プレゼン
プレゼン

山口県宇部市。常盤公園の白鳥を眺める風光明媚なこの街に、今日も今日とて絶妙にドラマチックな溜息がひとつ響き渡っていた。主人公のオサムは先日映画館で見た「プラダを着た悪魔2」のナイジェルに自分を重ねてしまっているところがある。それがために、耳障りな発言もあるのだが、その点は、ご容赦いただきたい。

サツキ先生

「オーマイガー!サツキ、その色彩感覚と集中力の欠如は、僕の胃壁に対する直接攻撃かい?」

宇部市内の製形メーカーでデザイン部門の管理職を務めるオサムは、頭を抱えていた。彼のファッションと仕事に対する美学は完璧だ。洗練されたスカーフ、隙のないコーディネート、辛辣だが確かな審美眼。映画「プラダを着た悪魔」に出てくるナイジェルのように、彼は常に美意識と効率を追求する男である。

そんな彼の前に座る小学5年生の娘、サツキ。現在、テーブルの上には塾の理科のテキストが散らばり、彼女はシャーペンをくるくると回しながら、完全に心ここに在らずの表情で天井を見つめていた。

「いいかいサツキ、これで今週3回目だ。塾から帰ってきて復習しなさいと言ったら、君はテキストをボサーッと眺めて、解き直しをして、赤ペンで丸をつけて終わり。作業としてはエレガントかもしれないけれど、テストの点数がそれについてきていない!つまり、脳が1ミリも働いていない証拠だよ」

「だってさぁー、オサム(※サツキも、プラダを着た悪魔に魅了されてしまった一人だ、時々父親を名前で呼ぶ)。テキスト読んでも、全然頭に入ってこないんだもん。文字がすーっと通り抜けてく感じ?」

「通り抜けさせないでくれたまえよ!」

オサムは天を仰いだ。このままでは、今週末の小テストも悲惨な結果になる。しかし、頭ごなしに怒るのはオサムのエレガンスが許さない。彼はふと、職場の後輩が話していた、ある教育心理学のアプローチを思い出していた。

(待てよ。テキストをただなぞるだけの作業は、脳にとって負荷ゼロのぬるま湯。必要なのは、脳の奥底から記憶を引っ張り出す再生練習ならば、僕が取るべきポジションは?)

オサムはすっと立ち上がり、スカーフの結び目を少し緩めると、大袈裟な動作で椅子を引き、サツキの目の前に座り直した。そして、満面の笑み−−ただし目は全く笑っていないプロの笑顔−−を浮かべた。

「オーケー、作戦変更だ。サツキ先生」
「はい?」

「今日から、この我が家における先生は君だ。僕は宇部市立・超絶初心者の生徒、オサム。さあ、今日塾で習ってきたテコと力学の仕組みについて、この僕に講義をしてくれたまえ」

サツキは目を丸くした。「え、オサムに教えるの?私が?」

「そう!僕は何も知らないピュアな存在。さあ、先生!テコの原理ってやつを、僕にもわかるようにエレガントに説明してちょうだい!」
「えーっと、テコでしょ?テコはね支点と、作用点とあと何だっけ、力を入れるところ」

サツキの動きが止まった。眉間にシワが寄り、必死に記憶の海をダイビングし始める。

「えーっと、力を入れるから力点!そう、力点!」
「ほう!支点・作用点・力点!なんて洗練された三位一体!で、その3つの位置関係が変わるとどうなるんだい、サツキ先生?」

「あー、支点から力点が離れるとえっと、かるーく押せるようになる!だから、大きい石とかも動かせるの!」
「なんということだ!じゃあ、支点が真ん中にある時と、端っこにある時では何が違うんだい!?」
「えっ!?それはえーっと、なんだっけ」

サツキは猛烈に頭を抱えた。「えっとね、えーっと」と呟きながら、空中を手探りするように言葉を探している。

オサムの喉まで「支点からの距離と力の大さの比率だよ!」という答えがでかかった。喉喉喉まで出かかったが、彼は必死でそれを飲み込んだ。

(ダメだオサム、耐えるんだここで僕が答えを言ったら、彼女の脳のトレーニング負荷がゼロになってしまう!ワクワクした生徒の顔をキープするんだ!)

「うーん、サツキ先生!非常に魅力的なサスペンスだね!そのえーっとの後に何が来るのか、僕は気になって夜も眠れそうにないよ!」
「ちょっと待って!思い出すから!えーっとね、釘抜きみたいなやつは」

サツキは必死だった。いつもなら1分で飽きてスマホを触りたがる彼女が、自分の言葉でオサムに伝えようと、脳みそをフル回転させている。顔が真っ赤になり、目が爛々と輝いていた。

「あ!分かった!支点と力点の距離が長ければ長いほど、少ない力で済むんだ!ハサミと和菓子を挟むやつ(トング)は、その仕組みが違うの!」
「ブラボー!!」

オサムは思わず立ち上がり、パチンと派手に指を鳴らした。

「素晴らしい講義だったよ、サツキ先生!まるでパリのコレクションのフィナーレのような爽快感だ!」
「ふふん、でしょ?オサム、ちゃんと分かった?」
「バッチリだ。僕の脳裏に、テコの仕組みが鮮明に刻まれたよ」

その夜の夕食時。宇部名物の蒲鉾をかじりながら、サツキはどこか誇らしげだった。

「今日ね、オサムにテコのこと教えてあげたんだー」
「あら、サツキが先生だったの?」と微笑む妻。

「そう!オサム、全然分かってないんだもん。支点と力点の話したらブラボーとか言っちゃってさ」

その会話を聞きながら、オサムはワイングラスを傾け、静かに微笑んだ。

(ふっ、思惑通りだ。彼女は今日、テキストをぼんやり読んだだけの1時間よりも、僕に説明しようと必死になったあの5分間で、完璧に記憶の回路を太くしたのだから)

塾の結果

そして翌週。塾から帰ってきたサツキが、カバンからテストの答案用紙を叩きつけるようにテーブルに置いた。そこには、赤ペンででっかく「95点」と書かれていた。

「オサム!見てこれ!」
「オーマイガー!サツキ、これは悪くない。どころか、極めてゴージャスな点数じゃないか!」
「へへー!テコの計算問題が出たんだけどね、テスト中にあ、これオサムにドヤ顔で説明したやつだって思い出して、すぐ解けたの!」

サツキは胸を張ってニッと笑った。オサムはスカーフをキュッと結び直し、最高の笑顔で娘に向き合った。

「素晴らしいよ、サツキ先生。さて、今日の理科の授業は水溶液の性質だったね?僕という名の無知な生徒は、君の素晴らしい講義を聴く準備が完璧に整っているよ。さあ、教壇(テーブル)へお立ちなさい!」
「え〜、今日もやるの〜?」

と言いつつも、サツキは嬉しそうにノートを開き、「いい?水酸化ナトリウムっていうのはね」と元気よく話し始めたのだった。

オサムの職場

宇部市の湾岸エリアに位置する、老舗プラスチック・樹脂加工メーカー:宇部マテリアル・デザイン部。午前9時。洗練されたネイビーのジャケットに、絶妙な小紋柄のシルクスカーフを巻いたオサムが足を踏み入れると、フロアにピリッとした緊張感が走った。

「グッドモーニング、諸君。と言いたいところだけれど、僕の視界に入ってきたそのプレゼン資料のおかげで、一瞬で朝のコーヒーが苦くなったよ」

オサムの鋭い視線の先には、入社2年目の若手デザイナー・田中が冷や汗をかきながら立っていた。手元には、新商品のキッズ用ランチボックスのパッケージ案。

「た、田中です!オサムさん、例の新作ランチボックスのデザイン案、プリントアウトしておきました!」
「どれどれ」

オサムは指先ひとつで資料をつまみ上げると、額に手を当てて深々と溜息をついた。そのリアクションは、まるでパリコレのランウェイでスニーカーを履いたモデルが出てきた時の演出家のようだった。

「タナカ。君は僕を殺す気かい?このフォントのチョイスは何だ?ポップで親しみやすくというオーダーに対して、なぜ昭和のドライブインの看板みたいなダサいフォントを選んだんだい?」
「えっ、あ、いや子ども向けなので、丸くて太い方がいいかなと」
「丸くて太ければいいなら、僕らは練り物でも売っていればいい!宇部蒲鉾の工場に転職した方がお互いのためかもしれないね!」

オサムは資料を机に静かに置くと、デスクから素早くスケッチブックと太めのペンを取り出し、流れるような手つきで線を引いていく。

「いいかい、子ども向けだからこそ本物を見せるんだ。安易な原色の乱用は美学の放棄だよ。ベースは瀬戸内海を思わせる落ち着いたニュアンスブルー。フォントは少し角を落としたモダンなサンセリフ。ほら、これならお母さんが持ち歩いてもスタイルを損なわないし、子どもも大人っぽい!と歓喜する」

劇的に生まれ変わったデザイン画を目にして、田中の目が丸くなった。

「うわすごい!一気にオシャレになりました!」
「当たり前だ、誰に口をきいているんだい。デザインとは引き算のエレガンスだよ。あ、それからそっちの吉本さん」

隣のデスクで気配を消そうとしていた中堅社員の吉本が、跳ね起きるように姿勢を正した。

「は、はい!オサムさん!」
「来週の宇部市役所との地域コラボ企画の提案書だけどね。内容は悪くない。ロジックも通っている。でも、そのホチキスの留め角度は何だい?」
「えっ?ホチキスですか?」
「45度だと言ったはずだ!なぜ君の留めた書類はビミョーに30度くらいに傾いているんだい?プレゼン資料の角は、クライアントが最初に触れるデザインの玄関口だよ!玄関が傾いている家に入りたいと思うかい?」
「すみません!すぐに留め直します!」
「頼むよ、僕の美意識の許容範囲を試すのはやめてくれ」

オサムは自分のデスクに戻り、高級なレザーチェアに深く腰掛けた。毒舌ではあるが、彼の指摘には一切の無駄がない。修正されたデザインと資料は毎回社内でもトップクラスの評価を受け、クライアントからの信頼も厚いのだ。そこへ、部長の佐藤が缶コーヒーを手にやってきた。

「やあ、オサムちゃん、相変わらず手厳しいねぇ。まあまあ、宇部名物の月でひろった卵でも食べて落ち着いてよ」
「佐藤部長。僕のオフィスでの間食はナッツ類と決まっています。あと、そのよれよれのポロシャツの襟を立てるか直すか、どちらかにしていただけませんか?僕の集中力が削がれます」
「ハハハ、相変わらず容赦ないなぁ!」

部長は苦笑いしながら立ち去り、田中と吉本は顔を見合わせてこっそり囁き合った。

「オサムさん、今日もキレッキレですね」
「でもさ、指摘通り直すと絶対に企画通るんだよね。毒舌だけど、本当教え方上手いっていうか」

そんな二人のひそひそ話を聞き流しながら、オサムはふとデスクの上の小さなフレームに目をやった。そこには、先日の小テストで「95点」を取ってドヤ顔を決める娘・サツキの写真。オサムはスカーフの結び目を少し整えると、誰にも聞こえない声でつぶやいた。

「フッ。会社でも家でも、僕が最強のサポーターとして君たちを引き立ててあげているんだ。感謝してほしいものだね」

その口元には、完璧で、少しだけ優しい笑みが浮かんでいた。

オサムの生徒役

宇部市の週末。リビングには爽やかな風が吹き抜け、テーブルの上には香ばしく淹れられた紅茶のカップが置かれていた。オサムは、パープルの上質なカーディガンを羽織り、脚を組んで優雅に文庫本を広げていた。しかし、その耳はリビングの隅から聞こえてくる、不穏なつぶやきを完璧に捉えていた。

「えーっと。卑弥呼が邪馬台国であれ?聖徳太子ってどこで何した人だっけ?アスカ?アスカってあのエヴァンゲリオンの?」

オサムは本をパタンと閉じた。額に手を当て、美しく計算された溜息を漏らす。

「オーマイガー、サツキ。飛鳥時代とアニメのキャラクターを混同するのは、僕の歴史的感性に対する侮辱だよ。歴史上の人物たちが草葉の陰で泣いている」

デスクに向かっていたサツキが、げんなりした顔で振り返った。

「だってさぁ、オサム!社会(歴史)って覚えることが多すぎるんだもん!昔の人の名前とか、年号とか、ぶっちゃけ今の私に関係なくない!?」
「ナンセンス!」

オサムは立ち上がり、カーディガンの裾を優雅になびかせながらサツキの元へ歩み寄った。

「歴史とは、人間たちの壮大なドラマであり、究極のファッション史であり、権力闘争のエンターテインメントだ!暗記作業だと思っているからつまらないんだよ。よし、サツキ先生」
「また、あのパターン!?」

「もちろん!今日も僕は何も知らない無垢な生徒オサムだ。さあ先生、今日塾で習った飛鳥・奈良時代のドラマについて、僕をワクワクさせるような講義をしてくれたまえ!」
「えー。歴史だよ?私もよく分かってないのに」

「大丈夫、君の頭の中には既に知識のパーツがある。さあ、まずはその聖徳太子という重要人物からだ。彼は一体何者なんだい!?」
「えーっと、ね」

サツキはシャーペンをあごに当て、天井を見上げた。オサム演じる「超絶好奇心旺盛な生徒」の期待に満ちた視線を感じて、彼女の脳内の記憶検索エンジンが猛スピードで回り始める。

「聖徳太子はねすごく頭が良かった人!でね、推古天皇っていう女の人を助ける摂政(せっしょう)になったの!」
「ほう!セッショウ!なんだか響きがモードでカッコいいじゃないか!で、その優秀な彼は何をしたんだい!?」

「えっとね、当時の中国あ、隋(ずい)だ!隋っていうでっかい国にバカにされないように、新しいルールを作ったの!働いてる人のランクを帽子das帽子dasじゃなくて、帽子の色で分けるやつ!」
「帽子の色でランク分け!?なんて斬新でファッショナブルな人事システムなんだ!」

「でしょ!?冠位十二階(かんいじゅうにかい)っていうんだけどね、家柄じゃなくて実力で評価するための帽子なんだよ!紫色が一番えらいの!」
「紫!トレンドカラーを最高位に持ってくるあたり、彼のセンスは本物だね!他には!?」

「あとはね、国のルールとして憲法十七条っていうのを書いてみんな仲良く喧嘩すんなってことを一番最初に書いたの!」
「シンプルかつ真理!素晴らしいコンセプトだ!」

サツキの目が完全に輝き始めた。最初は「覚えるだけの苦行」だった歴史が、オサムに説明することで、頭の中でドラマとして組み立て直されていく。

「でね、でね、オサム!ここからが凄いの!聖徳太子は隋のトップ(皇帝)に手紙を送ったんだけど、それが超強気なの!」
「ほう、超強気!巨大帝国に対してかい!?」

「そう!日出づる処の天子、日没する処の天子に致すって書いたの!つまり日の登る国のリーダーから、日の沈む国のリーダーへ!って感じ!隋の皇帝はなめんな!って超ブチ切れたらしいよ!」
「オーマイガー!なんてロックで劇的なディプロマシー(外交)なんだ!聖徳太子、恐ろしい男!」

「ギャハハ!でしょ!?皇帝めっちゃ怒ったんだよ!」

サツキはもうノリノリだった。身振り手振りを交え、まるで自分が歴史の現場を見てきたかのように話し続ける。

「そのあとにね、小野妹子(おののいもこ)っていう使者を送るんだけど、名前は妹子だけど男なんだよ!ここテストに出るからね、オサム生徒!」
「男なのに妹子!まさにジェンダーレスなネーミングセンス!しっかりノートにメモしておいたよ、サツキ先生!」

「よろしい!じゃあ次は大化の改新について教えるね!中大兄皇子と中臣鎌足がね、蘇我氏っていう威ばってた奴らを」

言葉が詰まるサツキ。
(あ、蘇我の誰だっけ?入鹿(いるか)だっけ、蝦夷(えみし)だっけ?)

オサムの喉まで「蘇我入鹿(そがのいるか)だよ!」という言葉が出かかった。しかし、彼はぐっと息を飲み込み、瞳をキラキラと輝かせた。

「蘇我氏の誰なんだい、サツキ先生!?そのバッドボーイの名前は!?」
「えーっと、海の生き物みたいな名前のあ!入鹿(いるか)だ!蹴鞠(けまり)をしてる時に仲良くなった2人が、入鹿をやっつけたの!」

「蹴鞠が出会いのきっかけ!?まるで青春スポーツアニメじゃないか!ブラボー、サツキ先生!完璧な講義だ!」
「ふふん!歴史ってさ、要するに昔の人のドタバタ劇なんだよね!」

学校のテストの結果

それから数日後。学校から帰ってきたサツキが、リビングの扉をバーンと開けた。手には社会の単元テスト。

「オサム!見て!」

オサムがスカーフを整えながら答案用紙を受け取ると、そこには見事な100点の文字。

「オーマイガー!サツキ、100点満点かい!?エレガント、あまりにもエレガントだ!」
「へへー!冠位十二階も小野妹子も、オサムに帽子でランク分けしたんだよとか、男なのに妹子なんだよってドヤ顔で教えたから、テスト中にその光景がバッチリ浮かんだの!」

サツキはカバンをドサッと置くと、ニシシと笑ってオサムに指を指した。

「というわけで、オサム生徒!今日の塾は日本の気候と地理だったよ!リアス式海岸の仕組みについて、特別に講義してあげるから席に着きなさい!」
「喜んで、サツキ先生。僕の地理的知的好奇心を満たしておくれ」

オサムは最高の笑顔で椅子を引き、娘の最強の生徒として、楽しそうにノートを開くのだった。

26歳のサツキ

宇部市の湾岸エリア。夕暮れ時、瀬戸内海の海面がオレンジ色のグラデーションに染まる時刻、とある大型デザイン事務所のプレゼンテーションルームは熱気に包まれていた。

「つまり、このプロダクトが目指すのは、単なる機能性ではありません。地域産業の美学を、次世代のライフスタイルへどう翻訳するか。引き算のエレガンスです」

凛とした声で締めくくられたプレゼンに、クライアントの役員たちから一斉に大きな拍手が送られた。壇上に立っていたのは、26歳になったサツキだった。かつてはシャーペンを回しながら天井を仰ぎ、飛鳥時代の歴史をドタバタ劇として語っていた少女は、今や気鋭のプロダクトデザイナーとして活躍している。ネイビーの仕立ての良いパンツスーツに、首元にはさりげなく結ばれたシルクのスカーフ。その佇まいは、誰かに恐ろしいほど似ていた。

プレゼンを無事に終え、控え室に戻ったサツキは、深く息を吐いて胸元のスカーフを少し緩めた。

「サツキさん、お疲れ様です!今日のプレゼン、完璧でしたね!」

駆け寄ってきたのは、入社1年目の新人デザイナー・陸(リク)だった。手に持ったスケッチブックをサツキに見せながら、不安そうに尋ねる。

「あの、サツキさん。次の宇部市とのコラボ企画の案なんですけど、僕なりに、若者向けを意識してポップな原色を使ってみたんです。どうでしょうか?」

サツキは陸のスケッチブックに目を落とした。そして、額にそっと手を当て、完璧に計算されたエレガントな溜息をひとつ漏らした。

「リク。君は私を殺す気かい?」
「えっ!?」

「ポップだから原色?ナンセンスよ。原色の乱用は美学の放棄。安易な選択に逃げちゃダメ。宇部の海を思わせる深みのあるトーンを使って、フォントはもっとモダンに落とし込む。引き算の美学を忘れちゃ困るわ」
「は、はいっ!すみません!」

陸がガチガチに緊張したのを見て、サツキはふっと口元を緩めた。かつて父・オサムが自分や職場の後輩に見せていたナイジェル風毒舌が、今や自分の血肉となっていることに、密かなおかしさを感じながら。

「なんてね。厳しいこと言ったけど、コンセプトの骨組みは悪くないわよ」

サツキは陸の隣の椅子を引き、大袈裟な動作で腰掛けた。

「さあ、リク先生。作戦変更よ」
「え?リク先生?」

「そう。今日から君が私の先生。私は何も知らないピュアな新人生徒サツキ。さあリク先生、君がこのデザインで一番、伝えたいワクワクは何なのか、私に講義してちょうだい」

陸は目を丸くした。

「えっと。僕が教えるんですか?でも、僕もうまく説明できるか??」
「大丈夫、間違えても怒らないから。詰まっても待つわ。さあ、どうしてこの形にしたの?君の言葉で教えて!」

陸は一瞬戸惑ったものの、サツキの真剣かつ好奇心に満ちた瞳に押され、必死に頭の中の記憶と情熱を検索し始めた。

「えーっと。実は、この曲線は、宇部常盤公園の白鳥の羽ばたきをイメージしていて、手で持った時に、子供の手にもフィットするようにーーー。あ!だから、ここをもう少し削れば、持ちやすさとスマートさが両立できるかも!」

自分の言葉で説明するうちに、陸の目が輝き出し、アイデアの整理が急速に進んでいく。

「ブラボー!素晴らしい講義だったわ、リク先生!自分の言葉で説明したことで、デザインの課題がクリアに見えたでしょう?」
「うわーー、本当だ!僕、何を修正すればいいか完璧にわかりました!」

親譲り

嬉しそうにデスクに戻っていく後輩の背中を見送りながら、サツキはスマートフォンを取り出した。画面を開くと、家族のグループチャットに通知が届いていた。

オサム:『サツキ、今日のプレゼンはどうだったかい?僕の授けた美学が発揮されたと信じているよ。今夜は宇部蒲鉾の高級なやつを買ってある。シニカルな批評を聞く準備をして帰りなさい』

サツキはくすりと笑い、画面をタップした。

サツキ:『大成功だったよ、オサム生徒。今夜の夕食では、私が今日掴んだ『最高のプレゼン構造』について講義してあげるから、ノートとペンを用意してワクワクしながら待っててね!』

15年が過ぎても、我が家の「最強の学習法」は終わらない。教える者と、教わる者。その温かい逆転の構図は、時代を超えて、宇部の街に爽やかな風を走らせていた。

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