サナエ・ファンド
サナエ・ファンド

「あなた、これ、何?」土曜日の昼下がり。リビングでキョウスケ(43)がビクッと肩を揺らした。妻のサナエがゴミ箱の横から拾い上げてきたのは、リング型の古びたキャンパスノートだった。

へそくり

「いや、それはただの、大人の自由研究というか」

「へえ。自由研究ねえ」

サナエがパラパラとページをめくる。そこには、赤と緑のマジックで器用に描かれたローソク足の数々と、「逆三尊は爆益!」「包み線は微益」などと書かれた怪しい円グラフ、さらには「ダウ理論:安値更新せず高値更新で買い!」といった血の滲むような手書きのメモがびっしりと詰まっていた。

そう、キョウスケはここ数ヶ月、家族に内緒で株式投資の猛勉強をしていたのだ。きっかけは、会社の飲み会を断って浮いた、名もなきなけなしの10万円。銀行に預けていてもスズメの涙。ならばこの手で増やして、いつもお小遣いカットをチラつかせてくるサナエをアッと言わせてやろうと画策したのである。

「ふーん。移動平均線のゴールデンクロス?キョウスケ、あなたまさか、私たちの大事な生活費を溶かしてないでしょうね?」

サナエの目が鋭く光る。

「ち、違うよ!完全に僕のポケットマネー、10万円ポッキリ!これ以上は1円も使わないって神に誓う!」

「ならいいけど。もし1円でもマイナスになったら、来月からのビールは全部発泡酒、それも一番安いやつにするからね」

恐ろしい条件を突きつけられ、キョウスケは冷や汗を流しながらノートをひったくった。その日の夜。家族が寝静まった午前2時、キョウスケはパソコンの前でノートを開いていた。

「売買の目安条件その①、時価総額は100億円以下」

手書きのチェックリストをブツブツと呟きながら、Yahoo!ファイナンスとIR
BANKを交互に睨みつける。狙うは、誰も注目していないが業績が良い小さな企業の株だ。「過去3年右肩上がり、自己資本比率40%以上、PER15倍以下よし、全部クリアだ!」

キョウスケは震える指でマウスをクリックし、人生で初めて、10万円分の株を購入した。

翌朝。

「パパ、画面見たままフリーズしてて怖いんだけど」

中学1年生の娘のレナが、朝食のトーストを齧りながら言った。キョウスケの目は、スマホの画面に釘付けだった。昨日買った株のチャートが、綺麗に赤のマジックで描いた通りの上昇トレンドを描き始めていたのだ。

「レナ。パパの時代が、ついに来るかもしれない!」

「はいはい。それより今度の日曜、新しいスニーカー買ってよね」

サナエはキッチンでフライパンを叩きながら、「発泡酒の準備、しとこっかなー」と不敵に笑っている。

こうして、キョウスケの10万円から始まる2年間の大冒険の幕が開いた。手元のキャンパスノートには、まだ誰も知らない爆益の文字が、赤々と輝いていた。

爆益

「勝った。また勝ったぞ!」

投資を始めて半年。キョウスケ(43)の口座残高は、なけなしの10万円から、気づけば30万円にまで膨れ上がっていた。

ノートに書いた「ダウ理論:安値更新せず、高値更新で買え!」のルールを忠実に守り、移動平均線が綺麗に交差するゴールデンクロスの波に乗った結果だった。キョウスケの脳内は完全に無敵モードに突入していた。

調子に乗ったキョウスケは、仕事帰りにコンビニでちょっと高い、1個350円のプレミアムチョコレートアイスを家族3人分買って帰宅した。

「パパが高級アイス買ってくるなんて天変地異?明日学校休みにならないかな」

レナが嬉しそうにスプーンを突き立てる。

「あら、景気がいいわね。発泡酒の出番はなさそうかしら?」

サナエも機嫌よくアイスを頬張っている。

「フッ、これくらい男キョウスケ、いつでも買ってやるさ。なんと言っても今の俺は、相場の波を乗りこなすチャートの魔術師だからね」

ふんぞり返るキョウスケだったが、翌日の月曜日、魔術師の魔法は無惨にも打ち砕かれた。

「な、なんだこれはっ!?」

会社の休み時間、スマホの株価画面を見たキョウスケの顔から血の気が引いた。昨日までイケイケの上昇トレンドを描いていたお気に入り銘柄のチャートが、垂直落下する勢いで急落していたのだ。

慌てて胸ポケットから例のキャンパスノートを取り出し、ページをめくる。

「ええっと、天井圏の売りサイン?これだ!」

ノートには黒いマジックで不穏な文字が躍っていた。

「今すぐ売れ!(天井圏)首吊り線、三羽烏、団子天井、捨て子線」

画面をよく見ると、まさにローソク足の頭にピョコッと長い上ヒゲが出た、教科書通りの首吊り線が出現していた。おまけに、翌日には陰線が3本並ぶ三羽烏のコンボである。

「完全に天井だったじゃないか!見落としてた!」

「待って売れ!」の下落相場に突入する前に、キョウスケはパニックになりながら売却ボタンを連打した。利益は大幅に削られ、30万円あった資産は一瞬で15万円まで減少。危うく最初の10万円まで溶かすところだった。

ほうほうの体で帰宅すると、リビングのテーブルには昨日食べた高級アイスの空カップが虚しく置かれていた。

「パパ、今日のアイスは?」と聞いてくるレナ。

「あ、いや、今日はちょっと流通の都合で入荷がなくてね」

「ふーん。顔がレジスタンスライン(抵抗線)くらい引きつってるわよ」

キッチンからサナエが冷ややかな視線を送ってくる。

「キョウスケ、今日の夕食の後ろに「下落トレンド」のサインが見えるんだけど。まさか、アイス代で生活費にデッドクロスしてないでしょうね?」

「してない!ギリギリセーフ!
支持線(サポートライン)は死守したから!」

ノートを抱きしめながら叫ぶキョウスケ。相場の世界も、我が家の監視体制も、一瞬の油断も許されないことを、キョウスケは身をもって知るのだった。

天井圏

最初の暴落から1年半。キョウスケ(44)のキャンパスノートは、手垢とコーヒーのシミでボロボロになっていた。だが、そのボロさとは裏腹に、キョウスケの投資スキルは劇的に進化していた。

ノートの余白に小さく書かれた「水平線:レジスタンスがサポートに変わる(ロールリバーサル)」の法則を完全にマスターしたのだ。かつて株価の上値を抑えていた「抵抗線」を突き抜けた瞬間、そこが今度はガッチリと価格を支える「支持線」に変わる。その黄金の転換点を狙い撃ちする手法で、キョウスケは着実に利益を積み重ねていた。

そしてついに、スマホの画面に記念すべき数字が躍る。

【評価総額:1,050,000円】

「やった。ついに100万円突破だ!」

へそくりの10万円が、10倍の大台に乗ったのだ。キョウスケは自室のクローゼットの奥、古いゴルフバッグの底に隠したノートを引っ張り出し、赤いマジックで「100万達成!!!」と大きく書き込んだ。

しかし、歓喜に震えるキョウスケの背後に、足音もなく近づく影があった。

「へえ、100万円ねえ」

「ひゃ、うっ!?」

情けない悲鳴を上げて振り返ると、そこには腕組みをしたサナエが立っていた。手には、なぜかキョウスケのスマホ(ログイン状態)が握られている。

「サ、サナエ!なぜそれを!?」

「レナがね、最近パパがクローゼットのゴルフバッグに向かって拝んでるって怪しむから、見てみたら、スマホは置きっぱなしだし、この怪しいノートは見つかるし」

サナエはボロボロのノートをパラパラとめくり、キョウスケが書き殴った「売買目安:過去3年右肩上がり」や「時価総額100億以下」というスクリーニング条件に目を留めた。

「あなた、平日の昼休みも、夜中も、ずっとこのノートでこんな細かい計算してたの?」

「う、うん。生活費には絶対に手を出さないって約束だったから、僕なりに必死で勉強して」

キョウスケは完全に脱殻状態になり、正座してうつむいた。これで100万円は没収、あるいは良くて全額「家族旅行費」として強制徴収されるに違いない。ビールの発泡酒格下げどころか、お小遣いそのものがレジスタンスラインを割り込んで大暴落する未来が見えた。

しかし、サナエから返ってきたのは意外な言葉だった。

「ふーん。自己資本比率40%以上、ねえ。堅実じゃない」

「え?」

サナエはノートをキョウスケの膝の上にポンと置いた。

「これだけ真面目に研究して増やしたんだから、没収まではしないわよ。ただし」

サナエの目が、ノートの「爆益」という文字のようにキラリと光る。

「私の特別口座からも10万円出すから、同じように増やしなさい。もし減らしたらわかってるわね?」

「ええっ!?外部資金の流入!?」

まさかのサナエ・ファンドの設立に、キョウスケの心臓は再びデッドクロスを起こしそうになるのだった。

ゴールデンクロス

サナエ・ファンドが設立されてから、さらに半年。投資を始めて丸2年が経とうとしていた。

キョウスケ(44)の肩には、かつてない重圧がのしかかっていた。自分の10万円を動かすのとはワケが違う。もしサナエから託された資金を1円でも減らそうものなら、我が家の支持線(サポートライン)は完全に崩壊し、キョウスケの家庭内地位は永久に下落トレンドの底に沈むことになるからだ。

「売買の目安条件、もう一度見直しだ」

キョウスケは、もはや原形をとどめないほど付箋だらけになった例のキャンパスノートを開いた。

「時価総額100億円以下」「過去3年右肩上がり、自己資本比率40%以上」。この鉄則をこれまで以上に厳格に守り、スクリーニングを重ねた。

さらに、サナエがリビングでテレビを見ている横で、キョウスケはチャートに潜む罠を必死で排除した。天井圏の首吊り線や、三羽烏の兆候が少しでもあれば即座に手を引き、ひたすらレジサポ転換(ロールリバーサル)が起きる確実な瞬間だけを待ち続けた。

プレッシャーはキョウスケを臆病にさせたが、その臆病さこそが、彼を本物の堅実な投資家へと成長させていた。

そして、運命の2年満了の日。土曜日のリビング。キョウスケは緊張で震える手で、スマホの画面をサナエとレナの前に差し出した。

【口座合計残高:2,400,000円】

「え?」

サナエが目を見開く。トーストを食べていたレナの手が止まった。

「僕の10万円と、サナエから預かった資金合わせて、ここまで増えたよ。地道に、ノートのルール通りに取引した結果だ」

キョウスケがそう言うと、サナエはしばらく画面を見つめた後、ふっと表情を緩めた。

「やるじゃない。あなたをただの自由研究オタクだと思ってたけど、見直したわ」

「パパすごーい!じゃあ約束のスニーカー、一番いいやつ買ってよね!」

レナが飛び跳ねる。

「ああ、スニーカーでも何でも買ってやるさ。それからサナエ、今日の夜は発泡酒じゃない、本物のビールで乾杯しよう」

「ふふ、いいわね。じゃあ、贅沢にデパ地下でお惣菜も買ってきちゃおうかしら」

家族が笑顔に包まれる中、キョウスケはボロボロになったキャンパスノートを愛おしそうに見つめた。ノートの最後のページには、投資を始めたばかりの自分が、殴り書きした言葉が残っていた。

「投資で一番大事なのは、爆益を出すことではない。ルールを守り、大切なものを守ることだ」

最初は、お小遣いを増やしたい、という小さなへそくりから始まった挑戦だった。しかし気づけば、この手書きのノートは、家族の未来を少しだけ豊かにするための、最高のゴールデンクロスを描き出していたのである。

「よし、明日からまた、新しいノートでスクリーニング開始だ!」

キョウスケの投資ノートは、これからも家族の笑顔と共に、右肩上がりの軌跡を描き続けていく。

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