💡だらしない夫タダシの一時帰宅から始まる家族の再生:たみと子どもたちが支えるもう一度いっしょに暮らしたくなる物語
💡だらしない夫タダシの一時帰宅から始まる家族の再生:たみと子どもたちが支えるもう一度いっしょに暮らしたくなる物語

成人したタロウはすでに22歳、ジロウは20歳になっていた。子どもたちはそれぞれの生活を送り、家の中は以前にも増して静かになった。その静けさの中で、私の心には、ずっと喉の奥に引っかかったままの小骨のような思いが横たわっていた。それは、「私の気持ちを理解してほしい」という、切なる願いだった。

こちらの物語からの続きになります。


💡気が利かない夫と、冷蔵庫のミステリー

「タダシ、冷蔵庫の中、見た?」

「え?見てないけど、なんかあった?」

「納豆が、冷凍されてたのよ」

「えっ!?納豆って冷凍しちゃダメなの?」

私はため息をつきながら、冷凍庫からカチカチになった納豆パックを取り出した。タダシは、まるで初めて見る生き物でも見たかのような顔でそれを見つめている。

「昨日、私が寝込んでたでしょ?その間に、冷蔵庫の整理してくれたのはありがたいけど、納豆は冷凍しないのよ。あと、豆腐も冷凍されてたわ」

「えっ!?豆腐もダメなの!?じゃあ、あのプリンも」

「プリンも冷凍されてたわよ。しかも、冷凍庫の奥でカップが割れてた」

タダシは頭を抱えながら、「僕、冷蔵庫のこと、こんなに難しいと思わなかった」とぼやく。私は思わず笑ってしまった。

「気が利かないっていうか、方向性が間違ってるのよね。やる気はあるのに、結果がコントみたいになるのが、あなたらしいわ」

「でもさ、僕なりに頑張ったんだよ?冷蔵庫の中、きれいになったでしょ?」

「うん、確かに。冷凍庫の中は、まるで氷の芸術作品みたいだったわ」

その日の夕方、タロウとジロウが冷凍納豆を見て大爆笑。

「パパ、冷凍納豆って新ジャンル!?」「冷凍プリン、割れてるけど、逆にオシャレ!」

タダシは「いや〜、冷蔵庫って奥が深いなぁ」と言いながら、次は冷蔵庫マスターを目指すと宣言。私は「まずは、食品の基本を覚えてからね」と優しくツッコミを入れた。

その夜、タダシがこっそりスマホで「納豆 冷凍 保存 方法」と検索しているのを見て、私は少しだけ胸が温かくなった。

「気が利かない夫」だと思っていたけれど、もしかしたら「気を利かせたいけど、方向が音痴な夫」なのかもしれない。

そして私は、冷凍納豆を解凍しながら、心の中でこう呟いた。

「まあ、こんな夫も悪くないかもね」

💡愚痴とプリンと、夫婦の距離感

静かな午後。リビングのソファに座って、私はふと昔のことを思い出していた。

「タダシって、ほんとに愚痴を聞いてくれない人だったなぁ」

そうつぶやいた瞬間、キッチンから「え?今、僕の名前呼んだ?」とタダシの声。どうやら冷蔵庫のプリンをこっそり食べようとしていたらしい。

「呼んでないけど、プリンは私の分よ」

「えっ!?これ、賞味期限ギリギリだったから、僕が処理しようかと」

「処理って言わないで。大事なスイーツよ」

そんなやり取りをしながら、私は思った。昔は、こんなふうに軽口を叩く余裕もなかった。

子どもたちが小さかった頃、私は悩みを抱えていた。いじめのこと、父の病気のこと、産後の不調。そのたびに、タダシに相談したけれど、彼の反応はいつも行動だった。

「職員室に乗り込んでやったぞ!」

「ネットで調べたら、お義父さん、メニエール病の可能性が高いってさ!」

「そんなことで落ち込むなよ!」

いや、そうじゃないのよ。私はただ、「つらかったね」って言ってほしかっただけなのに。

でも、今なら分かる。タダシは愚痴を聞くというスキルが、人生のスキルツリーに存在しないのだ。彼の中では、「問題=解決すべきミッション」であり、「感情=処理困難なバグ」なのだろう。

それでも、私は彼に話すのをやめなかった。いや、正確には話す内容を変えたのだ。

「ねぇ、今日スーパーでプリンが半額だったの。買ってきたら、タロウの好きなやつだったのよ」

「へぇ、タロウってプリン好きだったっけ?」

「あなた、何年一緒に暮らしてるの?」

そんな会話でも、少しずつ、心の距離は縮まる。愚痴じゃなくて、日常の報告。悩みじゃなくて、ちょっとした笑い話。そういう軽い言葉なら、タダシも受け止められるらしい。

そして私は、ママ友たちとのおしゃべりで心を整え、家ではプリン報告で夫婦の会話をつなぐ。これが、私なりの心の守り方なのかもしれない。

「ねぇ、タダシ。今度、プリンじゃなくて、私の話も聞いてみる?」

「え?プリンの話じゃないの?」

「違うわよ。私の話。ちゃんと聞いてね。まずは、プリンの話からだけど」

こうして、我が家の愚痴改革は、プリンから始まった。

💡愛してるって言わない男と、冷蔵庫のプリン事件・再び

「ねぇ、タダシ。私のこと、好き?」

夕食後、唐突に聞いてみた。タダシは、冷蔵庫のプリンを見つめながら固まった。

「え?今、プリンの話してたよね?」

「違うわよ。私の話よ。好きかどうかって聞いてるの」

「えーと、その、まあ、うん」

「まあって何よ。まあまあ好きってこと?」

「いや、そうじゃなくて、その、好きって言葉、ちょっと照れくさいというか」

「30年も照れてるの?」

タロウとジロウがいたら、きっと「パパ、照れすぎ〜!」とツッコミを入れていただろう。私は、プリンを取り出しながら、ため息をついた。

「じゃあ、食事のときくらい、おいしかったって言ってよ。今日のハンバーグ、隠し味に味噌入れたのよ」

「えっ!?味噌!?それは、斬新だね」

「褒めてるの?驚いてるの?」

「どっちも」

タダシの言葉は、いつも曖昧だ。感情表現が苦手なのは分かってるけど、せめておいしいくらいは言ってほしい。

それなのに、外出すると、彼は別人になる。露出の多い若い女性が通ると、まるで野鳥観察のような集中力で目を見開いている。

「ねぇ、タダシ。今の人、何か落としたの?」

「え?いや、別に」

「じゃあ、なんでそんなに見てたの?」

「あ、あれは、あの、服の素材が珍しくて」

「素材研究家なの?」

「いや、ただの好奇心」

私は、冷蔵庫のプリンをそっと閉じた。タダシの視線の方向性は、家庭内ではなぜか省エネモードなのだ。

そして、女子会。友人たちと集まるときは「夫は来ないでね」と言ってるのに、なぜかタダシは「僕も行っていい?」と聞いてくる。

「女子会って言ってるでしょ?」

「でも、僕、女子の話題に強いよ?大学時代、女子ばっかりの研究室だったし」

「それ、何のアピール?」

「えーと、場の空気を読む訓練はしてきたってこと?」

「じゃあ、家の空気も読んで」

そんなやり取りをしながら、私は思った。タダシは、感情を言葉で表すのが苦手なだけで、行動ではそれなりに頑張っているのかもしれない。

たとえば、プリンを冷凍しないようになったこと。たとえば、私の好きな花を買ってきたこと(無言で玄関に置いてあったけど)。たとえば、女子会に参加したがることも、実は一緒にいたいという気持ちの裏返しかもしれない。

「ねぇ、タダシ。愛してるって言わなくてもいいから、せめてプリン、食べていい?って聞いて」

「それは、言える」

「じゃあ、まずはそこから始めましょう」

こうして、我が家の愛情表現改革は、プリンから再スタートした。

💡なんでそんなこと言うの?と、滑舌と人生設計の謎

「たみ、俺、やめるから」

前にも書いた通り、あの朝、タダシが急にそう言った。私は、トーストを焼いていた手を止めた。

「何を?」

「仕事」

「え?今、何て言った?やめるって、辞める?それとも、病める?」

「だから、仕事をやめるって言ってるじゃん。前にも言ったよね?」

「いや、言ってない。ていうか、言ったとしても、聞き取れてないから」

タダシの滑舌は、30年経っても進化しなかった。声も小さい。まるで、冷蔵庫のモーター音と競ってるかのような音量で話すから、聞き逃すこともしばしば。

「ちょっと待って。定年までまだあるよね?貯金は?年金は?生活は?ていうか、私たちの人生設計は?」

「うーん、それはまあ、なんとかなるっしょ」

「なんとかなるっしょ、じゃないのよ!」

私は、思わずトーストをひっくり返した。焦げた面が、まるで私の心の中のモヤモヤを表しているようだった。

「ねぇ、タダシ。あなたの頭がいいのは分かってる。文通してた頃の手紙、今でも取ってあるのよ。あの頃の文章は、まるで小説みたいだった。なのに、なんで今はなんとかなるっしょ、なの?」

「あの頃は、推敲してたからね」

「今も推敲してから話して!」

その後、私は「タダシ語翻訳ノート」を作ることにした。彼の発言を記録し、私なりに解釈していくノートだ。

タダシ語翻訳ノート
  • 「やめる」→仕事を辞める(たぶん)
  • 「前にも言った」→言ってない(もしくは冷蔵庫の音に負けた)
  • 「なんとかなるっしょ」→計画はないけど、希望はある

そして、別居を決めた日。私は静かに言った。

「タダシ、あなたの言葉が分からないの。だから、少し距離を置いて、私の耳を休ませるわ」

「え?俺、そんなに滑舌悪い?」

「うん。たぶん、冷蔵庫よりも静か」

「それは、褒めてる?」

「違う」

別居後も、タダシからのメールは届く。文章は相変わらず上手で、時々笑ってしまうほどだ。

「たみへ。今日、スーパーでたみが好きそうなプリンを見つけました。買っておいたけど、冷凍してしまいました。ごめん」

私はそのメールを読んで、思わず吹き出した。

「やっぱり、言葉より文字の方が伝わるのよね」

タダシの真意は、いつも霧の中。でも、その霧の向こうに、少しだけ光が見える気がした。

💡雨の日アルバムと、濃すぎる味噌汁の記憶

雨の音がポツポツと窓を叩く中、私は押し入れからアルバムを引っ張り出した。湿気でページがちょっとくっついてるのも、なんだか懐かしい。

ページをめくると、そこには若かりし頃の私とタダシ、そして幼いタロウとジロウ。タダシは、今よりもずっと穏やかな顔で、私の隣で少し照れたように笑っていた。

あの頃のタダシは、無口だけど優しかった。私が疲れていると、何も言わずに温かいお茶を入れてくれたり、肩をもみもみしてくれたり。マッサージの腕前は、まあ、ツボが謎だったけど、気持ちは伝わってきた。

でも、いつからだろう。その優しさを「当然」と思うようになってしまったのは。

「タダシの母親って、台所仕事だけ苦手だったんだよね」

そうひとりごとを言ってから彼の顔を思い出す。味が濃すぎる味噌汁、盛り付けが芸術的に雑な煮物。でも、彼はそれを笑いながら話していた。きっと、彼にとっては愛情の味だったんだろう。

それなのに私は、結婚してからというもの、理想の家事・理想の子育て・理想の味付けをタダシに押し付けていた。

「この洗濯物、干し方が逆よ」
「お弁当の卵焼き、もっと甘くして」
「掃除機は壁際までしっかり!」

まるで家庭内マニュアル管理者だった私。タダシは反論せず、ただ黙って従っていた。今思えば、あれは尊重じゃなくて我慢だったのかもしれない。

別居してからの5年間、私は何度も過去を振り返った。

「もし、あの時ありがとうって言ってたら」
「もし、まあまあ美味しいって笑ってたら」

そう思うたびに、後悔がじわじわと押し寄せる。まるで、濃すぎる味噌汁のように。

「タダシ、もう私のこと諦めちゃったのかな」

そうつぶやいた瞬間、スマホがピコンと鳴った。

タダシからのメッセージ。

「雨の日は、味噌汁が濃くなるね。母さんの味、思い出した」

私は、思わず笑ってしまった。

「やっぱり、濃すぎる味噌汁は、愛情の味なのかもね」

💡還暦とケーキと、タダシの謎メッセージ

それから何年もたった朝、目覚ましより少し早く目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光が、まるで「おめでとう」と言っているようだった。

「還暦かぁ」

鏡に映る自分に向かってつぶやく。目尻のシワは増えたけど、心の中にはまだ、20代の頃の無鉄砲ガールが住んでいる。あの頃は、夜中に思いつきで夜行バスに飛び乗ったり、タダシに「今から海行こう!」と無茶ぶりしたりしていた。

テーブルには、自分で淹れたコーヒーと、昨日スーパーで買った小さなケーキ。ロウソクは、省略。火災報知器が鳴ったら困るし。

「誕生日だからって、誰かが祝ってくれるわけでもないしね」

そう思いながらケーキの箱を開け、郵便物を眺めていると、そこに小さなメモのようなはがきがあった。

「え?」

見慣れた字でこう書かれていた。

「たみへ 60歳おめでとう。ケーキは冷凍しないように。タダシ」

「なんでここにいるのよ、あんたからのはがきが!」

思わず声が出た。まさかの冷凍プリン事件の伏線回収。

「まったく、そういうところだけ、憎らしいひとことが多いんだから」

別居してから、もうどれくらい経ったのか。数えるのも面倒で、気づけば月日が足元に積もっていた。でも、こうして時々、タダシは小さな謎のサプライズを仕掛けてくる。

以前は、引っ越しの準備中に「この鍋はこっち」「あのフライパンはそっち」と、まるで一人暮らしデビューの大学生のように張り切っていた。私はその姿を見て、「ああ、この人、ひとりが気楽なんだな」と思った。

でも、今思えば、あれは別れの儀式だったのかもしれない。彼なりの、照れくさい愛情表現。

「ふん、二学年下のくせに。人には一つ下って言ってるけど」

そうつぶやきながら、私はケーキを一口。甘さ控えめで、ちょっとだけ涙腺にしみる味。

コーヒーをすすりながら、私は思う。

「この寂しさ、慣れるのかな」

そのとき、スマホが鳴った。タダシからのLINE。

「今日の天気、晴れ。洗濯日和。還暦祝いに、赤いちゃんちゃんこは用意してないけど、赤いエコバッグなら買ったよ。今度渡すね」

私は、思わず吹き出した。

「赤いエコバッグって、還暦祝いの新定番なの?」

寂しさは、完全には消えない。でも、こうして時々、笑える出来事があるなら、まあ悪くない。

「あのタダシが、誕生日おめでとう、だと?」

私は、冷静を装って「ありがとう」とだけ返信したけれど、内心では小さくガッツポーズ。60歳の誕生日に、まさかの記憶力サプライズである。

思えば、私たちの関係は、まるで二本の川。若い頃は同じ流れだったのに、いつの間にか分かれて、今は別々の方向へ。だけど、どこかでまた合流するかもしれない。たぶん、合流地点に「電車賃3,000円」が立ちはだかってるけど。

「電車代がもったいない」って、あれ、名言よね。ある意味、夫婦の危機を交通費で表現するなんて、なかなかできることじゃない。

でも、私も悪かった。あの泡だらけ事件を思い出すたびに、胸がチクッとする。

あれは、タダシが珍しく食器を洗ってくれた日。私は、泡まみれの皿を見て、つい言ってしまった。

「タダシ、もう少し丁寧に洗ってくれない?泡が残ってるわよ」

すると彼は、まるで炭酸水のようにブシュッと怒りを噴き出した。

「俺がせっかく手伝ってやってるのに、文句ばかり言うのか!」

いや、そんなに怒らなくても。私はただ、泡の話をしただけなのに。

でも今なら分かる。あれは、彼なりの愛情表現だったのだ。泡まみれでも、飛び散ってても、彼は私のために頑張ってくれていた。なのに私は、感謝よりも泡チェックを優先してしまった。

「完璧主義、ここに極まれり」って、あのときの私に言ってやりたい。

それから少しずつ、タダシは私から距離を置くようになった。口数が減り、視線も合わなくなり、ついには「実家で暮らす」と言って出ていった。

あれから5年。彼はたまにしか戻ってこない。私は何度も連絡したけれど、返ってくるのは「電車代がもったいない」の一点張り。

「ねぇ、タダシ。3,000円で、夫婦の絆って買えないの?」そう言いたくなるけれど、たぶん彼の中では、もっと深い理由があるのだろう。私の言葉や態度が、彼を傷つけてしまったのかもしれない。

でも、私は今、こう思っている。

「もう一度、ちゃんと話したい」

泡のことじゃなくて、気持ちのこと。完璧じゃなくていい。泡が残っててもいい。もう一度、向き合いたい。

だから私は、決めた。

「タダシに会いに行こう。3,000円握りしめて」

向日葵が夕陽に染まる中、私はそっとエコバッグに麦茶とケーキを詰めた。還暦の誕生日、第二章の始まりである。

💡駅前喫茶と、しわくちゃハンカチの再会劇

ある日、タロウから電話がかかってきた。

「ママ、パパと外で話したよ。ちょっと痩せてた。でも、元気そうだったよ」

「えっ、痩せた!?それ、健康的な痩せ方?それともプリン不足?」

「たぶん、後者」

どうやらタロウは、私とタダシの間を何度も行ったり来たりしてくれていたらしい。まるで夫婦間外交官である。

「パパ、まだママに怒ってるみたいなところもあった。でも、寂しそうだったよ」

その言葉に、私の心はぐらりと揺れた。怒ってるのか、でも、寂しいのか。それって、ツンデレ?

「タロウ、パパに伝えて。ママ、会って話したいって」

数日後、タロウから再び連絡。

「パパ、会ってもいいって。でも、外で。家にはまだ戻りたくないって」

「家より喫茶店が安全ってことね。よし、駅前の昭和レトロ喫茶で決戦よ!」

当日、私は約束の時間より早く喫茶店に到着。窓際の席に座り、メニューを見ながら緊張で心臓がドラムロール状態。

そして、約束の時間を少し過ぎた頃、ドアが開いた。

そこに立っていたのは、見慣れた、でもちょっと老けたタダシ。白髪が増えて、目元のシワが深くなっていたけれど、あの無言の優しさは健在だった。

「久しぶり」

「ああ」

沈黙。気まずい。でも、どこか懐かしい。

私は、勇気を振り絞って口を開いた。

「タダシ、ごめんなさい。あの時、泡のことばっかり言って」

タダシは何も言わず、じっと私を見つめる。そして、ポケットからしわくちゃのハンカチを取り出して差し出した。

「それ、いつからポケットに入ってたの?」

「たぶん、去年の秋」

「熟成ハンカチね」

涙が止まらなくなった。タダシは、静かに言った。

「もういいよ。俺も、言いすぎた。お前が完璧主義なのは知ってたし、俺も反発してた」

「電車代がもったいないって言われた時、ほんとにショックだったのよ」

「あれは、俺の意地。謝ってくれるの、待ってたのかも」

「じゃあ、往復3,000円で意地張ってたの?」

「うん。コスパ悪かった」

私たちは、笑いながら泣いた。5年分の誤解と後悔を、昭和レトロのナポリタンと共に噛みしめた。

タダシは、実家で母親の介護をしていたことを話してくれた。料理も食器洗いも、母親の濃い味と雑な洗い方を受け継いでいたらしい。

「母さん、料理は好きだったんだ。でも、体が動かなくて。だから、俺が手伝ってた。洗い方なんてどうでもよかった。母さんが喜んでくれるのが一番だったから」

私はまた泣いた。泡のことなんて、どうでもよかったのだ。

「ごめんなさい。ほんとに、ごめんなさい」

タダシは、私の手をそっと握った。

「もういいんだ。俺も、お前に頼りすぎてた。お前が完璧に家事こなすから、俺は甘えてた」

「じゃあ、次は泡残しOKってことで、家事分担しようか」

「それは、要相談」

こうして、駅前喫茶での泡和解は、しわくちゃハンカチとナポリタンの香りに包まれて、静かに幕を閉じた。

喫茶店を出ると、外はもうすっかり日が暮れていた。駅のホームに向かう途中、私たちは、まるで昔のように他愛のない会話を交わした。

「そういえば、庭の向日葵、今年も綺麗に咲いてるよ。」私が言うと、タダシは少し驚いたような顔をした。「ああ、あれは毎年きれいに咲いていたな。」

「来年は、一緒に見に行こうか。」私が恐る恐る提案すると、タダシは少し考えてから、小さく頷いた。「そうだな。」

彼の返事に、私の心は満たされた。一度壊れてしまった関係は、元に戻すのが難しい。しかし、時間をかけて、ゆっくりと、新たな形を築いていくことはできるのかもしれない。

駅の改札で、私たちは別れた。タダシは、私に背を向け、電車のホームへと歩いていく。その背中が、以前よりも少し大きく見えた。

家に帰って、私は庭に出た。暗闇の中で、向日葵のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。今年は、この向日葵が、私とタダシの新たな始まりを告げる花になるだろう。

別居生活は、まだ終わってはいない。しかし、今日という日を境に、私たちはまた、コミュニケーションを取り始めた。電車代がもったいない、なんて、もう言わせない。たかが3千円の電車代で、大切な人を失うなんて、もう二度とごめんだ。

向日葵の種が、再び土に蒔かれるように。私たちも、また新たな種を蒔き、これからの日々を育んでいこう。時間はかかるかもしれない。しかし、きっと、いつかまた、あの頃のように、互いを思いやり、支え合うことができるだろう。

私たちは、まだ物語の途中なのだ。これから、どのように変化していくのだろうか。少し、続きが自分事ながら気になっている。

💡その後のこと

私は食卓で、湯気の立つ味噌汁をふたたび、ひとりですすりながら、ぼんやりとスマホの画面を眺めていた。

ゆうちょ銀行の残高照会アプリ。そこに表示された数字は、この2年間、タダシから「給料が出ている」と聞いていた金額とは程遠い預金残高だった。こののんきな生活ももうすぐやめる必要があるかも。

タダシの北海道での農家修行。まさか、そんなにもらえるはずがないと薄々勘付いてはいたけれど、改めて数字を見ると、やはりため息が出た。次男のジロウが、その大きな手で味噌汁の入ったお椀を差し出す。31歳になった息子は、いつの間にか私よりもずっと頼りがいのある存在になっていた。

二人の息子が、この賃貸マンションの家賃も、私の日々の生活費も、全て面倒を見てくれている。タダシが送金してくれるはずだった給料がなくても、なんとか暮らしていけているのは、ひとえにこの子たちのおかげだった。

「ママ、どうしたの? ぼーっとして。」

ジロウの声に、はっと我に返る。

「なんでもないよ。ちょっと。」

ごまかすように、私は視線を逸らした。タダシのことは、このところ、あまり頻繁に考える余裕がなかった。彼の服装のことなんて、それこそ頭の片隅にもなかった。

最近、私の心を占めているのは、別の問題だった。実家近くに住む兄が脳梗塞で倒れたのだ。近所に住んでいるので、たまに様子を見に行っているが、生涯独身の兄は、退院しても面倒を見てくれる人がいない。毎日、リハビリに通っていると聞いている。

病院の廊下で、すれ違う人々の顔を見るたびに、人間の脆さを痛感した。少しの助けがあれば、もしかしたらもっと早く回復するのではないか。軽い生活介護が必要なのではないか、とも思っている。

兄のリハビリの付き添いで、病院の待合室に座っていると、私はふと、数年前の出来事を思い出した。タダシがまだ、北海道に行く前のことだ。

あれは、たしか若いころ、友人の結婚式に出席する日の朝だった。タダシは、クローゼットから引っ張り出してきた、くたびれた紺色のセーターを身につけようとしていた。毛玉だらけで、首元は少しよれ、袖口も擦り切れていた。私は思わず声を上げた。

「タダシ、ちょっと待って! そのセーター、まさか着ていくんじゃないでしょうね?」

タダシはきょとんとした顔で、セーターを見つめた。

「え? いいじゃないか、まだ着られるし。暖かくて楽だろ。」

「楽とかそういう問題じゃないの! 結婚式よ? せめて、もう少しちゃんとした格好をしてちょうだい!」

私は、タダシのために買っておいた、まだ新しいダークグレーのジャケットを引っ張り出した。

「これに着替えて。あと、シャツも新しく買ったやつがあるでしょう?」

タダシは不満そうな顔をしながらも、渋々着替えた。その日、結婚式会場で他の参列者と並んだタダシは、それでも周りの人たちに比べて、どこか垢抜けない印象だった。特に、手入れされていない髪と、無頓着に伸びたひげが、余計に彼の「だらしない」印象を強調していた。私は、あの時、もう少し厳しく言っておけばよかった、と後悔した。

タダシは昔から、おしゃれには無頓着な人だった。結婚当初は、私が選んだ服を着てくれたり、たまには「これ、似合うかな?」と聞いてきたりもしたが、歳を重ねるごとに、そのこだわりは完全に消え失せていった。

どうせ農家修行なんだから、汚れてもいい服で十分。そう思っているのだろう。しかし、私は思う。たとえ農家修行の身であっても、身だしなみというものはあるはずだ。清潔感は、相手への敬意の表れでもある。

「タダシさんは、いつまでたっても、私に言われないと何もできないんだから。」

兄の介護を考えるたびにタダシのことが頭をよぎる。遠く離れた北海道で、ちゃんと健康に過ごしているだろうか。ちゃんと食べているだろうか。そして、あのくたびれたセーターのままで、誰にも会わずに過ごしているのだろうか。

もし、兄のように、タダシにも何かあったら。ぞっとした。彼の服装や暮らしぶりは、私にとっては小さな、取るに足らない問題に見えたけれど、もしかしたら、その無頓着さが、彼の健康や生活全般に繋がっているのかもしれない。

兄のリハビリが終わる時間になった。私は、深いため息を一つ吐き、重い腰を上げた。人間は本当に脆い。それは兄を見ていて痛いほどわかる。そして、夫のタダシも、例外ではない。いつか、彼が身につけるセーターやシャツが、もっと明るい色で、新しいものになる日が来るのだろうか。そして、そのとき私は彼の隣で、胸を張って歩けるのだろうか。

考えるべきことは山積している。兄のこと、子どもたちのこと。そして、遠く離れた北海道で、くたびれたセーターを着ている夫のこと。私の心には、いくつもの波が、静かに、そして確かに打ち寄せていた。

「ねえ、そろそろ来る頃じゃない?」

キッチンからリビングを覗くと、タロウがソファに深く沈み込み、スマホを弄りながら言った。隣ではジロウが相槌を打つように頷いている。今日は私の63歳の誕生日。まったく実感が湧かない。子どもたちが気を遣って、ささやかなお祝いをしてくれるというので、久しぶりに3人で食卓を囲むことになっていた。

「もうすぐね。でも、パパ、時間通りに来たことないじゃない」

私は苦笑しながら答えた。タダシ、私の夫。そう答えるのが精一杯だった。最初は、お互いに距離を取りたかったせいだと思っていた。彼も私も、どこか息苦しさを感じていたのかもしれない。でも、今では、彼も一人の方が気楽なのでは、と思ってしまう。

ピンポーン。

玄関のチャイムが鳴った。子どもたちが顔を見合わせ、まるで子どものように嬉しそうな顔をする。私もまた、胸の奥が温かくなるのを感じた。

「おじゃまします」

タダシの声が聞こえる。相変わらず、少しだけ間の抜けた、でもどこか安心する声だ。リビングに現れたタダシは、少しばかり髪が薄くなったものの、昔と変わらない笑顔を私に向けた。

食卓には、タロウが腕によりをかけた手巻き寿司と、ジロウが焼いたケーキが並べられていた。どれもこれも、私のために作ってくれたものだと思うと、目頭が熱くなる。

「たみ、これ、俺からのプレゼント」

タダシが差し出したのは、小さな包みだった。開けてみると、そこには繊細なデザインのネックレスが収められている。

「ありがとう」

声が震えた。こんな素敵なもの、まさか彼が選んでくれるなんて。

「どうしたんだよ、ママ。まさか?」

タロウが冗談めかして言う。

「泣いてなんかいないわよ。ちょっと。」

私は慌てて顔を上げた。タダシは何も言わず、ただ優しく微笑んでいる。その笑顔に、昔と変わらない彼の愛情を感じて、私はまた胸がいっぱいになった。

食事が終わり、子どもたちが片付けを始めると、タダシは私に切り出した。

「たみ、少し話さないか?」

二人きりになったリビングで、私は身構えた。何を話すのだろう。この2年間、ずっと避けてきた話題。別居のこと。私たちの関係のこと。

「え、どうして?」

「いや、ちょっと、いろいろとね」

タダシは言葉を濁す。しかし、その表情はどこか晴れやかで、長年の重荷を下ろしたような清々しさを感じさせた。

「あのさ、たみ」

タダシが、私の方を向き直る。その真剣な眼差しに、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。

「俺、また、たみと一緒に暮らしたい」

予想もしなかった言葉に、私は息を呑んだ。

「でも、私たちが別居続けているのは、お互いに距離を取りたかったからじゃなかったの?」

「確かに、最初はそう思った、その後もそう思った。でも、ずっと、離れてみて分かったんだ。俺にはたみが必要だって」

タダシの言葉は、真っ直ぐに私の心に響いた。私だって、彼がいなくなってから、どれだけ寂しい思いをしてきただろう。一人の方が気楽だ、なんて、強がっていただけだった。

「でも、仕事は?」

「当面は、貯金でなんとかなる。それに、新しいことも考えてるんだ」

タダシは、楽しそうに自分の新しい夢を語り始めた。若い頃から、彼は新しいことに挑戦するのが好きな人だった。私には理解できないことも多かったけれど、そんな彼の真っ直ぐな情熱に、いつも惹かれてきた。

子どもたちが戻ってきて、リビングは再び賑やかになった。タダシの新しい夢の話に、子どもたちも興味津々で、3人で楽しそうに話し込んでいる。その光景を見て、私は胸の奥に温かい光が灯るのを感じた。

「ママ、よかったな」

タロウがそっと耳打ちする。ジロウもまた、にこやかに頷いている。子どもたちも、私たちのことを心配してくれていたのだ。

夜が更け、子どもたちが帰っていくと、リビングには私とタダシだけが残された。

「たみ、今日の夜は泊まっていっていいか?」

タダシが、遠慮がちに尋ねる。私は何も言わず、ただ頷いた。

翌朝、目が覚めると、隣にはタダシが眠っていた。久しぶりに見る、彼の寝顔。少しばかり皺が増えたけれど、昔と変わらない安心感を与えてくれる。

「タダシ」

彼とまた一緒に暮らす。その言葉が、私の胸に希望の光を灯した。再出発。遅すぎるなんてことはない。むしろ、これからが本当の始まりなのかもしれない。

「たみ、おやすみ」

寝言のようにタダシが呟いた。私は思わず笑みをこぼした。

「おはよう、タダシ」

私にとって、今日という日は、新しい誕生日のように感じられた。

完

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🌿住み込み職員30歳、貯金120万、結婚絶望。どん底のヒロが極真空手×お菓子×絵画を掛け合わせたら、1年後に岡山で自分の店と奥さんを手に入れた話
朝5時半の目覚ましでヒロは起きた。まだ暗いグループホームのバルコニー横のサンルームが彼の居室だった。古い日本家屋でサンルームとは呼ばれている...
🌿社内ニート寸前のSEだった僕が飲み会の高級サンドイッチと三千円のポチ袋で人生を激変させた話。PCの再起動しかできなかった男が営業部エースになるまで
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🌿社内ニート寸前のSEだった僕が飲み会の高級サンドイッチと三千円のポチ袋で人生を激変させた話。PCの再起動しかできなかった男が営業部エースになるまで
都心から少し離れたオフィス街の一角、雑居ビルの4階にふるさとネットのオフィスがある。 全国各地の美味しい特産品を扱う、従業員30名ほどの活気...
💊同期はNYで課長、俺は軽バンで半径2km。37歳・うだつの上がらない主任が辿り着いた人生の最終テスト
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💊同期はNYで課長、俺は軽バンで半径2km。37歳・うだつの上がらない主任が辿り着いた人生の最終テスト
現在37歳のケンが、古びた置き薬の箱一つを持って顧客宅の玄関先に立つとき、彼がかつて都会の喧騒を離れた郊外の大学でウェブマスターの肩書きを(...
木とAIと頑固職人。家業が傾いたのでミク最強のチーム木工を作って木のおもちゃ女王になりました
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木とAIと頑固職人。家業が傾いたのでミク最強のチーム木工を作って木のおもちゃ女王になりました
仙台駅から歩いて8分。都会の喧騒がふっと消え、落ち着いた住宅街が広がる一角に、ミクのお店サンタ第2工房はある。当時46歳。趣味は読書(静かな...
🌿後発の手術支援ロボットを大学病院へ売り込め。低侵襲手術の時代に院で学びながら挑むマーケ担当者。文献営業が功を奏するのか医療ベンチャー奮闘記
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🌿後発の手術支援ロボットを大学病院へ売り込め。低侵襲手術の時代に院で学びながら挑むマーケ担当者。文献営業が功を奏するのか医療ベンチャー奮闘記
この物語は、医療機器の営業からロボットサージェリーの未来を担うマーケターへと歩む一人の男・タカシの静かな挑戦の記録です。技術革新の波に翻弄さ...