江古田の武蔵野大学で始まったお付き合いはジャカルタと日本の遠距離に突入
江古田の武蔵野大学で始まったお付き合いはジャカルタと日本の遠距離に突入

西武新宿線沿線、航空公園駅から自転車で12分。ミツコの住むワンルームマンションは、防衛医科大学校の巨大な建物を仰ぎ見るような場所にありました。


江古田ランデブーは満員電車を越えて

「よし、眉毛よし。左右差……。まあ、誤差の範囲!」

鏡に向かって自らに言い聞かせ、ミツコは最低限のメイクを高速で完了させました。21歳の女子大生としてはもう少し気合を入れるべきかもしれませんが、いかんせん江古田までの道のりは遠いのです。

家を出て、駅までのペダルを漕ぎ、そこから待っているのは「西武線の洗礼」という名の満員電車。ミツコの身長は145cm。このサイズ感でラッシュに飛び込むのは、深海魚が水圧に耐えるようなものです。吊り革には手が届かず、サラリーマンの背中とOLの肩の隙間で、もみくちゃにされながら「今日も私は生きている」と実感するのでした。

練馬駅での乗り換えを経て、ようやく降り立った西武池袋線・江古田駅。
駅を出ると、そこには昭和の香りが残る商店街と、学生たちの活気が混ざり合った独特の景色が広がっています。

「ふぅ。無事に着いた。すでに1限終わったくらいの疲労感なんだけど」

ミツコは乱れた前髪を整えながら、武蔵野大学のキャンパスへと歩を進めます。目的地は5号館。そこには、ミツコの大学生活において最大のイレギュラーとも言える存在、コータが待っているはずです。

二人の出会いは、いま思い出しても笑えるほど奇妙なものでした。
3年と少し前の入試会場。緊迫した空気の中、隣の席に座っていたのがコータでした。試験開始直前、消しゴムを落としたミツコに、彼はそれを拾い上げながらこう囁いたのです。

「君、名前は?合格したらまた会える?」

「今、それを言う必要ある!? 」とツッコミを入れる余裕もなかったミツコでしたが、蓋を開けてみれば二人とも合格。しかも、身長185cmという進撃の巨人クラスのコータは、本当に145cmのミツコに一目惚れしていたのでした。

5号館の入り口。
今朝もそこで、彼は清掃や設営のアルバイトをしているはず。

「あ、いたいた。というか、目立ちすぎ」

人混みの中から、ひときわ高い位置にあるコータの頭が見えました。彼はミツコの姿を見つけると、ブンブンとちぎれんばかりに手を振り、周囲の学生が驚くほどの笑顔を浮かべてこちらへ駆けてくるのでした。

新大久保の結界とアイスコーヒーの距離感

コータの住まいは、若者と異国の熱気が渦巻く街・新大久保にありました。
「山手線沿線で超便利だよ!」と彼は胸を張りますが、ミツコに言わせればそこは未知の領域。彼が住んでいるのは、築数十年は経過しているであろう、階段がギシギシ鳴りそうな、ナメクジも住んでいそうな古アパートです。

「新大久保。あそこは、私みたいな小動物が迷い込んだら最後、スパイシーな香辛料と一緒に胃袋に収められてしまう場所に違いないわ」

ミツコは勝手な偏見を抱き、心に固い決界を張っていました。どれほどコータが「うち、日当たりだけはいいんだよ」と誘おうとも、ミツコは首を縦には振りません。21歳の女子大生として、新大久保のディープな夜に足を踏み入れるのは、あまりにリスクが高すぎると直感が告げていたのです。

そんなミツコの警戒心をよそに、コータはいつも大型犬のような無邪気さで懐いてきます。
「ミツコといると、なんかマイナスイオン出てる気がする。マジで癒やされるわ〜」
「今度、ミツコの家に行っていい? 航空公園って、飛行機飛んでるの?」
などと、隙あらば距離を詰めようとしてくるのですが、そこは航空公園の防波堤ことミツコ。のらりくらりとかわし続けてきました。

そんな二人の絆がぐっと深まったのは、昨年の大学祭でのこと。
ゼミで出店した「焼きそば屋ミツコ」の店主(という名の看板娘)に任命されたミツコの横で、コータは驚異の客引きスキルを発揮しました。

「はい、いらっしゃい! こっちの焼きそばは、看板娘と同じで味に芯があるよー!」

185cmの巨体が145cmの店主を指差しながら叫ぶ姿は、もはや大道芸。その甲斐あって店は大繁盛。ミツコも「コータって、意外と頼りになる。というか、本当に私のことが好きなんだな」と、鈍感な彼女なりに気づき始めていたのです。

しかし、ミツコには密かな誓いがありました。
「卒業までは、学業優先。浮ついた交際はしない」
という、昭和の頑固親父のようなマイルールです。

その結果、二人のデートスポットは、いつも池袋駅近くのファーストキッチンに固定されました。
キラキラしたカフェではなく、あえてのファーストキッチン。そこで1杯のアイスコーヒーを啜りながら、とり留めのない大学の講義の話や、最近食べた美味しいおにぎりの話をする。

「ミツコ、氷、食べる?」
「いらないわよ。お腹壊すでしょ」

最初はもっと情熱的にアプローチしていたコータも、最近ではこの1杯のアイスコーヒー越しの距離感に、妙な心地よさを感じているようでした。彼もまた、ミツコの頑固でマイペースなリズムに、すっかり調教、もとい、適応してしまっていたのです。

ミツコにとっては、この何も起きないけれど、隣に大きな影があるという時間が、そのときは何より十分な気がしていました。

パンの香りと年下のストレートパンチ

江古田の商店街の一角に、地元民から絶大な信頼を寄せられるパン屋ペティスコがあります。
朝のラッシュ時には、戦場に向かうサラリーマンが「せめて美味しい朝食を」と殺到し、昼時になれば腹をすかせた学生たちが、トレイ山盛りに惣菜パンを積み上げる。店内にはイートインスペースもあり、常にコーヒーの香りと賑やかな話し声が絶えない場所です。

ミツコがここでバイトを始めたのは大学2年生の時。
「時給、セブンより高いじゃん」
そんな極めて現実的な理由で足を踏み入れた世界でしたが、現実はそう甘くありませんでした。

週に2日は、まだ街が眠っている午前6時30分に出勤。
薄暗い厨房で、ミツコは黙々とパンの仕込みに励みます。仕入れた生地の発酵を見守る。フライヤーでドーナツを揚げる。毎日毎日、同じことの繰り返し。

(きっと、大企業に就職してもこういう地味な反復の連続なんだろうな)

ふと、粉まみれの手を見てミツコは思います。けれど、この早起きの辛さや、焼き立ての熱さに耐える自分なら、社会の荒波だってきっと乗り越えられる。そんな根拠のない、でも確かな自信が、彼女を1年半もの間、この店のカウンターに立たせていたのでした。

そんなある日、店に新しい風が吹き込みます。
大学2年生のリョウタが、新人アルバイトとして入ってきたのです。

「リョウタさん、これがタイムカード。1分でも遅れたら店長にガミガミ言われるから気をつけてね」
「はい! よろしくお願いします!」

ミツコは先輩として、彼にペティスコの極意を叩き込みました。パンの一次発酵の見極め、フライヤーでカレーパンを揚げる際のスリリングな油の跳ね、そして焼き上がったパンを保温棚へ美しく並べるテトリスのような技術。

リョウタが入って2ヶ月。彼もようやく仕事に慣れ、ミツコはレジ打ちの最終レクチャーをしていました。

「いい? お客さんがトレイを置いたら、まず種類を判別して、このボタンを」
「ミツコさん」
「ん? 押し間違えた?」

教える指先を止め、リョウタの方を向いた瞬間でした。少し屈んだリョウタの顔が、意外なほど近くにありました。

「ミツコさん、なんかすごくいい匂いしますね。パンの匂いじゃなくて、もっと落ち着く、いい匂い」
「えっ? 洗剤かな」
「僕、ミツコさんのこと好きです。いつも優しくて、一生懸命で。本当に好きです」

「は!?」

ミツコの脳内フリーズ。
あの185cmの巨体、コータでさえ3年間かけてアイスコーヒーの距離を維持してきたというのに。この年下のリョウタときたら、レジ打ちを教わっている最中に、なんというストレートパンチを繰り出してくるのでしょう。

「ちょっと、今それどころじゃ」
口ではそう言いながらも、ミツコの頬は、焼き立てのクリームパンのように熱くなっていました。
卒業まで誰とも付き合わないと決めていたはずなのに。
コータとの安定したぬるま湯のような関係に、リョウタという熱々の揚げパンが飛び込んできたのです。

溶けゆく氷と飲み干せない本音

いつもの池袋駅近くのファーストキッチン。
トレーの上には、結露した2つのプラスチックカップ。ストローから伝わるアイスコーヒーの冷たさが、今日に限って妙に指先に刺さる気がして、ミツコは無意識にカップを回していました。

「ねえ、コータ。最近、バイト先にリョウタ君っていう後輩が入ってきたんだけど」

沈黙に耐えかねて、ミツコはついに口を開きました。
それは、自分でも驚くほど唐突な告白でした。コータにもっと必死になってほしかったのか、あるいは私だって需要があるんだからねという幼稚なプライドだったのか。はたまた、新しい恋への乗り換え案内を無意識に予行演習していたのか。

自分自身の本音さえ、そのころのミツコには霧の中でした。

「そのリョウタ君にね、告白されたの。好きだって」

言い終えた瞬間、周囲のガヤガヤとした話し声が遠のき、二人の周りだけ真空状態になったかのようでした。
目の前に座る185cmの巨躯が、一瞬で強張るのがわかります。

コータの反応は、予想していたような「えーっ、マジで!?」という軽い驚きではありませんでした。
それは、深い海の底でマグマが煮えたぎるような、猛烈な嫉妬からくる静かな怒りだったのです。
けれど彼は、その怒りをどう表現していいか分かりませんでした。怒鳴る理由も、泣く権利も、今の自分たちの中途半端な距離感には存在しないことを、彼自身が一番よく分かっていたからです。

コータは何も言わず、ただじっとテーブルの一点を見つめていました。
ミツコのアイスコーヒーは、氷が溶けて薄まり、まだ半分残っています。コータのカップに至っては、ほとんど手付かずのまま、表面に浮いた氷がカラリと小さな音を立ててプラカップの中で崩れました。

話し終えたミツコを襲ったのは、言いようのない後悔でした。
(なんで、こんなこと言っちゃったんだろう)

長い沈黙の末、コータは絞り出すような声で問いかけました。

「それで、僕は。僕に、何かできること、ある?」

その言葉は、ミツコに向けられたものであると同時に、不甲斐ない自分自身を突き放すような、悲痛な自問自答でした。145cmの小さな彼女を、3年間もアイスコーヒー越しに眺めることしかできなかった自分への、最後通牒。

ミツコは、喉の奥に詰まった苦いコーヒーを飲み込み、無理に口角を上げました。

「ううん。なんでもないよ。コータは、コータのままでいいよ」

その言葉は、優しさのようでいて、残酷な線引きでもありました。変わらなくていいということは、今のままの距離でいいということ。
二人の間にある十分だと思っていた関係が、実は薄氷の上に立っていたのだと、溶けかかったアイスコーヒーが教えてくれているようでした。

銀座の夜風と3年越しのコールバック

あの新宿の午後を境に、二人の世界から熱がスッと引いていきました。
江古田のキャンパス、5号館の前。以前なら100メートル先からでも分かったコータのブンブン振られる腕は、もうそこにはありませんでした。

「あ、ミツコ。やあ」
「あ、うん。お疲れ様」

すれ違いざま、視線を一瞬合わせて、すぐに逸らす。
「次の講義、文化論だから。じゃあまた」
そう言い残して去っていく彼の背中は、185cmという数字以上に、ミツコには遠く、巨大な壁のように感じられました。

それから、光陰矢のごとし。
3年の月日が流れ、ミツコは銀座の一角にあるカウンセリングルームで働いていました。
主な仕事は受付ですが、見習い相談員として、夫婦の修復しがたい溝や、言葉にならない男女の衝突を間近で見る日々。

(人の心って、一度離れるとこんなに冷たくなるんだ)

相談者たちの背中を見送るたび、ミツコの脳裏には、あのファーストキッチンの半分残ったアイスコーヒーが浮かびました。
コータとは、半年に一度、生存確認のようなLINEを交わすだけの関係。最後は「あけおめ」の一言。それだけで、細い糸をかろうじて繋ぎ止めているような、臆病な繋がりでした。

しかしそんな、ある冬の夜。
仕事帰りの銀座の街灯が、妙に冷たく目に刺さったとき。ミツコの中に、抑えきれない寂しさの塊がこみ上げてきました。
航空公園駅まで帰って、自宅に着いたの夜の11時を回ったところ。

指が勝手に、連絡先の一番下の方に沈んでいたコータの名前をタップしていました。

『プルルルプルルル』

「もしもーし? もしもーし。あれ? あー、もしもし?」

久しぶりに聞くコータの声。少し低くなったような、でも変わらないあの独特ののんびりした響き。
けれど、ミツコは喉がギュッと締まってしまい、一言も発することができません。
「・・・」
「もしもし? 誰? あ、切れた」

プツッ、という無機質な音。
あまりのショックと、自分の不甲斐なさに、ミツコの目からポロリと涙がこぼれました。
でも、今のミツコは3年前の逃げてばかりの大学生ではありません。

すぐに震える指でかけ直しました。今度は、呼び出し音が1回鳴るか鳴らないかのうちに繋がります。

「ちょっと! なんで切るのよ、私の電話!」
「あいや、あれ!? ミツコ!? ごめん、間違い電話か、最近流行りの無言の嫌がらせかと思ったんだよ。久しぶり、だな」

その一言で、止まっていた時間が一気に動き出しました。
それからの2時間は、魔法のようでした。
航空公園の夜風に吹かれたあと、ミツコは部屋のベッドに潜り込みながら、とり留めのない話を続けました。カウンセリングルームのこと、仕事の人間関係、そこで見聞きした夫婦の姿。コータも続けます。会社勤務は順調、新大久保のアパートを引き払う予定。

電話を切る直前、ミツコの心にあった寂しさの霧は、すっかり晴れていました。
今の自分なら、あの時言えなかった言葉を、もう少し素直に言えるかもしれない。

「ねえ、コータ。また、池袋で会おっか。ファーストキッチンで」

「ああ。今度は、コーヒー飲み干すまで帰さないからな」

受話器越しのコータの照れくさそうな笑い声が3年前よりもずっと近くに感じられました。

赤道直下の風と江古田の空

池袋のファーストキッチンは3年前と何も変わっていませんでした。
トレイに乗った2つのアイスコーヒー。けれど、向かい合う二人の面差しには、学生時代にはなかった社会という名の年輪が刻まれています。

「ジャカルタ?」

ミツコの声が、少し裏返りました。
再会したコータの口から飛び出したのは、甘い愛の言葉ではなく、商社マンとしての海外赴任の報せでした。

「そう。現地の言葉も勉強しなきゃいけないし、向こうのインフラ整備に関わる仕事でさ。それで、ミツコ」

コータは、大きな手をテーブルの上で組み、真剣な眼差しで145cmのミツコを見つめました。

「一緒に行かないか。向こうで、いっしょに暮らそう」

その瞬間、ミツコの脳内では猛烈な勢いで計算機が叩かれました。ジャカルタ。赤道直下の熱気。聞いたこともない言語。そして、ようやく見習いから独り立ちしかけている銀座のカウンセリングルーム。

「1年か、長くて2年なんでしょ?」

ミツコは、ストローを指で弾きながら、少しだけ突き放すように言いました。
もし、これがニューヨークやパリなら、ミツコも「仕事、辞めちゃうかな」なんて浮かれたかもしれません。けれど、ジャカルタという未知すぎる土地に、キャリアを捨てて飛び込む勇気は、今の彼女にはありませんでした。

「正直に言うね。私、コータみたいに一から現地語をマスターしてまで、ジャカルタに行きたいとは思えないの。それに、今のカウンセリングの仕事放り投げるわけにはいかないから」

それは、あまりに現実的で、あまりにミツコらしいお断りでした。
コータは少しだけ寂しそうに笑い、「だよな。ミツコはそういうだろうと思ったよ」と、大きく頷きました。

その後、コータは予定通り日本を発ちました。
二人の関係は、結婚でも別れでもなく、赤道を越えた遠距離連絡先という新しい形にアップデートされました。

数ヶ月後。
ミツコはいつものように銀座の受付に座り、時折スマホに届くジャカルタからの写真を見ていました。
そこには、汗だくになりながら現地のスタッフと笑う、少しやせたようにみえるデカい男の姿。

「こっちは毎日30度超え。アイスコーヒーがすぐぬるくなるよ」

そんなメッセージに、ミツコは江古田のパン屋ペティスコで買った焼き立てのパンの写真を返します。

「こっちは今日、初雪が降ったわ。風邪引かないようにね、進撃の巨人さん」

二人は結局、卒業しても、何年経っても、付き合うという明確な契約を交わさないままかもしれません。けれど、145cmと185cmの視界の差は、今やジャカルタと東京という距離さえも飲み込んで、不思議な信頼で繋がっていました。

航空公園の駅前を吹き抜ける冷たい風を感じながら、ミツコはふと思います。
いつか彼が帰ってきたら、今度こそアイスコーヒーじゃなく、クリスマスに温かくしたホットワインでも飲みながら、航空公園のワンルームでふたり、ゆっくりとその後の話をしたい、と。

江古田のペティスコと、届かなかった背伸び

江古田の商店街にあるパン屋ペティスコ。
ここでバイトを始めた僕が、教育係で1つだけ年上のミツコさんに目を奪われるのに時間はかかりませんでした。

ミツコさんは、とにかく優しい人でした。
彼女の小さな体が、成形されたパン生地のパレットを何枚も重ねて運んだり、熱々のフライヤーの前でテキパキとあんドーナツやカレーパンを揚げたりする姿は、誰よりも大きく、格好よく見えたものです。

「リョウタ君、ぼーっとしない! 1次発酵終わっちゃうよ!」

そう言って僕を叱る時の、少し吊り上がった眉毛。
レジ打ちを教えてくれる時、ふわりと漂う石鹸と小麦粉が混ざったような清潔な匂い。
僕はいつの間にか、シフト表で彼女の名前を見つけるたびに、心の中でガッツポーズをするようになっていました。

(でも、ミツコさんの心のどこかに、僕じゃない他の誰かがいる)

それは直感でした。
休憩中、彼女がたまにスマホを見つめて、少しだけ寂しそうで、でも嬉しそうな、何とも言えない複雑な顔をするのを僕は知っていました。

だからあの日。レジ打ちを教わっているとき、僕は告白したんです。
「ミツコさん、いい匂いがしますね。僕、ミツコさんのこと好きです。いつも優しくて、一生懸命で。本当に好きです」

言った瞬間、ミツコさんの顔が真っ赤になるのがわかりました。
僕は一瞬、期待しました。が、彼女の目はどこか遠くを見ていて、僕を通り越して誰かを探しているようでした。

「ちょっと、今、それどころじゃないでしょ」

その照れ隠しの言葉を聞いたとき、僕は悟りました。
ああ、僕はこの人の一番にはなれないんじゃないか、と。

ミツコさんは大学を卒業し、銀座のカウンセリングルームへと羽ばたいて行かれました。
その1年後に僕も無事に就職が決まり、江古田を去る日、卒業式の帰り。
僕はお付き合いを始めたばかりの女性とペティスコを訪れ、ミツコさんに教わった通りに並べられたカレーパンを2つ買いました。

「やっぱり、ここはカレーパンが一番うまいな」

口の中に広がる熱い油のコクと、スパイシーな餡。
ミツコさんが卒業までは誰とも付き合わないと頑なにいっていたあの日々は、きっと僕のためじゃなく、僕以外の誰かに用意されていた空白だったのでしょう。

今、僕の隣にいる女性は、大学のゼミで知り合ったひとです。
彼女はミツコさんよりずっと優しいけれど、時々、ふとした瞬間に僕は、江古田の、この商店街で嗅いだパンの匂いを思い出して、少しだけ切ない気持ちになるのです。

「どうしたの? ぼーっとして」
「あ、いや。昔、尊敬する先輩に、ここでレジ打ちは正確にって教わったな、と思って」

僕は笑いながら、コーヒーカップから手を離して、彼女の手を握ります。
江古田のこのパン屋で、僕も少しだけ大人になれた。
ミツコさんが今、どこかで、誰かと手を繋いでいればいいな、なんて、お節介なことを願いながら。

(完)

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