねすぎていたかもしれないという程度だ。しかしそれはもはや二人にとって大きな問題ではなかった。

「タツコさんならいつだって誠実でいると思ったから」

リュウタはそう言った。タツコが偽名を使っていた過去も、タツコという古風な名前や年齢に抱いていたコンプレックスもリュウタにとっては何ら問題ではなかった。

むしろ、その不器用で、周囲との間に境界線を引きがちなタツコの内面の真面目さこそが、彼を引きつけていたのだ。

両親への挨拶も終え、二人はマッチングアプリに頼ることをやめた。離れているときはLINEでメッセージを交換するのが二人のやり方だった。

タツコは結婚するまで家には泊まらないわと宣言した。それは、過去の失敗や安易に踏み込まれたくないという彼女の根深い警戒心からくるものだったが、リュウタはそれを静かに受け入れた。

でも、ふたりで旅行にも行った。札幌でも神戸でも、ホテルは別々の部屋だった。

いざ結婚してみるとタツコはあのとき泊まらなくて本当によかったのかどうかよくわからないな、と思った。

だが、その距離を尊重し合えたことが、二人の関係の礎になったことは間違いない。

言いくるめられないための沈黙

結婚してからもリュウタは相変わらず話し下手だった。

家で一緒に過ごすときも、タツコが仕事の話やニュースの話題を一方的に話しリュウタは時折「うん」「そうだね」と頷くことが多い。

タツコは、彼が自分に意見することや怒ることがないのは言い負かされてしまうという心配からかもしれないと思っている。

口数の多いタツコに、不器用なリュウタは自分の意見を主張するよりも、沈黙でタツコの解放を受け止めることを選んでいるようだった。

それでも、二人は図書館で情報交換した児童書の話や、タツコが凝り始めた料理の話をしたりと、たくさんのおしゃべりをしながら一緒にいる時間を、結婚前からかけがえのない時間だと感じていた。

新しいルーティンとタツコの安心

いまでは周囲から仲良し夫婦のように思われている。

しかしタツコはそれが、子どもがまだいないから、そして共働きでお互いのスペースが確保されているからかもしれない、と思っている。

タツコは毎週日曜日の朝9時10分に図書館の分館へ向かう。リュウタは、午前11時30分に中央図書館でビジネス書を読む。

二人は自分の孤独なルーティンと相手との共同生活という二つの世界を両立させている。

タツコはもう、ユリという仮面を必要としない。龍の子太郎のように力強い名前を持つ自分自身をリュウタの隣で受け入れることができている。

彼女の人生は、真面目に結婚したいのに変化が怖いという過去のコンプレックスから生まれた境界線によって守られていた。しかし今、その境界線は消え、リュウタという静かな他者によって、より広大で安心できる共同生活という名の新しい居場所へと変わっていた。

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