
茨城県結城市。歴史ある結城紬の街並みが残る静かな住宅街に、今日も今日とて絶妙ににぎやかな声が響いていた。10歳のハルトは、リビングの学習机で算数のドリルを前に頭を抱えていた。隣の栃木県小山市で市議会議員として初当選を果たしたばかりの父・ヨシノリは、街頭演説仕込みの熱血漢だ。市民の声を聴くのが大好きな父は、家庭でも「何事も手取り足取り親切丁寧に!」がモットーだった。
相談

「どうしたハルト!どこで引っかかっているんだい!?お父さんに言ってみなさい!市民の相談に乗るように、父さんが手厚くサポートするぞ!」
「うーん。この応用問題、ちょっと意味が分かんなくて」
ハルトがポツリと言うや否や、ヨシノリは「よし来た!」と腕まくりをした。
「どれどれ!ふむ、割合の問題だな!いいかい、ハルト。ここはまず全体を100としてだね、公式にあてはめるとだな」
「あ、ちょっと待ってヨシノリ(※ハルトは父を時に名前で呼ぶ)。僕、まだ、問題文を全部読んで---」
「ハッハッハ!遠慮するな!効率よく解くコツを父さんが一から十まで教えてあげるから!ほら、ここに式を書いて!」
ヨシノリの親切心は留まることを知らない。ハルトがペンを走らせようとすると、「あ、そこは足し算じゃなくて掛け算!」「違う違う、まず括弧の中を計算して!」と、まるでジムのトレーナーが代わりにバーベルを持ち上げてしまうかのように、すべての手順を先回りして教えてしまうのだ。おかげでハルトの宿題はいつも爆速で終わる。しかし、テストの応用問題になると、ハルトは途端に手が止まってしまうのだった。
そんなある日の夕方。ヨシノリが小山市役所での会議で不在の中、ハルトは母のヒロミとリビングにいた。ヒロミは結城市内で小さな雑貨店を営んでおり、さばさばとした性格だ。彼女の教育方針は、熱血な夫とは真逆だった。
「ヒロミ〜(※この家庭では母親のことも名前で呼ぶ)。この算数の問題、ぜんっぜん、分からない!」
ハルトがいつもの癖で、すぐにペンを置いてヒロミに助けを求めた。ヒロミは夕飯の味噌汁をかき混ぜながら、チラッとハルトの方を振り返り、優しく、でもサラッとこう返した。
「そっかぁ。じゃあハルト、どこまでなら分かる?」
「えっ?どこまでなら?」
すぐに「こうやるんだよ」と答えが飛んでくると期待していたハルトは、拍子抜けした。
「うん。問題文の最初から読んでみて、どこまでなら、あ、理解できるぞ、って思えた?」
「えーっとね、あるお店で、定価の2割引きでパンを買いました、ここは分かる。安くなったんだよね」
「そうね!2割引きは嬉しいわね。じゃあ、次の文は?」
「さらに、タイムセールでそこから50円引きになりました。これも分かる。もっと安くなった」
「うんうん!すごいじゃない、ここまで完璧に意味が理解できてるよ。じゃあ、どこからが、ん?ってなったの?」
「えっとね、最初に用意していたお金の半分が残りました。元のパンの定価はいくらでしょう?ここ!ここが、意味不明!」
「なるほどねぇ」
ヒロミは味噌汁の火を止めると、ハルトの隣に座った。でも、ペンは絶対に握らない。手も出さない。
「じゃあさ、ハルトの頭の中にあるそのパンと割引の様子、ノートの余白に図か絵で描いてみたらどうなる?」
「えー、絵ぇ?算数なのに?」
「いいのいいの。自分の頭の中を整理する作戦よ。一回、自分の思いつくやり方でやってみなさいな」
ハルトは眉間にシワを寄せ、「うーん」と唸り始めた。ヨシノリなら「ここに線分図を描いて!」とすぐに指示を出すところだ。しかしヒロミは、ハルトがノートの端っこに、ヘンテコなパンの絵を描き、謎の矢印を引っ張り、消しゴムで消してはまた描き直す「悶絶の時間」を、ただ微笑みながら待っていた。
(この、うーん、って唸ってる時間こそが、脳の筋トレなのよね)
「あ!もしかして、この、半分残ったってことは、払ったお金と残ったお金が同じってこと!?」
「お?」
「じゃあさ!50円引いた後の値段が、最初の半分ってことだから!」
ハルトの手が猛スピードで動き出した。ノートの余白は、途中式と図と、ぐちゃぐちゃなメモでびっしり埋まっていく。
「できた!答え、400円だ!!」
「どれどれ?あら!大正解じゃない!」
「やったーーー!!自力で解けた!!」
ハルトは飛び上がって喜んだ。今までヨシノリに教えてもらって100点を取った時とは、比べものにならない達成感が、全身を駆け巡っていた。
脳の筋トレ

その夜。小山市での公務を終えて帰宅したヨシノリが、ドヤ顔でハルトに尋ねた。
「ハルト!今日の宿題はどうだった?父さんがいなくて困ったろう!」
ハルトは胸を張って言った。
「ううん!すっごく難しい応用問題が出たんだけどね、ヨシノリがいなかったから、僕自分で考えて解けたよ!」
「えっ?父さんがいなかったから?」
ガーンとショックを受けるヨシノリ。ヒロミがクスッと笑いながら、ヨシノリにビールを注いだ。
「あなた、良かれと思ってすぐに答えを教えてあげてたでしょ?それってね、ハルトが自分で考えるための筋トレの時間を横取りしちゃってたのよ」
「僕が筋トレを横取り!?」
「そう。どこまで分かる?って聞いてあげて、あとはハルトがうんうん唸るのを待つ。親に必要なのは、手取り足取り教えることじゃなくて、教えずに待てる忍耐力なんだから」
ヨシノリは自分の胸に手を当て、市議会議員らしく(?)真剣な顔で深々と頷いた。
「なるほど。市民の自立を促すのと同じだな!答えを与えるのではなく、自ら考える力を育む父さん、反省したよ!」
「あはは、分かればよろしい!」
それ以来、ハルトの部屋から「うーん、分かんない!」という声が聞こえても、リビングからは「どこまでなら分かる〜?」というヒロミの明るい声と、静かに耐えるヨシノリの姿が見られるようになった。ノートの余白をぐちゃぐちゃにしながら粘り強く考え抜くハルトの脳には、毎日着々と、たくましい「思考の筋肉」がついていくのだった。
プロデュース

結城市の歴史ある街並みからほど近い、シックなリノベーション空間。そこには「ハルト・デザイン&ストラテジー事務所」という看板が掲げられていた。
25歳になったハルトは、地元企業のブランディングや地方自治体の新事業プロデュースを手がける、気鋭のコンサルタント兼デザイナーとして活躍していた。
かつて算数のドリルを前に眉間にシワを寄せ、ノートの余白をぐちゃぐちゃにしながら悩んでいた10歳の少年は、今や「どんな複雑で困難な課題にも粘り強く向き合い、本質的な解決策を導き出すプロ」へと成長していた。
「ハルトさん、もうダメです。万策尽きました」
事務所のミーティングルームで、入社1年目の若手スタッフ・ショウタが頭を抱えていた。手元にあるのは、小山市の老舗和菓子店から依頼された「新規顧客開拓プロジェクト」の提案書。何度も修正を重ねたものの、アイディアが行き詰まり、完全に行き詰まっていた。
「競合も多いし、予算も限られてるし、若い層には和菓子自体が響かないし、僕にはこれ以上良いアイディアなんて出せません!ハルトさん、答えを教えてください!」
縋るような目で見てくるショウタ。15年前の父・ヨシノリなら、ここで「よし来た!」と腕まくりをして、市民の相談に乗るように一から十まで模範解答を出していただろう。
だが、ハルトは違った。彼はデスクに肘をつき、母・ヒロミ譲りの柔らかくもどこか面白がるような笑顔を浮かべると、静かに言った。
「答えなんて、僕も持っていないよ、ショウタ。で、君はどこまでなら分かってるんだい?」
「えっ?どこまでなら?」
「そう。今回の課題のどこまでは整理できていて、どこからが、ん?って思考がストップしたのか、僕に教えてよ」
ショウタは拍子抜けした顔をしたが、ハルトの真っ直ぐな瞳に促され、おずおずと口を開いた。
「ええっと。ターゲットが若い世代であることと、商品の味覚の良さは完璧に魅力だと分かっています。でもどうやって和菓子屋の暖簾をくぐらせるかという、プロモーションのステップに入った瞬間、頭が真っ白になるんです」
「なるほどね」
ハルトはペンを置いたまま、ショウタのノートを開かせた。
「じゃあさ、その暖簾をくぐらせるまでの人の動き、自分流にノートの余白を使って、ぐちゃぐちゃに絵や図で描いてみたら?綺麗に書かなくていいから。君の頭の中にある違和感を全部吐き出してみて」
ショウタは「えぇ…」と呟きながらも、ペンを握りしめた。ハルトは絶対に手を出さない。答えも言わない。
ショウタが「うーん」「あ、でもこれだと」「いや、待てよ?」と呟きながら、ノートにぐちゃぐちゃな矢印や謎の落書きを描き集める脳の筋トレ時間を、コーヒーを飲みながらじっと耐えて見守った。そして15分後。
「あっ!!ハルトさん!もしかして、和菓子屋に呼ぶんじゃなくて、若者が集まるカフェとコラボして洋菓子のフリをして提供する体験から入ればいいんじゃないですか!?」
ショウタの目がパッと輝いた。
「お?」
「それなら、ターゲットの警戒心も解けるし、後から実は老舗和菓子店のあんこでしたって、種明かしすればSNSでもバズります!」
「大正解だ、ショウタ。最高のアイディアじゃないか」
ハルトはパチンと指を鳴らした。ショウタは自分の力で突破口を開いた達成感に、顔を紅潮させてガッツポーズを作った。
「ハルトさん、なんで答えを教えてくれなかったんですか?」
「僕が答えを言ったら、君の考える筋肉が育たないからね。うんうん唸って自分の頭で汗をかいた時間は、絶対に君を裏切らないよ」
ハルトはそう言って、懐かしい母の言葉を心の中で噛みしめた。
その夜。実家に顔を出したハルトを迎えたのは、相変わらず賑やかな両親だった。小山市議会議員を長く務め、すっかりベテランの風格(と少しの白髪)が出た父・ヨシノリと、変わらず結城市でマイペースに暮らす母・ヒロミ。
「ハルト!今日の仕事はどうだったんだい!?父さんが市政の観点からアドバイスをしてあげようか!?」
未だに、手取り足取り教えたがる熱血父さんに、ハルトとヒロミは顔を見合わせて笑った。
「いいよ、ヨシノリ。僕には自分で考える時間があるからね」
「相変わらず手厳しいな!ハッハッハ!」
ダイニングテーブルには、ハルトが子供の頃にノートをぐちゃぐちゃにして解いた、あの日の大正解と同じ、温かい時間が流れていた。親に思考の時間を守られて育った少年は、今、次の世代の思考力を育てる最高の伴走者となっていたのだ。





