
広島市の外れにある住宅街。山下家の朝は、だいたい慌ただしい。小学三年生のミツル は、今日もランドセルを背負ったまま玄関で靴を探している。母のトモコはキッチンから「もう出るよー!」と声を張り上げ、父のタツロウはスーツの上着を片手に、コーヒーを飲み干しながら家を飛び出す準備をしていた。
革命

「ミツル、靴は昨日ベランダに置きっぱなしだったでしょ」
「えっ、なんで知ってるん?」
「お母さんは全部知ってるのよ」
トモコは胸を張るが、ミツルは「お母さんはなんでも知ってるけど、お父さんはなんにも知らんよね」とぼそっと言った。その言葉に、タツロウは玄関で一瞬だけ固まった。けれど、すぐに「まぁ、仕事が忙しいけぇな」と笑ってごまかした。トモコはその横顔を見て、少しだけ眉を寄せた。土曜日。タツロウは珍しく朝から家にいた。ミツルはゲームをしながら、ちらちらと父の様子をうかがっている。
「ミツル、今日さ、ちょっと散歩でも行かん?」
「え、なんで?」
「なんとなく」
そのなんとなくが妙に気になって、ミツルはゲームを止めた。二人で近所の川沿いを歩きながら、ミツルはぽつりと話し始めた。
「学校でさ、昨日、友達とケンカしたんよ」
「ほう、なんで?」
「ミツルが描いた絵を、勝手に消しゴムで消されたけぇ…」
タツロウはスマホをポケットにしまった。歩く速度を少し落とし、ミツルの顔を見た。
「それは腹立つなぁ」
「うん」
「どうしたん?」
「怒って言い返したら、先生に落ち着きなさいって言われた」
ミツルは石を蹴りながら続けた。
「ミツルが悪いんかなぁ」
「悪いとかじゃなくて、嫌だったんよな」
「うん…」
ミツルは、父が自分の言葉を遮らずに聞いていることに気づいた。それがなんだか不思議で、少し嬉しかった。
家に戻ると、トモコが洗濯物を畳みながら言った。
「二人とも、なんか楽しそうじゃん」
「ミツルが学校の話してくれたんよ」
「え、珍しいね」
ミツルは照れくさそうにソファへ座った。タツロウはふと思いついたように言った。
「ミツル、来週の宿題の時間、どうするか決めん?」
「え、決めていいん?」
「ミツルが決めたらええよ」
ミツルは少し考えてから言った。
「じゃあ…月曜と木曜の夕方にする」
「いいじゃん」
「守れたらどうする?」
「どうするって?」
「なんか…。ご褒美とか」
「ご褒美はなし。でも守れたねって言う」
ミツルは笑った。
「それでいい」
トモコはその様子を見て、思わず口元を押さえた。ミツルがこんな顔をするのは久しぶりだった。月曜日。ミツルは自分で決めた時間になると、黙って机に向かった。トモコは驚いてタツロウにLINEを送った。
ミツル、宿題始めたよ。自分で決めた時間に
タツロウは仕事の合間にそのメッセージを見て、少しだけ胸が熱くなった。木曜日。ミツルはまた時間通りに宿題を始めた。終わったあと、タツロウが帰宅すると、ミツルが玄関まで走ってきた。
「お父さん!今日も守ったよ!」
「おぉ、すごいじゃん。自分で決めたこと、ちゃんと守れたな」
ミツルは満面の笑みでうなずいた。トモコはその光景を見ながら、心の中でそっと思った。
――この家、なんかちょっと変わったな。
土曜日の朝。ミツルはタツロウの部屋の前でノックした。
「お父さん、今日どこ行く?」
「どこ行こうかのぉ」
「また散歩でもいいよ」
「じゃあ、また川沿い歩くか」トモコはキッチンでその声を聞きながら、静かに笑った。タツロウは完璧な父親ではない。ミツルもまだまだ揺れる年頃だ。トモコだって、毎日バタバタしている。でも、家の空気は前より少しだけ柔らかくなった。それは、週末の散歩みたいに、ゆるくて小さな変化だった。
ひみつ

日曜日の朝。山下家は珍しくゆっくりした空気に包まれていた。トモコはパンケーキを焼き、タツロウは新聞を広げてコーヒーを飲んでいる。ミツルはというと、なぜかソワソワしていた。
「ミツル、なんか落ち着かんね」
トモコが笑いながら言うと、ミツルは口を尖らせた。
「別に。なんもないし」
「なんもない顔じゃないけどね」
「なんもないんよ!」
そのやり取りを聞きながら、タツロウは新聞を閉じた。
「ミツル、今日どっか行く?」
「えっ、行く!」
「どこがいい?」
「えっと…秘密!」
ミツルはなぜか胸を張った。トモコは「秘密って何よ」と笑ったが、ミツルは頑なに口を閉ざした。家を出ると、ミツルは先頭を歩き始めた。向かう先は、近所のホームセンター。
「ここ?」
「うん」
「何買うん?」
「秘密!」
ミツルは工具売り場へまっすぐ進んだ。小さな木材や釘、絵の具を手に取りながら、真剣な顔をしている。
「ミツル、何作るん?」
「言わん」
「言わんのか」
「言わん」
タツロウはミツルの真剣さに押され、黙ってカゴを持った。レジで会計を済ませると、ミツルは袋を抱えて満足そうに言った。
「よし、帰る!」
家に戻ると、ミツルは自分の部屋にこもった。トモコが「何してるん?」と聞いても、「秘密!」としか返ってこない。夕方になり、タツロウが部屋の前を通ると、中からトントンと木を叩く音が聞こえた。
「ミツル、大丈夫か?」
「大丈夫!」
「ケガするなよ」
「せん!」
その返事が妙に頼もしくて、タツロウは思わず笑った。夜。ミツルがリビングに現れた。
「できた!」
「何が?」
「見て!」
ミツルが差し出したのは、小さな木の箱。蓋には絵の具で描かれた文字がある。
「お父さんのものいれ」
トモコは思わず口元を押さえた。タツロウは一瞬言葉を失った。
「これ…ミツルが作ったん?」
「うん。お父さん、いつも鍵とか名刺とか机に散らかすじゃん」
「散らかすなぁ」
「だから、入れる箱作ったんよ」
ミツルは照れくさそうに笑った。
「お父さん、これ使って」
「使うよ。めちゃくちゃ使う」
タツロウは箱を受け取り、そっと蓋を開けた。中には、ミツルが描いた小さなメッセージカードが入っていた。
「お父さん、また散歩しようね」
タツロウはカードを見つめたまま、しばらく動けなかった。トモコは横で静かに言った。
「ミツル、いいの作ったね」
「うん。お父さん、喜ぶかなって思って」
タツロウはミツルの頭を軽く撫でた。
「ミツル、ありがとう。ほんまに嬉しい」
ミツルは照れながらも、満面の笑みを浮かべた。タツロウは箱を机の上に置き、鍵や名刺入れをそっと入れた。蓋を閉じると、なんだか机の上が前より少しだけ整った気がした。トモコが後ろから声をかけた。
「ミツル、嬉しそうだったね」
「うん。俺も嬉しい」
「なんか、いいね。最近の家」
「そうかもしれん」
タツロウは箱を見つめながら、静かに笑った。ミツルのひみつ作戦は、家の空気をまた少しだけ変えた。大げさなことは何もない。ただ、父と子の距離がほんの少し縮まっただけ。でも、そのほんの少しが、山下家にはとても大きかった。
クラス

火曜日の午後。トモコが仕事から帰ると、ミツルはランドセルを投げるように置いて、ソファに倒れ込んでいた。
「ただいま。あれ?なんか疲れた顔してるね」
「別に」
「別にって顔じゃないけど」
「別に」
ミツルはクッションに顔を埋めたまま動かない。トモコは夕飯の支度をしながら、ちらちらとミツルの様子を見ていた。ミツルは普段、学校であったことを自分から話すタイプではない。だからこそ、この沈黙は少し気になった。その日の給食時間。ミツルは友達の翔太と席が近かった。
「ミツル、昨日の図工のやつ、先生に褒められとったじゃん」
「うん」
「いいなぁ。翔太のは全然だったし」
翔太は笑いながら言ったが、どこか拗ねたような声だった。そのあと、別の友達がミツルの机に来て言った。
「ミツル、図工得意だよな。なんかコツ教えてよ」
「え、別に…」
「なんで教えてくれんのん?」
「いや、別に…」
ミツルは急に居心地が悪くなった。褒められるのは嬉しいはずなのに、今日はなぜか胸がざわざわする。給食の時間が終わる頃、翔太がぽつりと言った。
「ミツルってさ、なんか最近えらそうじゃない?」
その言葉が、ミツルの胸に刺さった。
「えらそうじゃないし!」
「だって、なんか…前より言い返すじゃん」
「言い返してない!」
「してるよ」
周りの子たちが気まずそうに黙った。ミツルはそのまま席に座り込んだ。自分が何をしたのか、よくわからない。ただ、胸の奥がぎゅっと縮むような感じがした。
夕方、タツロウが帰宅した。
「ただいまー。ミツル、今日どうだった?」
「別に」
「別にか」
「別に」
トモコが目で合図を送る。ちょっと様子がおかしいよという合図。タツロウはミツルの隣に座った。スマホはポケットにしまった。
「ミツル、なんかあったん?」
「別に」
「別にって言う時は、だいたい何かあるんよ」
「ないし」
「ないなら、ないでええよ。でも、話したくなったら言ってな」
ミツルはしばらく黙っていた。その沈黙が、少しずつほどけていくように見えた。やがて、ミツルはぽつりと言った。
「翔太に。えらそうって言われた」
「ほう」
「ミツル、えらそうじゃないのに」
「うん」
「なんで言われたんかなぁ」
「わからん」
ミツルは膝を抱えた。
「なんか…ミツル、悪いことしたんかなぁ」
「悪いことじゃなくて、翔太がそう感じたんかもしれん」
「感じた?」
「そう。ミツルが強く言い返したりしたら、翔太はえらそうって思ったんかもしれん」
ミツルは少し考えた。
「ミツル、言い返したんかなぁ」
「どう思う?」
「ちょっと言ったかもしれん」
「そっか」
タツロウはミツルの肩を軽く叩いた。
「ミツルが悪いとかじゃなくて、翔太も気持ちがあったんよ。明日、ちょっとだけ優しく話してみたらどう?」
「優しく?」
「うん。昨日のやつ、ミツルも言いすぎたかもって言うだけでええよ」
「言えるかなぁ」
「言えるよ。ミツルなら」
ミツルはゆっくりうなずいた。翌朝。ミツルはランドセルを背負いながら、玄関で立ち止まった。
「お父さん」
「ん?」
「昨日のやつ、言ってみる」
「おぉ、ええじゃん」
「言えるかなぁ」
「言えるよ。ミツルなら」
ミツルは深呼吸して、家を出た。休み時間。ミツルは翔太の机に近づいた。
「翔太」
「ん?」
「昨日のやつ…ミツル、ちょっと言いすぎたかもしれん」
「え?」
「なんか、ごめん」
翔太は驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「ミツル、別に怒ってないよ。こっちこそ、変なこと言ってごめん」
「うん」
「また図工、一緒にやろうや」
「うん!」
ミツルの胸のざわざわは、すっと消えた。家に帰ると、ミツルは玄関でタツロウを見つけるなり言った。
「お父さん!言えた!」
「おぉ、言えたんか!」
「翔太、笑っとった!」
「よかったなぁ」
ミツルは靴を脱ぎながら、満面の笑みを浮かべた。トモコもその様子を見て、思わず笑った。
「ミツル、なんか成長したね」
「うん。ミツル、言えたんよ」
「すごいじゃん」
ミツルは照れながらも、誇らしげだった。学校での小さなすれ違い。それを自分の言葉で解こうとしたミツルの一歩は、家族にとっても大きな一歩だった。
迷子

土曜日の昼下がり。トモコが「今日は外で食べようよ」と言い出した。
「ミツル、何食べたい?」
「ラーメン!」
「お父さんは?」
「俺もラーメンでええよ」
「じゃあ商店街の新しい店行こうか」
山下家は歩いて10分ほどの商店街へ向かった。新しいラーメン屋ができたらしく、ミツルは朝から楽しみにしていた。商店街は週末で人が多かった。焼き鳥の匂い、八百屋の呼び声、子どもたちの笑い声。ミツルはキョロキョロしながら歩いている。
「ミツル、はぐれんようにね」
「はぐれんよ!」
その言葉の直後、ミツルはたい焼き屋の前で立ち止まった。
「お父さん!見て!新しい味ある!」
「ほんまじゃ。抹茶クリームってなんなん」
「食べたい!」
「ラーメン食べてからな」
「えー!」
そんなやり取りをしながら歩いていると、ラーメン屋の前に行列ができていた。
「うわ、並んどるね」
「ミツル、待てる?」
「待てる!」
ミツルは意気揚々と列に並んだ。10分ほど並んだところで、トモコが言った。
「ちょっとトイレ行ってくるね。すぐ戻るけぇ」
「うん」
トモコは商店街の奥へ歩いていった。その間、タツロウとミツルは列で待っていたが、ミツルはだんだん落ち着かなくなってきた。
「お父さん、たい焼き見てくる!」
「え、ちょっと待て」
「すぐ戻るけぇ!」
ミツルは人混みの中へ走っていった。タツロウは慌てて追いかけようとしたが、列が動き始めてしまい、周りの人に押されて身動きが取れない。
「ミツルー!戻ってこいよー!」
しかし、ミツルの姿はすぐに見えなくなった。たい焼き屋に着いたミツルは、抹茶クリームの看板を見て満足した。
「やっぱり美味しそう…」
しかし、振り返るとタツロウの姿がない。
「あれ?」
人混みの中で背伸びしてみても、見えない。
「お父さん?」
ミツルは急に不安になった。商店街のざわざわした音が、いつもより大きく聞こえる。
「お父さんどこ?」
ミツルはたい焼き屋の前で立ち尽くした。列から抜けたタツロウは、商店街を走り回った。
「ミツルー!どこおるん!」
八百屋の前、ゲームセンターの前、たい焼き屋の前。しかし、どこにもいない。トモコも戻ってきて、状況を聞いて青ざめた。
「え、ミツルいなくなったん?」
「たい焼き屋に行ったって言っとったけど、おらんのよ」
「ちょっと!探すよ!」
二人は商店街を右へ左へ走り回った。たい焼き屋の横のベンチ。ミツルは半泣きになりながら座っていた。
「お父さん。どこ行ったん…」
その時、遠くからタツロウの声が聞こえた。
「ミツルー!」
ミツルは顔を上げた。
「お父さん!」
タツロウは息を切らしながらミツルのところへ駆け寄った。
「ミツル!どこ行っとったん!」
「たい焼き見てたら…お父さんおらんくなって」
「おらんくなったんじゃなくて、ミツルが走って行ったんよ!」
「ごめん…」
ミツルはタツロウの胸に顔を埋めた。タツロウはミツルの背中を軽く叩いた。
「もうええよ。見つかってよかった」
トモコも駆け寄ってきた。
「ミツル、ほんまに心配したんよ」
「ごめん…」
トモコはミツルの頭を撫でた。
「次は絶対、勝手に走らんこと」
「うん…」
結局、ラーメン屋の行列はさらに伸びていた。
「どうする?」
「もう並ばんでええよ」
「じゃあ、たい焼き食べる?」
「食べる!」
ミツルは泣いたあととは思えないほど元気になり、抹茶クリームたい焼きを頬張った。
「うまっ!」
「よかったなぁ」
「うん!」
タツロウとトモコは顔を見合わせて笑った。商店街での小さな迷子事件。大したことではないけれど、家族の絆がちょっとだけ強くなる出来事だった。
模様替え

商店街での迷子事件から数日後。山下家はいつも通りの平和な夕方を迎えていた。トモコが夕飯の支度をしていると、ミツルがリビングの真ん中で腕を組んでいた。
「ミツル、何してるん?」
「ここ、なんか狭い」
「狭い?」
「うん。机とかテレビとか、なんか全部近い」
トモコは笑った。
「ミツル、急にどうしたん」
「なんか…変えたい」
「変えたいって?」
「模様替え!」
その言葉に、トモコは一瞬だけ固まった。
「え、今?」
「今!」
「お父さん帰ってからにしよ」
「えー!」
ミツルはソファに倒れ込みながら「模様替えしたい」と連呼した。タツロウが帰宅すると、ミツルが玄関まで走ってきた。
「お父さん!模様替えしよう!」
「え、なんで?」
「なんか狭い!」
「狭いんか」
「狭い!」
トモコがキッチンから顔を出した。
「ミツルが急に模様替えしたいって言い出したんよ」
「ほう…」
タツロウはリビングを見渡した。
確かに、机の上には書類やら鍵やらが散らばっている。テレビ台の横にはミツルの工作道具が積み上がっている。
「まぁ、確かに散らかっとるな」
「散らかっとるよ!」
「じゃあ、ちょっとやってみるか」
「やったー!」
ミツルは飛び跳ねた。まずはソファを動かすことになった。タツロウが端を持ち、ミツルが反対側を持つ。
「ミツル、持てる?」
「持てる!」
「ほんまに?」
「持てる!」
しかし、持ち上げた瞬間、ミツルは「うわっ」と言って手を離した。
「ミツル、持ててないじゃん」
「持てたと思ったんよ!」
「思っただけじゃん」
「思っただけだった!」
トモコは笑いながら言った。
「ミツルは小物担当にしよ」
「小物担当って何?」
「クッションとか、軽いやつ」
「軽いやつならできる!」
ミツルはクッションを抱えて得意げに歩き回った。机の上の散らかったものを片付ける時、タツロウがミツルの作った木の箱を手に取った。
「ミツル、これ使うで」
「お父さんのものいれ!」
「そう。鍵とか名刺とか、ここに入れるんよ」
「うん!」
タツロウは机の上の小物を箱に入れながら、ふと笑った。
「これあるだけで、机がちょっと片付くな」
「ミツルが作ったけぇね」
「ほんまじゃ」
トモコも横でうなずいた。
「ミツル、いいの作ったね」
「うん!」
ミツルは胸を張った。次にテレビ台を動かすことになった。
「ここにしたらどう?」
「いや、こっちのほうがええんじゃない?」
「いやいや、窓の近くは眩しいよ」
「眩しいん?」
「眩しいよ!」
家族3人でテレビ台を囲みながら、あーだこーだ言い合った。最終的に、ミツルが言った。
「じゃあ、ミツルが決める!」
「え、ミツルが?」
「ミツルが!」
タツロウとトモコは顔を見合わせた。
「まぁ、ミツルの部屋じゃないけど…」
「リビングだけど…」
「ミツルが決める!」
ミツルはしばらく考えたあと、テレビ台を少しだけ右にずらした。
「ここ!」
「理由は?」
「なんとなく!」
「なんとなくか」
「なんとなくが一番いい!」
トモコは笑いながら言った。
「まぁ、いいか。なんとなくで」
1時間ほどかけて、リビングは少しだけ広くなった。ソファの位置が変わり、テレビ台が右にずれ、机の上はミツルの箱のおかげで片付いた。ミツルはリビングの真ん中で腕を組んだ。
「よし。広くなった!」
「ほんまじゃ。ちょっと広く感じるな」
「ミツルが決めたけぇね」
「ミツルが決めたんよ!」
トモコはソファに座りながら言った。
「なんか、家の空気が変わったね」
「模様替えしたけぇね」
「そうじゃね」
タツロウはミツルの頭を軽く撫でた。
「ミツル、いい仕事したな」
「うん!」
ミツルは満面の笑みを浮かべた。家の中の小さな模様替え。ただ家具を動かしただけなのに、家族の空気が少しだけ柔らかくなる。そんな家の中の変化が、山下家の日常をまた一歩前に進めた。
未来

模様替えから数日後の夜。山下家はいつも通り、ゆるい空気に包まれていた。トモコは洗い物を終え、タツロウはミツルの宿題を横で見守っている。ミツルは漢字ドリルを閉じると、ふと顔を上げた。
「お父さん」
「ん?」
「ミツル、将来のこと考えたんよ」
「将来?」
「うん」
トモコがソファから身を乗り出した。
「ミツル、急にどうしたん?」
「なんとなく」
ミツルは机の引き出しから、折りたたんだ紙を取り出した。広げると、そこには色鉛筆で描かれた大きな絵があった。
「未来の地図」
と書かれている。紙には、いろんな場所が描かれていた。
- 大きな川
- 高い山
- 商店街
- 学校
- 家
そして、真ん中に「ひみつ基地」トモコは思わず笑った。
「ひみつ基地って何?」
「ミツルが大きくなったら作るんよ」
「どこに?」
「川の近く」
「なんで川の近く?」
「散歩したとき、なんかいいなって思ったけぇ」
タツロウは地図をじっと見つめた。
「ミツル、これ全部自分で描いたん?」
「うん」
「すごいじゃん」
「ミツル、未来のこと考えるの楽しいんよ」
ミツルは胸を張った。ミツルは地図の端を指さした。
「ここにお父さんの工房って書いたんよ」
「工房?」
「お父さん、ミツルの箱使ってくれとるじゃん」
「使っとるよ」
「だから、お父さんもなんか作るんかなって思って」
タツロウは一瞬だけ言葉を失った。
「ミツル…」
「お父さん、なんか作りたい?」
「作りたいかもしれん」
「じゃあ、未来の地図に書いとくね」
ミツルは色鉛筆で「お父さんの工房」の文字を少し太くした。トモコはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
「なんかいいね。未来の地図」
「うん。なんかワクワクするね」
その夜。ミツルが寝たあと、タツロウはリビングで地図を広げていた。
「お父さんの工房、かぁ」
「いいじゃん。作れば?」
「何作るん?」
「知らんよ。ミツルが決めたんじゃけぇ」
「そうじゃな」
タツロウは地図の真ん中にある「ひみつ基地」を見つめた。
「ミツル、ほんまに大きくなったな」
「うん。なんか最近、ちょっと変わったよね」
「変わったなぁ」
トモコはソファに座りながら言った。
「でも、まだまだこれからよ」
「これからか」
「うん。ミツルの未来は、まだ地図の途中じゃけぇ」
タツロウは地図をそっと畳んだ。
「そうじゃな。途中じゃな」
朝、ミツルはランドセルを背負いながら言った。
「お父さん、今日帰ったらまた未来の地図描くけぇ」
「おぉ、ええな」
「お父さんの工房、もっと大きくする!」
「大きくするんか」
「うん!」
ミツルは元気に家を出ていった。トモコは玄関でその背中を見送りながら言った。
「なんか、未来っていいね」
「うん。ミツルの未来、楽しみじゃな」
タツロウは笑った。ミツルの未来の地図は、まだ真っ白なところがたくさんある。そこに何が描かれるのかは、誰にもわからない。でも、きっとこの家族なら、その地図を一緒に広げながら、笑ったり、迷ったり、時々ケンカしたりしながら、ゆっくり描いていくのだろう。
