静かな手が、笑顔を運ぶ—内職から手話カフェへ
静かな手が、笑顔を運ぶ—内職から手話カフェへ

朝のラジオ体操が終わると、作業所の空気は一瞬だけやる気に満ちる。しかしそのやる気は、職員の今日も元気にいきましょう!の声とともに、どこかへ飛んでいく。利用者のシーさんは、今日もサポーターを裏返しに装着しながら言った。これが俺流。逆境には逆手で立ち向かうんよ。そんなシーさんの日常を描いてみました。


三色ボールペンの達人

「シーさん、今日もよろしくお願いします!」

朝礼の2分間、職員の田中さんが元気よく手話で挨拶してくれる。私は55歳、かに座、干支は丙午(ひのえうま)。福祉作業所マーガレットで、毎日3色ボールペンを組み立てている。1本完成させると8円。時給じゃない、1本8円の明朗会計。つまり、やる気と根気がすべてなのだ。

作業所には私を含めて利用者が4人。職員は3人。まるで小さな劇団のような人数構成で、毎日10時から16時まで、ペンと格闘している。昼休みは12時から1時まで。私は毎朝、自作のお弁当をもっていく。今日のメニューは卵焼き、ウインナー、そして母直伝のきんぴらごぼう。同じマンションの隣の一室に住む77歳の母は、玄関こそ別だが、きんぴらの香りで私の生活にしっかりと参加している。

さて、今日の主役はペンではない。施設長の佐藤さんだ。

「シーさん、ちょっとスピード上げてもらえませんか?」

彼はそう言った。手話で。眉間にしわを寄せて。私は一瞬、ペンを落とした。斎藤さんがコロナで2週間お休みしているせいで、納期に200本の不足が出ているらしい。佐藤さんの焦りは、ペンのキャップよりも固く、私の心にカチッと刺さった。

「私のせいじゃないですよね?」

私は反発した。手話で。ちょっと強めに。かに座の甲羅がガチンと閉じた瞬間だった。

佐藤さんは少し驚いた顔をして、でもすぐに笑った。

「いや、もちろんそういう意味じゃあ、ないです」

でも、もう遅い。私はペンを握りしめ、まるで戦隊ヒーローのように作業台に戻った。今日の私は3色ボールペンの神様、怒りの反抗モードなのだ。

午後3時の休憩では、同僚の山本さんが私にそっとチョコレートをくれた。甘さが心に染みる。少しだけ、反省した。大人げなかったかな。でも、納期のプレッシャーを私におっかぶせるのは違うと思う。

夕方3時50分、掃除を終えて終礼。帰り道、8分のマンションまでの道のりで、空を見上げた。かに座の星は見たことないけど、なんだか少しだけ、心が軽くなった。

明日は、もう少し優しくなれるかもしれない。

こだわり

夕方3時58分。作業所マーガレットの終礼が終わり、私は8分かけてマンションへ帰宅する。エレベーターのボタンを押すと、マンションの隣部屋に母・マリコの気配がない。あれ、今日は早いなぁ?と思ったら、玄関に「炎天下散歩中」のメモが貼ってある。77歳、元気すぎる。

母のマリコさんは毎日、スーパー「べにまる」へ散歩がてら買い物に行く。道順はまるで犬の散歩のように正確で、信号のタイミングまで計算済み。買うものもほぼ固定。豆腐、こんにゃく、もやし、そして謎の「きんぴらごぼう必須セット」。このセット、私には見分けがつかないが、母には「今日のゴボウは機嫌がいい」とか「このニンジンは踊ってる」とか、謎の判定基準があるらしい。

母の料理は、言ってしまえば昭和の定番。湯豆腐か冷ややっこ、みそ汁、もやしの焼き肉のたれ炒め。朝は納豆と卵料理1品。昼は、きんぴらごぼう。毎日。毎日。毎日。

私は嫌いじゃない。むしろ、きんぴらごぼうは好きだ。だが、毎日続くと、心がゴボウのように繊維質で折れそうになる。

「たまには違う料理でも」と口にしたことがある。結果、母の目がうるうるして、きんぴらごぼうの皿がそっと下げられた。あれは、きんぴら史上最大の悲劇だった。

それ以来、私は自分で料理をするようになった。冷蔵庫には私の作ったおかずゾーンと母の作ったおかずゾーンがあった。きんぴらは境界線を越えてこない、はずだ。

しかし、母は諦めない。夕食が終わるころ、トントンとノックがあり、そっと差し出されるタッパー。

「きんぴら、今日のは油揚げ入りよ」

その言葉に、私の眉毛がピクリと動く。油揚げ入り、それは、私にとって「ルール違反のきんぴら」なのだ。

母は言う。「油揚げは甘辛く煮るとうまいのよ。きんぴらは第4の栄養素なんだから」

第4の栄養素?炭水化物、タンパク質、脂質、そしてきんぴら?

私はタッパーを受け取り、そっと冷蔵庫へ。食べるかどうかは、明日の気分次第。でも、母の気持ちは受け取った。たぶん、油揚げに、悪気はない。

第四の栄養素という明確な定義はありませんが、一般的には「五大栄養素(炭水化物、脂質、タンパク質、ビタミン、ミネラル)」に次ぐ「食物繊維」を指すことが多いです。食物繊維は体内で消化吸収されにくく、健康維持に不可欠な働きをするため、重要な栄養素として注目されています。

夜、ベランダで星を見ながら、私は思う。きんぴらごぼう戦争は、たぶん終わらない。でも、それもまた、家族の味なのかもしれない。

きんぴらごぼう

朝10時、福祉作業所マーガレットの冷蔵庫は、静かにその巨大な扉を開けていた。食事を提供しない施設にしては、なぜか業務用サイズ。私の身長よりも背が高く、まるで冷蔵庫界の長老とでも呼びたくなる風格だ。

私はいつものように、上から2段目にお弁当箱をしまった。今日の主役は、昨晩のがまんの成果なのだが、ニチレイの冷凍餃子7個が入っている。そして、片隅には母マリコさんの第4の栄養素こと、きんぴらごぼう。しかも、最悪の油揚げ入りだ(※何度もいいますが、お揚げの入ったきんぴらは邪道だと思っています)。

「主菜じゃない、すみっこにすればいいか」と自分に言い聞かせながら、私は餃子に集中することにした。電子レンジで1分。ご飯はほんのり温かく、餃子は香ばしく、きんぴらはまあ、そこそこ。

午後3時。おやつの時間。職員の田中さんが、得意げに冷蔵庫から半額シール付きのシュークリームを取り出した。

「これ、昨日の夜にスーパーで見つけたんですよ。賞味期限ギリギリだけど、まだいけるはず!」

その瞬間だった。

「あれ?なんか甘くない匂いがする」

田中さんがシュークリームの底を見た。そこには、ぽたりと垂れた茶色い液体。そう、それは、きんぴらの煮汁。

「えっ、これ、餃子のタレじゃないですよね、シーさん?」

シーさんというところは、口の前に人差し指1本をたててシーとやる、の一文字でみんなは表現している。

「違います。たぶん、うちの母の第4栄養素です」

うちのきんぴらごぼうは、ここの施設で「食べる、4」で手話表現されている。

作業所内に、静かな衝撃が走った。シュークリームにきんぴらの煮汁。甘辛と甘々の禁断の融合。まるで、和食と洋菓子が戦場で出会ってしまったような瞬間。

田中さんは一口かじってみた。

「うん、これはこれで新しいかも」

私は思わず吹き出した。きんぴらは、すみっこにいればいい。だけど、時には冷蔵庫の中でも、すみっこから飛び出してくるらしい。

その日以来、冷蔵庫には煮汁注意のメモが貼られることになった。

チーズケーキ

冷蔵庫の煮汁注意メモが、ある日ふわりと剥がれ落ちた。まるでもう、きんぴらは自由だと言わんばかりに。

そのころ、職員の田中さんは新たな挑戦に燃えていた。午後3時のおやつタイム、彼は誇らしげに銀の小皿をかかげた。

「皆さん、今日は新作スイーツを試してもらいます!」

その名もチーズケーキみたらしあんがけ。しかも、唐辛子風味。

「えっ?それ、どこの国のデザートですか?」

私は思わず手話で問いかけた。田中さんは満面の笑みで答える。

「和洋中折衷です!(中が一つ多い)」

一口食べてみると、確かにまずくはない。むしろ、意外と合う。甘さの中にピリッとした刺激、そしてみたらしのとろみがチーズケーキに絡む。だが、これはスイーツなのか、前菜なのか、はたまた新しい宗教なのか。

「田中さん、もしかして、カフェ事業を始めるつもりですか?」

私の問いに、田中さんは目を輝かせた。

「そうなんです!施設長も乗り気で、手話カフェを目指してるんですよ!」

手話カフェ。なるほど、耳の聞こえない人でも安心して働ける、そして来店できるカフェ。素晴らしいアイデアだ。でも、私は少し不安になった。

施設長の佐藤さんが言った。

「シーさんは3色ボールペンの達人ですから、カフェでもきっと活躍できますよ」

その言葉に、私はちょっと安心した。が、彼は続けてこう言った。

「ウェイターも、しっかりこなせると思いますよ」

私は目を疑った。どうやって?「いらっしゃいませ」と声をかけるのも難しいのに。注文を受けるには、手話ができるお客さんばかりとは限らない。

さらに施設長の佐藤さんが言った。

「とりあえず、チーズケーキとかスイーツは別にして、われわれは手話カフェを目指しています」

スイーツは別にしてという言葉に、職員の田中さんの肩が少しだけ落ちた。でも、彼はすぐに笑った。

「じゃあ、次はきんぴらプリンに挑戦します!」

作業所マーガレットは、今日も平和だった。ボールペンときんぴらと、夢とスイーツが混ざり合う午後。

エプロン

「無理です」

私は、右の頬をつねる手話表現で、はっきりとそう言った。

施設長の佐藤さんがあげたのは、イタリアンレストランのウェイターが着ていそうな、真っ赤なエプロン。しかも丈が短い。ポケット付き。男の私には、どう見ても、赤いミニスカートにしか見えない。

「手話カフェのユニフォーム案です!」

施設長は満面の笑みで言った。私は、冷蔵庫の煮汁注意メモが剥がれ落ちた時と同じような、静かな危機感を覚えた。

私は普段、施設の運営方針にはあまり口を出さない。職員の領域だと思っているし、利用者は指示通りに動く方が安心安全。そう思ってきた。でも、今回ばかりは違った。

試着は3種類。白、黒、そして予想通りの赤。結果、赤に決定。ポケット付き。誰も私の意見なんて聞いていない。

「シーさん、似合うと思いますよ!」

施設長の佐藤さんが手話で言った。私は目を細めた。似合うかどうかではない。問題は、私が赤いミニスカート風エプロンで「いらっしゃいませ」と手話でも何でも言えるかどうかだ。

「そもそも、どうやって注文を受けるんですか?」

私の疑問に、施設長の佐藤さんは自信満々に答えた。

「手話で!」

それはそうだ。でも、来店する人がみんな手話ができるとは限らない。しかも、私は3色ボールペンの達人。カフェのユニフォームより、3色ボールペンの芯の順番の方がずっと大事だ。

「3色ボールペン事業はどうなるんですか?」

誰も答えなかった。赤、青、黒の順番は、エプロンの色よりもずっと意味があるのに。

でも、私はユニフォームのことは抜きにして、ふと思った。バレーボールチームに所属していたころのサポーターたち、あの人たちをマーガレットに招待できるかもしれない。手話カフェという新しい舞台で、再会できるかもしれない。

赤いエプロンは、私にとって無理だった。でも、手話カフェは少しだけど、ありかもしれない。

ロープレ

「みなさんは、ロープレってご存じでしょうか?」

施設長の佐藤さんがそう言ったとき、私はロープレという言葉を、ロープでプレッシャーをかける何かだと思った。実際はロールプレイング、つまり、役割を演じる練習らしい。

マーガレットの昼食スペースは、今やカフェスペースに変貌していた。近所の大工さんが、なぜか無償で合板を張り、棚やカウンターを取り付けてくれた。3か月かかった。途中、きんぴらの煮汁が大工さんの大切な工具に垂れてねとねとにしてしまった事件もあったが、それはまた別の話。

そして、その3か月の間に施設長の佐藤さんはロープレに目覚めた。どこかのビジネス書に書いてあったらしい。ウェイター役の利用者4名全員に、注文の取り方を特訓し始めたのだ。

「いらっしゃいませ」は、手話というより身振り手振り。まるで盆踊りのような動きで、笑顔を添えればオッケー。途中で「ありがとう」「お願いします」などの手話単語をレクチャーするのもロープレの一環。できるだけ自然に。できるだけ笑顔で。できるだけ無理なく。

私は思った。

「どうしてこんな難しいことに挑戦するのだろう?」

手話カフェが儲かる気はしない。ふつうのカフェだって、味や衛生管理で苦労しているのに。しかも、手話で来店する人がいるのだろうか?3色ボールペン事業が終わるというならともかく、まだペンの芯は赤青黒と順調に入荷している。

でも、ロープレをやりながら、私はふと考えた。

「知り合いが、自分の職場に来てくれるかもしれない」

バレーボールチームのサポーターたち。昔の仲間。あの人たちが、赤いカウンターの向こうで「チーズケーキください」と言ってくれるかもしれない。

私は、どうでもいいふりをしていたけど、心の中では、なんだか、たのしそうだなぁと思っていた。

注文ミス

ロープレ中なのに、注文ミスは数えきれないほどあった。

「アイスコーヒーください」が「アイスクリームください」に化けたり、「紅茶」が「コーラ」になったり。練習だからこそ笑って済ませられるが、問題が起こったらどう対処するか。それだけは、誰も練習していなかった。

施設長の佐藤さんは終礼で宣言した。

「来月、7月1日。手話カフェ、開店!」

七夕の少し前。短冊には「手話カフェがうまくいきますように 佐藤」と施設長が書いていた。でも、他の人たちは誰もカフェのことには触れず、「健康で過ごせますように 田中」が今年も一番の人気だった。

そして、7月1日があっという間に来た。

前の土日、職員さんたちは手分けして近所にビラを配ったらしい。コピー機で作った名刺サイズの「開店しました!手話できない人も歓迎!ドリンク無料券」。その甲斐あって、来店者は11組。ほとんどがご高齢の女性だった。

中には、手話を習い始めたという80歳の男性もいた。「こんにちは」をすらすらと手話で表現してくださった。私は、思わず笑顔になった。そのあと、なにかをしゃべられたようだったが私には読み取れなかった。

ほとんどの来店客は残念ながら、手話になじみがなかった。でも、壁に貼ってある「ありがとう」「こんにちは」「初めまして」の手話表現を見ながら、飲み物を1杯飲んで、帰りには「ありがとう」と手話でやってみる人が数名いた。

注文は、ほとんどメニューの指差しだった。私は、間違えないように伝票を見せて注文の確認をした。ロープレでは誰も練習していなかった確認という技が、ここで役に立った。

「伝わるって、うれしいことなんだな」

私は、心の中でそう思った。七夕の短冊には「家内安全、無事故無違反」としか書かなかったけれど、今日のこの時間こそが、本当の願い事のように感じられた。

ライトアップ

12月。近所の川の水面が、光の粒で染まる季節。

市内を流れるその川沿いがライトアップされると聞いて、昔のバレーボール仲間たちが「クリスマスライトツアー」を企画してくれた。あの頃のチームメイトたち。笑って、跳んで、汗をかいていたあの人たちが、今度はイルミネーションを見に集まる。

そして、その当日の夕がた、マーガレットの手話カフェにみんなが寄ってくれることになった。

すでに開店から半年。常連の80歳男性は、今や「こんにちは」「ありがとう」だけでなく、「おいしかった(顎をさする動作)」まで手話で言えるようになっていた。彼の手の動きは、まるで優しい風のようだった。

手話カフェにはろう者が1〜2名という場合が一般的らしい。でも、この日は違った。ろう者が10名弱。健聴者のほうが少ないという、珍しい構図になった。

注文は、手話で。笑顔で。ときどき、指差しで。

健聴者の中には、肩身が狭そうにしている人もいた。でも、壁に貼られた「こんにちは」「ありがとう」「はじめまして」の手話ポスターを見ながら、少しずつ手を動かしてみる初めてこられたお客さんもいた。

「ジンジャーエール、どうやるの?」と聞かれたとき、私は手話でゆっくりと教えた(神社+応援)。冗談のつもりだったが、私の手の動きを見て、周りのお客様全員が真似していた。

その瞬間、私は思った。

「いいクリスマスになりそうだな」

施設長の佐藤さんや田中さんをはじめ、職員の皆さんが、こんな機会を用意してくれたことに、感謝しかなかった。赤いミニスカ風エプロンも、実際には多発した注文ミスも、全部この日のための準備だったのかもしれない。

市内を流れる近所の川の光は、施設からも見えた。でも、私には、カフェの中の手の動きが、もっと美しく見えた。

スピーチコンテスト

年が明けて、マーガレットの手話カフェにも、少しだけ春の気配が漂い始めたころ、常連の後期高齢者、章さんが、ぽつりといった。

「手話スピーチコンテスト、やりたいです」

章さんは80歳。たぶん、今年は81歳になるはず。手話はYouTubeで独学しながら、カルチャースクールにも通っているらしい。マーガレットの聴覚障害者たち、私にとっても、ちょっと年上の、でも気さくで話しやすい友達だった。

相撲好きで、朝青龍の話になると盛り上がった。手話で「横綱」と表現する時の手の動き(向かい合わせた指をひねりながら左右に引く手話)が、なぜか力強くて、みんなで笑ったこともある。

「参加無料で、会場費は僕がもつから、佐藤さん心配しないで」

章さんの言葉に、施設長の佐藤さんは感動したらしい。でも、そこは商売上手。

「マーガレットに出入りしている人限定にしませんか?」

その提案に、私は思わず「うまいな」と思った。宣伝にもなるし、仲間意識も高まる。

すぐにお客さんのうち3名が手を挙げた。2月になると、「まだ枠ありますか?」と控えめに名乗り出る人がちらほらと続き、最終的に15名が集まった。

そして、3月13日土曜日。第1回スピーチコンテストの日。

昼の1時にスタートして、夕方5時まで。1人10分のスピーチと、3分の質疑応答。手話で語る、それぞれの物語。笑いあり、涙あり、そして静かな感動があった。

健聴者の部だけ表彰があった。入賞者は3名。その中に、章さんの名前もあった(スポンサー枠といううわさもあったが)。

「手話は、言葉じゃなくて、気持ちを伝えるものだと思うんです」

章さんのスピーチの一節。私は、心の中で拍手を送った。

バレーボールの昔の仲間たちも、4名が参加してくれた。手話はできなくても、伝わるものがある。それを、みんなが感じてくれたようだった。

春の光が、マーガレットの窓から差し込んでいた。章さんの手の動きが、その光を受けて、まるで踊っているように見えた。

就労継続支援B型

マーガレットは、就労継続支援B型の施設です。

私たち利用者の収入は、カフェの売り上げに比例します。オープン当初は、3色ボールペンの組み立て工賃がありました。赤、青、黒、順番を間違えずに並べることが、私の誇りでした。

でも、2か月目には工賃ががた減りしました。それでも施設長の佐藤さんは、プールしていたお金から工賃を捻出してくれました。少しの減収で済んだのは、きっとその配慮のおかげです。

私たちは、工賃の多い少ないで文句を言うことはほとんどありません。それは、言っても仕方ないという気持ちがあるからだし、「こんな私でも仕事をさせていただけている」という思いがあるのも本当です。

章さんのスピーチコンテストは、マーガレットの売り上げが少し良くなるきっかけになりました。手話で話しかけてくださるお客様も、少しずつ増えてきました。

1960年代まで、日本には有効な薬(たとえば、ステロイドや 免疫グロブリンなど)が十分に普及していなかったため、未就学の子どもが高熱を出し、熱が下がった後、聞こえなくなってしまう、そんな悲劇がありました。当時2歳の私もそのひとりです。

それ以降の時代、聴覚障害者は減少しています。でも、私たちはこうして生きています。働いています。笑っています。

マーガレットは、ただの作業所ではありません。きんぴらごぼうの煮汁がシュークリームに垂れるような、ちょっとした事件もあります。そのおかげで手話カフェがスタートしたのかもしれません。そこには人がいて、会話があって、手話があって、挑戦があって、希望もあります。

忘れないように、この場所のことを紹介させていただきました。

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