南十字星
南十字星

オークランド国際空港のVIPラウンジには、まるでそこだけ時間がゆるやかに流れているかのような、白い大きなビーチパラソルがいくつも並んでいた。ガラス越しに見える滑走路の向こうでは、夏の太陽が傾きかけ、空をほのかな桃色に染め始めている。マリコは、5泊7日のニュージーランド旅行の終わりにいた。

深呼吸

水着の上に薄手の麻のブラウスを羽織り、深くソファーに身を沈める。濡れた髪からときおり落ちるしずくが、首筋を伝う冷たい感覚。そんな、冬休み(現地では夏)の1週間だった。

彼女のテーブルに運ばれてきたのは、地元の豊かなカマンベールチーズと、冷えた白ワイン。グラスの表面に結露した水滴を指先でなぞりながら、マリコはここ数日のことに思いをはせていた。湖畔のコテージで過ごした、静かな午後。ただ波音を聞き、読書をし、一人で冷たい水に身を投げた時間。日常という重荷をそっと脇に置き、自分だけの呼吸を取り戻すような、ささやかな解放感。

(私は、なにを求めてここに来たのだろう)

夫と高校生の息子は、出発までのわずかな時間も惜しむように、空港内の免税店街へと消えていた。

「限定のワインがあるらしい」
「搭乗30分前には戻るよ」

そう言って笑っていた夫の顔を思い出す。平穏で、満ち足りていて、どこか退屈な私たちの日常。いまも二人は、両手にお土産の紙袋を下げて、あちこちのショップを駆け回っているのだろう。そのとき、隣のパラソルから、低く掠れた声が聞こえてきた。

「ねえ、あなた」

ささやくような、それでいて滑らかな響き。マリコは自分のことだとは思わず、聞こえないふりをしてワイングラスに唇をつけた。けれど、声はもう一度、今度はとても聞き取りやすい、平易で美しい英語で話しかけてきた。あきらかにマリコへ話しかけている。

「少し、お話をしてもいいかしら」

マリコはゆっくりと顔を上げた。仕立てのいいシルクのブラウスを着た、年齢の読み取れない一人の婦人だった。優雅な佇まいの中に、どこか長い旅に疲れたような影を纏っている。連れはおらず、小さな革のボストンバッグが一つ、彼女の足元にポツンと置かれていた。

「どうなさいました?」

マリコが応じると、婦人は小さく微笑み、手元のアイスティーのグラスに視線を落としながら、まるで遠い昔の歌をくちずさむように、静かに語り始めた。

呪縛

「わたしの人生に呪われてるのかしら」

あまりに淡々としたその言葉に、マリコは小さな息をのんだ。婦人は窓の外、離陸していく大型旅客機のシルエットを見つめたまま、静かに言葉を重ねる。

「あなた、ひょっとしたら、小さな不満を胸に抱えたお母さんでじゃないかしら。私からは裕福で、独創的で素敵な奥様にも見えるけど。きっとあなたは、自分では決して叶えられない甘い夢を、今もどこかでみていらっしゃるような」

図星を突かれたような衝動に、マリコは返事を失った。婦人は責める風でもなく、ただ哀愁を帯びた眼差しでマリコを一瞬だけ見つめると、寂しげに微笑んだ。

「でもね、いいのよ。私が今日あなたにこうして話しかけたいと思ったように、昔の私にも、誰かが話しかけてくれたらよかったのに、そう思ってみただけなの」

二人はお互いに名前を名乗らなかった。どこから来てどこへ行くのかも。けれどマリコは心の中で、気品と孤独を漂わせる彼女をマリアと呼ぶことにした。

マリアの故郷は、湿り気のあるアジアの熱帯、香港だった。若くして結婚し、二人の幼い子どもに恵まれた。けれど、平穏な日常は彼女の渇きを癒やしてはくれなかった。そのとき彼女が出会ったのは、大型の企業案件を専門に扱う野心にあふれたエリート弁護士だった。

すべてを捨てて、彼女は彼の手を取った。幼子も、妻という立場も置き去りにして、サンフランシスコへ。その当時、投資案件だった当時のシリコンバレーへ身を預けた。イタリアの高級リゾート地で過ごしたバカンス。当時の彼女は、財産も社会的地位も何もなかったけれど、男たちを惑わせる溢れるような魅力があったのだろう。

「逃げている最中に、元の夫との離婚が成立したわ。でもね、不思議なことに、あれほど燃え上がった彼とも、しばらくすると心がすれ違っていったの」

変化

男を変え、街を変える旅が始まった。弁護士の元を去った彼女が出会ったのは、オーストラリアからやってきた大手保険会社の社長だった。今度は常夏のハワイへ移住し、邸宅で暮らした。マニラにも、雪の降る日本の北海道でも暮らした。もちろん、相手はその都度変わった。

「逃げられる場所ならどこへでも行ったわ。本当は、悪いことだと分かっていたのよ。でもね、不倫の相手と夫婦のふりをして、見知らぬ街のショッピングモールを仲良く歩く。それがたまらなく楽しかった。それこそが自由なのだと信じ込んでいたの」

自由になりたかった。ただそれだけだったのだと、マリアは氷の溶けたグラスを優しく揺らす。

「だけど。いつの間にか、私が行ってもいい場所も、行きたいと思う場所もなくなってしまった。気づいた時には、周りから親しい人たちも昔からの友達も、みんないなくなっていたわ」

ドバイでは豪華なクルーザーの晩餐会に招かれ、ローマでは石畳の街並みにハイヒールを響かせた。
コロンビアのマフィアとも恋に落ち、彼が主催する国際的な取引のディナーへ、エスコートされて出席したこともあった。

「わたし、あの頃は本当に魅力的だったと思うの。背中の開いた長いドレスを着てね。マフィアのボスに引き連れられて歩くなんて、当時の私には当たり前の日常だった。本当に、この世界のすべてを見てきたような気になっていたわ」

そこまでの絢爛豪華な半生を語りながらも、マリアの瞳に誇らしげな色は一切なかった。

「素晴らしい生活を送ってきたと思う。後悔なんて何ひとつしていないわ。ただね、そんな旅の途中で、私は一度も、本当の自分に出会うことがなかったの」

後悔

マリアは深く息を吐き出し、遠い目をした。

「そんな風に世界のすべてを知ったつもりになっていた自分にも、行ったことがない場所がたくさんあった。そして何より、子どもを自分の手で慈しみ、育てるという経験を投げ出してしまった」

本当の甘さとは、豪華なドレスやシャンパンの中にはなかったのだと、彼女は言った。

「贅沢な暮らしじゃない、お金がない中で今月はどうやってやりくりしようかと頭を悩ませるような生活。そんな、昔の昔。ずっと遠い過去の私自身の暮らしを思い出してね、それが無性に懐かしく、愛おしくなって、一人で泣いたこともあるのよ」

パラソルの下、静かな風が二人の間を吹き抜けていく。

「私が憧れ、理想だと信じて追い求めた甘い生活の箱。そこから出てきたものは、結局すべて苦いものばかりだった。だからね、あなたには伝えたかったの。自由というのはね、とてつもなく大きな代償を伴うものなのよ」

そう言い切ると、マリアはゆっくりと立ち上がった。その立ち姿は、どこまでも気高く、そして痛々しいほどに美しかった。

「いい休暇を過ごせたようね」

彼女は最後にそう言い残し、小さなボストンバッグを手に取って、優雅な足取りで立ち去っていった。
ちょうどその時、ラウンジのアナウンスが響き、頭上の電示板に「香港行き」のフライトの搭乗案内が点滅し始めた。彼女の背中は、ラウンジの自動ドアの外へと消えていった。

「マリコ! すごい人だったよ、ほら、搭乗口近くのショップでこんなワインが見つかってさ」

両手にたくさんの紙袋を抱えた夫と、少し背の伸びた息子が、無邪気な笑顔で戻ってきた。
「お母さん、ずっとここで休んでたの? お腹すいてない?」と息子が尋ねる。

マリコは、残った白ワインを飲み干した。
口の中に広がったのは、ほんのりと酸っぱく、そしてさわやかなぶどうの甘みだった。

「ええ、とても素敵な時間を過ごしていたわ」

マリコは立ち上がり、愛おしい家族の背中を追いかけるように、搭乗口へと歩き出した。
パラソルの下には、ただ静かな夏の終わりの風だけが残されていた。

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