
池袋のど真ん中、ともこ(21歳)が通う調理師専門学校は、朝から熱気に満ちていた。ともこの目的はただ一つ、最高の奥さんになるための花嫁修業。だが、クラスメイトたちの本気度は、ともこの想像を遥かに超えていた。
花嫁修業は戦場だ!池袋調理師専門学校ライフと華麗なる同級生たち
「どうも。家業は銀座で日本料理屋をやっていまして。将来はフランスでパティスリーを開きたいと思っています」
「うちはもう三代続く老舗の洋食店。卒業したらすぐに厨房に入る予定です」
自己紹介が進むにつれて、ともこの背筋は冷えていった。まるで料理界のエリート養成機関ではないか。彼らの多くがプロを目指す中で、飲食店オーナーの子息、有名な懐石料亭の料理人たち。洗練された立ち居振る舞いと、自信に満ちた声。
そして、ともこの番。彼女は持てる限りの笑顔で胸を張った。
「東池袋のカフェでバイトリーダーをしています、ともこです!私の目標は、家族が毎日笑顔になる食卓を作ることです!よろしくお願いします!」
一瞬、クラスが静まり返った。プロ志向のクラスメイトたちからすれば、家族の食卓はあまりにも素朴すぎたのだろう。
あるものはフッと鼻で笑い、ヒソヒソと漏らした。
「趣味のクラスかよ」と聞こえよがしに。
ともこは気まずさで顔を赤くしたが、愛があれば大丈夫!と心の中で叫び、なんとか席に着いた。
意外な盟友、サキ
座学の授業が始まると、周囲との熱量の差はさらに広がった。特に栄養学。ともこにとっては、料理の愛を伝えるための知識ではなく、まるで呪文のように聞こえた。
「脂溶性ビタミンは」「必須アミノ酸の役割は」
ともこはこっそりノートにメモを取った。
ビタミンC:レモンをたくさん食べる。
タンパク質:タケシは好きそう。
炭水化物:人生で一番大事!
隣の席の女性、サキがくすくすと笑った。彼女は、ともこに「保育士資格を持っています」と自己紹介していた。そして、目的もともこと同じく花嫁修業なのだという。
「ともこちゃん、私も全く同じ気持ち。プロを目指す子たちとは、視点が違うのよね」
「サキちゃんもそう?良かった、私だけじゃなくて」
「だって、タンパク質って聞くと、なぜかあのムキムキのタケシくんを思い出しちゃったんだもの」
サキの真顔の悪意なき発言に、ともこは吹き出しそうになった。サキはともこのいるカフェ・ラパンの常連客でもある。
「えっ、サキちゃん、タケシくんのこと知ってたっけ!?」
「うん。ともこちゃんのカフェで何度か見かけたことあるよ。ともこちゃんとラブラブな感じだから。あの薄暗い、入りにくい感じのカフェに、入り浸ってる変人って、私や彼くらいじゃないかしら。名前は知らなかったけど、店員さんと話ししているときにタケシくんって呼ばれてたから」
こうしてタケシというどこにでもいるような異性を接点に、愛や花嫁修業の志を共にする二人の盟友が誕生した。
試練の実習ともこの壁
実習の授業は本格的だった。白衣を着たともこたちは、まるで手術室のような清潔なキッチンで包丁を握る。この日の課題は、「玉ねぎのジュリアンヌ(細切り)とブリュノワーズ(みじん切り)」。いずれも言葉の意味から説明してもらわなければ、ふたりとも実習を始められない代物だ。
同じグループのメンバーは華麗な手つきで玉ねぎをスライスし、均一な幅の千切りを量産していく。その腕はまさにプロのそれだった。一方、ともこは玉ねぎの皮を剥く時点で、まな板の上で右往左往していた。
「おい!皮に指を当ててどうする!しっかり爪を立てろ!」
指導の先生の声が飛ぶ。
そして、ついにみじん切りに挑戦した瞬間。ともこがうっかり力を入れすぎた拍子に、玉ねぎが飛び跳ね、危うく指を切りそうになった。
「危ない!」
隣にいたグループのメンバーが、ともこの包丁を寸前で抑え込んだ。彼の顔は明らかに苛立っている。
「おい、お前、カフェの店長やってるんだろ?指もまともに扱えないのか!カフェメニューと本格調理は違うんだぞ」
その厳しい視線に、ともこはカッとなった。
「た、確かに私はプロじゃないかもしれません!でも、私は愛を込めて料理をします!愛情があれば、多少玉ねぎが不揃いでも」
「うるさい!愛情で食中毒は防げない!」
教室にはピリピリとした空気が流れ、サキが慌ててともこの背中をポンポンと叩いた。ともこの玉ねぎは、まるで砂漠の石ころのように不揃いな塊になってしまった。
東池袋のカフェ・ラパンとタケシ
授業が終わり、ともこは東池袋駅近くにあるアルバイト先、薄暗いカフェラパンへ向かう。ラパンは、一部の熱狂的なファンと、ともこの努力でかろうじて営業を続けている、隠れ家中の隠れ家だ。ともこのいない時間帯は、クールで仕事のできる同僚のユリが店長代理を務めている。
「お疲れ様です、ともこさん。今日の仕入れ、大丈夫ですか」
「うん、バッチリ!ユリちゃんこそお疲れ様」
カウンターの隅の定位置には、いつも通り、ともこの彼氏であるタケシが座っていた。彼は池袋から通う真面目な学生だが、なぜか大学在籍6年目という謎の経歴を持つ。
「タケシくん、待たせたね!今日ね、専門学校で新しいメニューのインスピレーションを得たんだ!」
「おお、さすがともこ。で、今日は何を作ってくれるんだい?」
ともこは意気揚々とまかないを作る。そして、実習でボロクソに言われた玉ねぎをたっぷり使った愛情たっぷりオムライス(黒焦げ風)をタケシの前に置いた。
タケシは一口、ゆっくりと口に運ぶ。そして、目を閉じて深く頷いた。
「うん、深い味だね。ともこ、これは?」
店長代理のユリは奥の厨房から、タケシが無理やり飲み込むのを静かに見守りながら、心の声で呟いた。(苦い、って言いたいのね。分かるわ。)
ともこはタケシの優しい言葉に感激し、「やっぱりタケシくんは私の愛を分かってくれる!」と目をキラキラさせた。タケシはただただ優しく微笑んで、お会計を済ませてカフェをあとにした。
大学6年目の最後の夏休みと旅立ち
ある日のカフェ・ラパンのカウンター。タケシが真剣な顔で口を開いた。
「ともこ。今年の夏休み、実家に帰ろうと思うんだ」
「えっ、タケシの実家!?」
「うん。そして、ともこを両親に紹介したいんだ」
ともこは舞い上がった。ついに花嫁修業の最終試練、お義母様へのご挨拶だ!
タケシは続けた。
「二人だけだとなんだし、せっかくだから、みんなで行こうよ。俺はアツシも呼ぶから」
「アツシ?」
タケシの友人、アツシはタケシと同じ大学に通うしっかり者らしい。タケシの6年間の在籍を隣で見てきた、貴重なツッコミ役だ。ということは、アツシも大学6年生だ。ともこも安全のため友だちを呼ぶことにする。誰にしようか迷ったけど、これから2年間一緒に勉強するサキに声をかけてみた。タケシと顔見知りということもあった。
こうして、ともこ、サキ、タケシ、アツシの4人による、タケシの実家へのドライブ旅行が決まった。
「お義母様のお料理のヒントを、しっかりリサーチしなくっちゃ!」と張り切るサキ。
「運転は僕に任せて!6年分の大学生活で、運転テクニックだけは磨いたから!」と胸を張るタケシ。
(運転はともかく、卒業はなんとかしないと、あとがない)と、アツシはため息を漏らす。
ともこは最高の笑顔で、タケシの腕に抱きついた。
「タケシのママに会える!絶好のチャンスだわ!」
それぞれの思惑が入り混じりながら、4人はまだ見ぬ純愛の舞台へ向かうことになったのだった。
高速をケチった純愛ドライブの夜!お嬢様トークと玉ねぎスープで、東海道は戦場になった
タケシが池袋駅近くのニッポンレンタカーで手配したのは、なぜかカーナビがカセットテープ式にグレードダウンした、年季の入った白いワゴンだった。
「どうだ、ともこ!このレトロな感じが、僕たちの旅を盛り上げてくれるだろ?」
「タケシ、すごいわ!なんだか感動の昭和ロードムービーって感じ!見たことないけど」
助手席で地図(紙製)を広げるアツシは、すでに不安の色を隠せない。
「タケシ、なぜ高速を使わないんだ。高知まで下道じゃ、徹夜だぞ」
「ノンノン、アツシ。節約旅行も我々苦学生の試練だよ!それに、費用は全員で割り勘だろ?こういうところでケチらないと、花嫁修業中の連中から不満の声が出るからさ!」
タケシの愛と節約の論理に、アツシは割り勘だからこそ早く着くべきだと反論しようとしたが、後部座席のともことサキが目を輝かせているのを見て口を噤んだ。
そして、タケシの6年分の運転テクニックが披露される。発進からエンスト寸前の揺れ。そう、見えを張ったタケシが指定した車はマニュアル車だったのだ。車がガクンと鳴るたび、ともこは「愛にブレーキは必要ない!」と応援し、アツシは頭を抱えた。
後部座席の異文化交流
東海道を下道でトコトコ進む中、後部座席ではサキのお嬢様トークが炸裂していた。
「ねぇ、アツシくん。夏といえば、やっぱり葉山の別荘よね。小学生の頃は毎年行ってたんだけど」
「え、葉山?」アツシは、サキの世間離れした話に戸惑いを隠せない。
「別荘って、あの、なんかこう、セレブがやるやつですか」
「ふふ、セレブなんて大袈裟よ。ただ、別荘から見える海の色で、今日の潮の流れと、お母様が夕食に伊勢エビを出すかどうかがわかったくらいかしら」
アツシはハンドルを握るタケシの方を向いた。タケシはサキの言葉を聞いていないのか、鼻歌を歌いながらギコギコとシフトチェンジをしている。
アツシは心のなかで、
(潮の流れで伊勢エビかどうかがわかるだと?俺に必要な知識は、次の道の駅まで忍耐力が持つかだ!)
ともこは、サキの純粋な別荘トークに「サキちゃん、すごい!本当に花嫁候補の鏡ね!」と感心している。アツシは、サキの天然さと、ともこの能天気さのダブルパンチを食らっていた。
富士山で記念撮影
静岡に入り、壮大な富士山が見える道の駅でトイレ休憩に立ち寄った。サキはスマホを取り出し、満面の笑みで富士山と自撮りする。
「アツシくん、お願い!私と富士山を一緒に撮ってちょうだい!」
アツシは渋々、サキのシャッターを押す。サキは出来上がった写真を見て、アツシをまっすぐ見つめた。「アツシくんって、真面目すぎて富士山みたいね。なんだか裾野が広くて安心感があるわ」
褒められているのか貶されているのかわからないサキの天然な表現に、アツシは顔を赤くした。
「え、そ、そうですか」
サキは続けて、「でも、たまには爆発しないとストレス溜まるわよ?富士山みたいに!」と言って、自分の花嫁修業御用達トートバッグをアツシに押し付け化粧室へ消えていった。
トイレ休憩での密談
サキが席を外している間に、アツシはチャンスとばかりにともこに話しかけた。
「な、なぁ、ともこさん。サキちゃん、なんかこう、俺とははなしがあわなくてさ。俺、ああいう世間ズレしてる人、苦手なんだ」
アツシは珍しく弱気なところを見せた。
ともこは微笑み、アツシの肩に優しくポンと手を置いた。
「あぁ、サキちゃん、ちょっとふわふわしてるでしょ?でもね、本当にいい子なの。だから、大目に見てあげてね。ほら、お年頃の私達って、色んな意味で修行だから!」
ともこの温かい手がアツシの肩に触れた瞬間、アツシの心臓が急に早鐘を打った。
(俺、今、ともこに励まされてる。タケシの彼女なのに)
ともこの無意識の優しさは、アツシの心に真っ直ぐ響いた。花嫁修業を頑張る真面目なともこと、自分を比較してしまい、アツシは自分が彼女に少し気があることを自覚しそうになった。
サキの観察眼
化粧室から戻ってきたサキは、遠目からともことアツシの様子を見ていた。アツシが真剣な表情で話し、ともこが彼の肩に手を置いて慰めているあの瞬間。サキは目元に引いたアイラインをチェックしながら、静かに思考を巡らせた。
(あら?アツシくん、ともこちゃんのこと見てるわね。タケシくんの彼女なのに。そして、ともこちゃんって、タケシくんといる時より、アツシくんを慰めている時のほうが、プロの奥さんっぽい顔をしているわ)
サキはアツシの真面目さに少しキュンとしていた自分に気づき、それが恋のライバルであるともこの彼氏の友人だという、複雑な四角関係の予兆に、そっと目を細めた。
「ライバルって恋の修行でもあるのかしらね」
サキは小さく呟くと、車に戻り、タケシとともこの間に座って、何事もなかったかのように笑顔を向けた。高知までの道のりは、まだまだ長そうだ。
タケシの実家まで24時間耐久!夜の東海道を駆け抜けた愛と80年代ソングの連帯感
怠惰な大学生、タケシとアツシが交代でハンドルを握るレンタカーは、名古屋に辿り着いた時点で、すでに夜の7時を回っていた。下道をひた走っているとはいえ、あまりにも遅すぎる。
「タケシ、言っとくが、レンタカーは前日の夜に借りていたのに、午前中、池袋駅前の駐車場でコインパーキング代2,400円を生み出しただけだったぞ。なぜ、出発がお昼になったんだ」
助手席のアツシが、家計簿係のように厳しく追及した。
「アツシ、細かいことは気にしない!映画でもあるだろ、逃避行に多少の初期投資はつきものだ!」
「初期投資って、駐車料金が、かよ!」
そんな言い合いをよそに、ともこは愛の補給大作戦を始めた。バッグから取り出したのは、調理師専門学校で培った(?)技術で作った、花嫁修業の賜物たるおにぎりだ。
「タケシ!運転手さんには特別サービスよ!」
ともこは助手席から身を乗り出し、運転中のタケシに、自分の手で作ったおにぎりを「あーん」して食べさせた。タケシは感激の面持ちでそれを頬張る。
後部座席では、サキとアツシがそれぞれ無言でおにぎりを食べていた。
サキは、ともこの「あーん」を見つめながら
(おにぎりか、先を越された。私はタケシくんとアツシくんに、どんな愛の示せばよかったんだろう。やっぱり葉山の別荘の話じゃダメだったのね)
アツシも、自分の素朴なおにぎりを咀嚼しながら、
(おにぎりか、女子力高めだ。俺がもし、ともこと付き合っていたらこんなに美味しいおにぎりを毎日食べられたんだろうな)
一瞬、誰もが自分の将来について考える、静かな時間が流れた。
淡路島、そして充電危機
名古屋で宿泊せず、タケシの夜通しで駆け抜ければ節約になる!という鬼畜の提案により、車は一路、西へ。伊勢湾岸道から夜の東海道をひたすら走り続け、車は神戸淡路鳴門自動車道を通って四国へと入った。
夜が深まるにつれて、車内の全員がバッテリー切れの危機に瀕した。
「ヤバい、スマホの充電が10%しかない!」とタケシ。
「私も5%よ。連絡取れなくなったら困るわ!」とともこ。
急遽コンビニに立ち寄り、シガーソケットから電源を取るための充電器を購入。順番にスマホを繋いで充電していく。充電器は一つしかないので、誰から充電するかで一悶着あったが、最終的に、運転手のタケシ→助手席のともこ→後部座席のサキ→アツシ、という、ヒエラルキーが極めて明確な順番で決まった。アツシはまたしても不満を漏らす。
謎の80年代ソングと連帯感の誕生
この車は今どきカセットテーププレイヤーとAMラジオしか聞けなかったため、必然的に各自のスマホに入っている音楽を流すことになった。
- ともこ: 最新の明るい洋楽ポップス。車内は一気に現代的な雰囲気に。
- タケシ: なぜか80年代の邦楽ヒットソング。
- サキ: K-POPのノリノリなダンスナンバー。
- アツシ: ABBA(アバ)の曲しか入っていない。
タケシの80年代ソングが流れるたび、アツシは「なぜ大学6年生にもなってこんな古い曲を」とツッコミを入れたが、そのうち、同じ曲が何周も繰り返されるうちに異変が起き始めた。
「Dancing Queenが来た!」
最初に熱唱し始めたのは、意外にもサキだった。K-POPのダンスで鍛えたリズム感で、サキは後部座席で全身を揺らす。それにタケシが、謎の身振り手振りで合いの手を入れる。
そのうち、誰もが曲を覚えるほどに聞いた頃、タケシの80年代ソングの稲垣潤一のあのイントロ「夏のクラクション」が流れた瞬間、「来たぞ!」と全員が叫び、車内で大合唱が始まった。
愛の歌、失恋の歌、青春の歌。ジャンルも時代もバラバラな音楽を、徹夜明けのテンションで全員が熱唱することで、不思議な連帯意識が生まれた。
アツシは、隣で歌うサキのお嬢様っぷりも、前の席のタケシの怠惰さも、どうでもよくなってきた。
(サキちゃんとアバの曲でこんなに盛り上がるとは!ともことタケシの曲順も、次に何が来るか完璧に予想できるぞ!)
そして高知へついに到着
みんなのスマホにある音楽を何回も聞き、次に流れる曲が予想できるようになった頃、夜明けを迎え、レンタカーはようやく四国を南下し、高知市へと到着した。
「やったー!高知だ!タケシくん、アツシくん、お疲れ様!」
ともこは感動で涙ぐみ、タケシは疲労困憊で運転席でグッタリし、サキはさっそくファンデーションをパフパフさせていた。
アツシは、流石に疲労困憊ながらも、「ともこ、おにぎり美味しかったよ。ありがとう」と、今更ながらの素直に感謝を口にした。
そして、朝日が差し込む高知市内に建つ、タケシの実家にたどり着いた。
「さあ、ともこ!いよいよ僕の家族に会う時だ。最高の舞台を演出しよう!」
タケシはそう叫んだが、実家の門構えは、6年間大学に在籍している息子の実家とは思えないほど、立派で堂々とした日本家屋なのだった。
高知の猛母(タケシママ)に会う、結婚おめでとうから始まった夜を分かつ男女のヒソヒソ話
朝日が昇る中、タケシの実家、村山家は、下道ドライブで疲弊した4人の前に立ちはだかるように建っていた。その門構えは、2年留年中の大学生の息子がいる家とは思えない、立派で風格のある日本家屋である。
表札には、堂々と村山とあった。
玄関を開けると、飛び出してきたのは、まさに高知の太陽のような女性だった。それがタケシの母、フミエさんである。チャキチャキという言葉を具現化したようなフミエさんは、ともこたちを見るなり挨拶もそこそこに、炸裂した。
「ああ、あんたらよう来たね!そこのべっぴんさんがタケシの彼女かい?結婚おめでとう!よう決断してくれたわ!」
フミエさんの勢いに、タケシとともこは顔面蒼白になった。
「ま、待ってくださいお母さん!まだです、まだです!ま、まだお付き合いしているだけで!」タケシが慌てて割って入る。
「そうですよ、フミエさん!私たち、まだプロポーズもない!」ともこも必死で否定する。
フミエさんは構わず、今度はサキとアツシに向き直った。
「そうか、そうか。そしたら、おめでたいのはそっちかね?じゃあ、あんたらが結婚するんか?」
村山家の玄関に集まった一同は、一瞬で最高潮の気まずさに包まれた。サキは顔を真っ赤にして俯き、アツシは「え、いや、俺は、ただの友人、で」と、しどろもどろになる。
ナヨナヨ父と緊急避難
その騒動の脇で、タケシの父、トシヒコさんがそっと現れた。トシヒコさんはフミエさんの勢いに完全に尻に敷かれているようで、どこかナヨナヨとして、居場所に困っている様子だった。
「お、お前たち、よく来たな。長旅、疲れただろう。フミエ、お客さんがいるんだから、落ち着け」
「アンタは引っ込んどれ!大事な挨拶中じゃ!」
フミエさんの一喝で、トシヒコさんはたちまち小さくなった。そして、トシヒコさんは、4人の到着後まもなく、居場所が見つけられなくなったのか、みんなに聞こえるよう小さく呟いた。
「ワシは、ちと公民館へ行ってくる」
そう言って、トシヒコさんはそそくさと家を出て行ってしまった。ともこは、この親子関係が、タケシの6年目の怠惰な大学生活の根源だったのかもしれない、と直感した。
純愛の夜と、さわち料理
その日の夜は、高知名物の豪華なさわち料理が用意されていた。カツオのタタキ、皿鉢に盛りつけられた色とりどりのご馳走の数々。
フミエさんは「遠慮せんで、どんどん食べ!」と勧め、ともこもサキも、花嫁修業の成果を発揮すべく、美味しい料理を堪能した。
皿鉢料理(さわち・さはちりょうり)とは、高知県の郷土料理で、直径36〜39cm以上もの大きな皿に、海の幸や山の幸が色鮮やかに豪快に盛り付けられた料理様式です。刺身、寿司、煮物、揚げ物、果物など多種多様な料理が盛り付けられ、大勢で囲み、各自が小皿に好きなだけ取り分けて食べる、自由なスタイルが特徴です。
流石にフミエさんの手前、4人とも羽目を外すことはなかった。お酒を勧められたタケシは「今日は長距離運転でしたので」と断り、最終的にフミエさんが持ってきたビール1本を、4人でコップに分けてちびちびと飲むという、異様に健気な夜となった。
南国高知にしては涼しい夏の夜。遠くから流れてくる、四万十川からの川風が心地よく村山家の居間を駆け抜けていく。
分断された夜のヒソヒソ話
夜が更け、フミエさんの仕切りで布団が敷かれた。全員がテキパキと動いた。
- 男子部屋(村山家の居間):タケシ、アツシ、トシヒコさん
- 女子部屋(村山家の客間):フミエさん、サキ、ともこ
部屋が分かれても、興奮冷めやらぬ車内での連帯感と、フミエさんの猛烈な勢いのため、両方の部屋で夜遅くまでヒソヒソと話し声が続いた。
男子部屋でのヒソヒソ話
トシヒコさんは、フミエさんが隣にいないことで急に饒舌になった。
「フミエがいないと静かでいいのう。しかし、タケシ、サキちゃんもともこちゃんもなかなかのべっぴんさんだ。ゆくゆくは結婚するんだろうが、え?」
トシヒコさんは、タケシとアツシに向かって、まるで自分のことのように問いかけた。
「いつ、ともこちゃんに申し込むつもりだ?プロポーズは男の役目じゃ!」
「俺も、アツシも、どうしたら女性を射止められるのか、とうちゃんに相談したいんじゃ」
タケシとアツシは、トシヒコさんを相談役として、結婚のプレッシャーと、ともこへの想いをヒソヒソと語り合った。
女子部屋のゲラゲラ笑い
一方、女子部屋はフミエさんののろけ独演会となっていた。
「あのおとうちゃんも、ああみえて、いざというとき肝が座ってるんよ。昔、大きな台風が来たときなんか、うちはもうへたりこんでるのに、アンヒトだけは冷静に家を守ってくれたわい」
フミエさんは豪快に笑い、そして少し照れたように続けた。
「アンタらもあんなナヨナヨしてる男に、いざというときに惚れるもんじゃ」
ともことサキは、フミエさんの意外な乙女心と、トシヒコさんのナヨナヨぶりからは想像できない過去の勇姿に、布団の中でゲラゲラと笑い転げた。
「フミエさん、素敵です!将来の参考にします!」とともこ。
「フミエさんのお話、まるでドラマみたい!」とサキ。
男子部屋からのヒソヒソ声が聞こえる中、「強い女が、いざという時にナヨナヨ男を好きになる理由」という壮大なテーマについて3人の女性は語り合った。
強い女性がいざという時にナヨナヨした男性を好きになる心理には、いくつかの理由が考えられます。主な要因は、常に強い女性を演じていることへの反動や、男性が持つ予期せぬ一面によるギャップへの魅力です。 Google検索より
そして笑い疲れた頃、どちらの部屋も静かになり、気づけば朝になっていたのだった。
桂浜に響くこれからもよろしくの純愛!恋を諦めたアツシと、なぜか悩むお嬢様サキ
翌朝、村山家でフミエさんの郷土料理(というか、フミエを含めた全員トーストを希望したので日本中と同じ朝食だった:アツシによる後日談)を堪能した後、4人は高知観光に出かけた。もちろん、費用はすべて割り勘である。タケシの節約旅行も愛の試練というスローガンは徹底されていた。
目的地は雄大な太平洋を望む桂浜(かつらはま)とご当地グルメのひろめ市場だ。
桂浜では、タケシが「坂本龍馬像を見て、僕も6年間の大学生活から卒業する勇気をもらうんだ!」と意気込む。ともこは龍馬像を見て「タケシ、和服姿に懐手でブーツ姿の龍馬様だわ。目指しているのは、はるか太平洋の彼方の世界だったのよ、ロマンだわ!」と、タケシへ謎のプレッシャーを送った。
ひろめ市場では、4人は昼間からカツオのタタキを囲んだ。
「このタタキ、フミエさんのとはまた違う美味しさね!やっぱり、料理は愛と技術だわ!」と、ともこは専門学校で学んだ知識を披露。
「ともこちゃんのオムライスとは、また全然違う美味しさだ」アツシが厭味ったらしくぼそりと呟く。
サキは、ふとアツシを見た。アツシは、ともこの料理の知識を真剣に聞いているようだった。
(アツシくんはともこちゃんが好きなのかもね。でも、アツシくんの良さって、こういう場所で素直に美味しいって言えるところだわ。葉山の別荘の伊勢エビの話なんて、どうでもよかったのよね、きっと。)
サキは、アツシの真面目さに惹かれつつも、ともこへの想いを断ち切れないアツシの態度に、わずかながらの寂しさを感じていた。
龍馬像の下で、タケシの決意
桂浜の雄大な景色を前に、タケシは突然、真剣な顔になった。彼はともこの手を握り、龍馬像の台座の陰へと連れて行った。
「ともこ。長旅、疲れたよね。そして、母さんの猛攻にも耐えてくれてありがとう」
「タケシ」
「僕たちは付き合い始めて長いけど、この高知に来て、改めて思ったんだ。僕の6年間の大学生活は、ともこと出会うための準備期間だったんだって!」
タケシはともこの顔を覗き込み、少し震える声で言った。
「ともこ。これからも、僕のトレーナー兼応援団長として、僕の人生を一緒に歩いてほしい。卒業したら、必ず結婚しよう。だから、これからも僕のそばにいて、応援してくれるかい?」
プロポーズというには少し回りくどく、自分中心なタケシらしい告白だった。ともこは、タケシの真剣な瞳を見て、笑顔で答えた。
「タケシ。もちろん!これからも、料理で応援するわ、私からもよろしくお願いいたします!」
ともこの返事は、タケシの言葉をそのまま受け止め、結婚というより「これからも二人で頑張る」というニュアンスが強かった。それでも、タケシは大喜びで、ともこを力強く抱きしめた。
告白の未遂とアツシのあきらめ
二人の熱い抱擁を、少し離れた場所からサキとアツシは見つめていた。
アツシは、桂浜の潮風に吹かれながら、覚悟を決めたようにサキに振り返ろうとした。彼はこの旅で、ともこへの特別な感情を自覚したが、タケシの真摯な告白を聞いて、自分が入り込む隙はないと悟っていた。そう、それは旅の初めからわかっていたことだった。
(俺はタケシの幸せを壊せない。ともこの笑顔を曇らせることもできない。そうだ、俺にはサキちゃんがいる。彼女は俺の真面目さを富士山みたいだって言ってくれた)
アツシは、サキに少しでも好意を持っていることを伝えようと、口を開きかけた。
「サキちゃん、あの、さ」
しかし、そのとき、桂浜を走っていた観光客の子供が、彼らの目の前で転んだ。アツシは職業病のようにサッと駆け寄り、子供を抱き起こして怪我がないか確認し始めた。
「大丈夫かい?転んだら危ないぞ」
アツシが子供を気遣う一連の行動を見て、サキは立ち止まった。
(やっぱり。アツシくんは本当に優しいのね。)
アツシは子供の対応に集中しすぎた。タケシとともこが戻ってきて「アツシ、どうしたの?」と話しかけたため、アツシはサキへの告白のタイミングを完全に失ってしまった。なんとなく、それでよかったのかもと思っていた。
なぜかしら、という疑問
結局、アツシはサキに何も言わなかった。アツシはその後、終始無口になり、どこか諦めたような顔で高知を後にした。帰りの車内、サキは後部座席で窓の外を眺めていた。
(アツシくん、桂浜で私に何か言おうとしてたわよね?なぜかしら、言ってくれなかったのかしら?私が期待しすぎたのかしら)
サキは、アツシがともこを諦めたであろうこと、そして自分にも言葉をかけなかったことに、モヤモヤとした疑問を残した。
タケシとともこは、これからもよろしくという言葉で絆を深めたが、アツシとサキは、互いに特別な感情を抱きつつも、その感情を言葉にしないまま、高知への旅を終えたのだった。
そして、この時誰も知る由もなかったが、この4人はそれぞれの恋愛を成就させることはなく、4年後、それぞれが全く別の相手を見つけて結婚することになる。あのときの「これからもよろしく」は、真の純愛のゴールではなく、別の未来へのスタートラインでしかなかったのだ。
これからもよろしくの4年後!ブーケトスで繋がった未来と、空中分解した私たち
高知へのドライブ旅行から4年。あの夏、これからもよろしくという曖昧な約束で強く繋がったかに見えた4人の絆は、まるで夜通し聞いた古いAMラジオのように、ある日突然、ノイズと共に空中分解した。
まず、タケシが変わった。6年かけて卒業した彼は、なんとリゴールドマン・サックスという外資系投資銀行に就職した。しかし、わずか一年でその安定した職を辞し、突然アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)へ留学すると宣言したのだ。
渡米直前、彼はともこに問いかけた。
「ともこ。僕についてくるかい?アメリカで、本格的な花嫁修業を再開してほしい」
ともこは微笑んだが、日本に残ることを選んだ。
「タケシ、わたしはここで私の花嫁修業を続けるわ。あなたについていけるほど、まだプロの奥さんじゃないもの」
タケシは少し寂しそうに笑い、一人アメリカへと旅立った。
そのことを知ったアツシは、ともこに連絡を取った。
「ともこ、タケシと何かあったのか?なぜ別れたんだ?」
アツシは相変わらず真面目で、ともこの幸せを心配していた。しかし、ともこはあの時のように、はぐらかして何も答えなかった。
電撃結婚とジャンピングキャッチ
タケシが渡米して半年後、ともこの結婚は突然だった。
2年間、調理師専門学校での花嫁修業を終えたともこが選んだのは、家族からの紹介だったらしい大学病院勤務の内科医。運命の相手は、東池袋の薄暗いカフェでも、池袋の専門学校でもなく、病院の廊下にいたのだった。
ともこの結婚式。タケシもアツシも出席していなかった。
サキは友人代表スピーチに立ち、高知へのドライブ旅行の思い出を語った。
「ともこちゃんの愛情たっぷりおにぎりの味が、私たちの連帯感を生んでくれました。ともこちゃん、花嫁修業、ついにゴールインね!」
サキがスピーチを終え、いよいよブーケトスの時間。ともこはブーケを高く掲げる前、サキにだけ聞こえるようヒソヒソと囁いた。
「サキちゃん!ブーケ、絶対に受け取ってね!私の花嫁修業の総まとめよ!」
サキは、桂浜でのアツシの告白未遂を思い出して複雑な気持ちになりながらも、親友の願いに応えるため、渾身の力を込めた。ブーケが宙を舞う!サキは周りの独身女性たちを押しのけ、まるでK-POPのダンスのようにしなやかに跳躍し、見事ブーケをジャンピングキャッチした。
繋がっていく未来
サキがブーケをキャッチした瞬間、式場の片隅にいた医者グループの一人が、その華麗なジャンプに目を奪われた。彼はともこの夫の同僚で、真面目な、同じく内科医だった。
サキはブーケトス後、その医者グループの一人と交際を始め、なんと半年もしないうちに電撃結婚を果たした。サキにとっての花嫁修業は、愛の告白を待つことではなく、ブーケトスで運命を掴み取る行動力だったのだ。
アメリカへ行ったタケシも、その後、留学先で出会った同じく日本人女性と結婚し、ロサンゼルスのアップタウンで幸せに暮らしているという噂が届いた。
そして、最後にゴールインしたのは、アツシだった。ともこの結婚から4年後、ともこの元へ、一枚の手紙が届いた。差出人はアツシ。
ともこ様、遅くなりましたが、この度、結婚することになりました。相手はさいたま信用金庫に勤める、堅実で真面目な女性です。あの頃のような恋愛のドラマはなかったけれど、彼女といると、毎日が安心と確実性に満ちています。
あの高知の旅は、僕たちにとって最高の思い出であり、誰もが違う未来へ進むためのターニングポイントだったのだと思っています。タケシも、サキちゃんも、そしてともこさんも、皆違う未来で幸せになった。申し訳ないけど、結婚式には呼ばないよ。君のおにぎりは、世界一美味しかったから
ともこは、その手紙を読み終え、優しく微笑んだ。
「愛は、それぞれの未来を照らすものなのね」
ともこの花嫁修業は、愛したタケシを送り出し、別の愛を掴み、そして友人たちの未来をブーケトスで繋ぎ、これでようやく完成した気がした。
完








