
皆さん、こんにちは。末っ子のノブ子です。
私の人生、波乱万丈すぎて、これ、本当に一人の人間の身に起きたこと?と自分でもツッコミたくなります。今日は、私の記憶の一番古いところからお話ししましょう。
お嬢様からおしんへ!? 激動の昭和・ノブ子物語
実は私、生まれた瞬間は結構いいところのお嬢様だったらしいんです。
実の父は国鉄(今のJR)に勤めていて、家は裕福。性格も仏様のように優しい人だったとか。
幻のお嬢様時代と消えたお父さん
ただ、残念なことに私の記憶には1ミリも残っていません!
物心つく前に父は空の上へ。残されたのは昔は良かったのよという母の言葉と、父が遺してくれた立派な着物が入ったタンスだけでした。
戦中の空襲や、雨の中の作業、肺炎をこじらせて、連帯保証人で家屋敷を失ったようです。※著者注
父が亡くなってから、我が家の経済状況はジェットコースターのように急降下。
母は、タンスに眠る美しい着物を1枚、また1枚と持ち出しては売って、私たちのご飯代に変えていました。
母の魔法: 「今日は綺麗な絞りの着物がお米になったわよ!」
ノブ子の心境: 豪華な絹の着物が、茶色い紙袋に入ったお米に変わる。幼心に等価交換のルールが厳しすぎない?と思っていました。
雨の畦道、ボロ傘一本、兄弟三人
一番古い記憶のひとつに、雨の日の風景があります。
見渡す限りの田んぼ、その間を通る果てしない畦道。姉、兄、私の3人は、何キロも先の目的地を目指して歩いていました。
でもね、持っていたのはたった一本の破れたカサ。
昭和の兄弟の連帯感
三人で一本のボロ傘。当然、全員ずぶ濡れです。
お姉ちゃん、そっち濡れてる!お兄ちゃん、傘の骨が刺さる!なんて言い合いながら、でも誰もその傘から出ようとしない。
今思えば、あのボロ傘が、私たちの絆の象徴だったのかもしれませんし、私たち、一体どこに向かって歩いていたのか、全く思い出せないでいます。
後日(2026年1月3日)加筆
上安井にお父さんが寺子屋のようなことをやっていたらしく、屋号は森下といったそうです。どうやらそこからの帰り道だったのかもしれません。
4歳孤独な逃亡者ノブ子、線路をゆく
4歳の頃、私は事情があって伊藤さんというお宅に預けられていました。
伊藤さん一家はとても優しくしてくれたのですが、やっぱり母や兄弟が恋しくて、寂しくて。
しばらくしてのある日、4歳の私は壮大な計画を立てました。
「線路沿いに歩いていけば、おかあさんのいる駅(家)に帰れるはず!」
ヨチヨチ歩きで家を抜け出し、線路沿いをトコトコ。
お母さーん!と心の中で叫びながら歩く小さな家出少女。
結局、すぐに保護されてしまったのですが、あの時の線路さえ辿れば、という切ない確信は今でも胸の奥にチリッと残っています。
そしてやってきた暴君
そんな心細い時期を経て、母が再婚。ようやく家族一緒に暮らせる!と思った矢先、やってきたのが、あの「威張り散らすお父さん」だったのです。
優しかった(らしい)実の父、寂しかった伊藤さんの家、そして新しく始まった戦いの日々。
ノブ子の波乱万丈ライフ、ギアが上がるのはここからです!
涙は、お米の研ぎ汁と一緒に流せばいいのよ!
前回のお嬢様から一転、ボロ傘生活の話には続きがあります。
母が再婚して、ようやく家族が一つ屋根の下に集まったはずだったのですが、そこには笑い声なんて入り込む隙間もありませんでした。
お父さんと呼べなかったわけ
新しいお父さんのことを、私たち兄弟は一度もお父さんと呼んだことがありません。
呼ぶ必要がなかった、というより、呼ぶのが怖かったんです。
家の中のルールはただ一つ。新しいお父さんの機嫌を損ねないこと。
はしゃぐこと、大きな声で笑うこと、そして子供らしく遊ぶこと。
いつ爆発するかわからない時限爆弾が、常にちゃぶ台の真ん中に鎮座しているような緊張感が家の中にありました。
母を困らせたくなくて、私たち兄弟は息を潜めて生活していました。子供なのに静寂のプロになっていたんです。
兄がボールのように転がった日
そんなある日、ついにその時がやってきました。
新しいお父さんが癇癪を起こし、小学生だった兄を殴りつけたのです。
その衝撃で、兄は床をコロコロコロと転がり、壁にドスンと叩きつけられました。
ドラマのワンシーンのようですが、現実です。
私と姉は、あまりの光景に呆然。声すら出ません。
あ、お兄ちゃんが転がっちゃったと頭が真っ白になっていると、兄がフラフラと立ち上がりました。
その瞬間、せきを切ったように私と姉は「ギャーーーッ!」と大合唱で泣き出しました。
あれは悲しみというより、恐怖のダムが決壊した音だったんだと思います。
お母さん、決死のさよなら
もちろん、私たちはその人のことが大嫌いでした。
でも、一番辛かったのは母だったはずです。いつも怒鳴られ、怯えながらも私たちを守ろうとしてくれていた母。
ところが、ある日を境に、その暴君が家からいなくなりました。
子ども時代の私には、母がどうやって彼を追い出したのか、あるいは私たちがどうやって逃げ出したのか、その詳しい経緯はわかりません。母、最強ですね。
多分、母は裏で相当な覚悟を決めたんだと思います。
腕っぷしの強い男を相手に、女手一つで、もう結構です!と引導を渡したんですから。
あの時の母は、どんなヒーロー映画の主人公よりも格好良かった!
と、信じています。
貧乏再び、でも空気はおいしい!
そこからは、再び超・貧乏生活のスタートです。
母は朝から晩まで働き詰め。私たちは相変わらずボロ傘生活でしたが、家の中に怒鳴り声がないだけで、ご飯の味が全然違いました。
母は必死に働いて、私たちを学校に通わせてくれました。
鉛筆一本、ノート一冊を買うのも大変なはずなのに、私たちの教育だけは諦めなかった。
「うちはお米はないけど、学校だけは行かせてやるからね!」
それが母の口癖でした。
新市町の看板娘!? 定時制高校と役場での奮闘記
暴君が去り、我が家に平和が戻った後のお話です。暴君というのは、母の再婚相手のことでしたね。
英語に目覚めた中学生
中学に入ると、私はなぜか英語にのめり込みました。
貧乏生活で世界が狭かった分、海の向こうの言葉にワクワクしたのかもしれません。
この頃には、兄や姉が就職して家計を助けてくれるようになり、母の顔にもようやく少しだけ余裕が見えるようになりました。
「ノブ子、今日のおかずはお魚だよ!」
そんな小さな幸せが、何よりの贅沢でした。
就職か進学か運命の分かれ道
中学卒業が近づくと、周りの友達はほとんどが就職。私も早く働いて母さんを楽にさせなきゃと思っていました。
ところが、ここでノブ子応援団が登場します。
学校の先生や近所の方々が、ノブちゃん、あんたは勉強を続けにゃあいけん(いけないよ)!と猛プッシュしてくれたのです。
そして私は、隣町の広島県府中高等学校の定時制へ通うことに決めました。
役場の元気すぎる雑用係
昼間は働き、夜は学校。そんな二足のわらじ生活の舞台は、新市町役場でした。
当時の私の役職は小遣い(こづかい)さん。いわゆる雑用係です。
お茶汲みから掃除、書類の整理まで、役場の中をバタバタと駆け回る毎日。
でも、幼少期のサバイバルで鍛えた私のフットワークは、並大抵ではありません。
町長さんや助役さんからの評価: 「ノブちゃんが来ると、役場がパッと明るくなるのう!」
ノブ子の仕事ぶり: 頼まれる前に動く! 廊下ですれ違うたびに特大の挨拶!
(たまに元気すぎて、お茶をこぼしそうになったのは内緒です)
卒業式に届いた最高のスカウト
4年間の定時制生活も終わりに近づいた頃。
私はいつの間にか、出納係(お金を管理する部署)のベテランさんたちの下で、バリバリと仕事をこなすようになっていました。
いよいよ卒業という時、なんと役場の方々から思いがけない言葉をかけられたのです。
「ノブちゃん、卒業してもどこにも行かんで。このままここで働いてくれ!」
あの、雨の中ボロ傘1本で震えていた末っ子のノブ子が、今や町役場に欠かせない戦力として認められた瞬間でした。
肉屋の女将とエリート銀行員、そして私の新婚生活
役場での仕事も軌道に乗り、私たち3兄弟もいよいよ大人の階段を上り始めました。
時代を先取り!姉さんの肉屋開店
まずは長女の姉さん。早くに結婚したのですが、なんと旦那さんと二人で精肉店を始めたんです。
当時はちょうど、食卓にお肉が並ぶのが当たり前になってきた、いわゆるお肉の夜明け時代。
地元事情: 肉の専門店なんて町に2軒くらい。超レアな存在!
ノブ子の推し活: 私が結婚した後も、お肉を買うなら絶対に姉さんの店。「姉さん、今日は奮発して牛細切れ300グラム!」と、妹なりに売上に貢献するのが私の誇りでした。
今はもうお店も畳んで、姉さんは市営住宅でひとり静かに暮らしています。でも、遊びに来る子供たちに囲まれている姿を見ると、あの頃の威勢のいい「肉屋の女将さん」の面影がふっと重なり、胸が熱くなります。
我が家のヒーロー、備信(びしん)の兄さん
そして、あの壁まで転がされたお兄ちゃん。
なんと、地元でも超エリートコースの備後信用組合(備信さん:当時は新市信用組合という会社でした)に就職が決まったんです!
備後信用組合は、新市信用組合、神辺信用組合、千年信用組合という3つの信用組合が1972年4月に合併して設立されました。Google検索より
この小さな町で、金融機関に勤めるというのは大変な名誉。
「あの貧乏だった家から、銀行員が出るなんて!」と、近所でもちょっとしたニュースになりました。
母さんも、あの時ばかりは父さんの遺した古いタンスを前に、何度も手を合わせていましたっけ。
幸せのコロッケ
姉さんのお肉屋さんで買ったコロッケを囲み、エリートになった兄が遊びに来て、役場で働く私が笑顔で迎える。雨の中、一本のボロ傘で泣きながら歩いていたあの頃の私たちに、教えてあげたい。
大丈夫。あんたたちは、ちゃんと笑って美味しいコロッケを食べられるようになるよ!って。
親友いくちゃんと、役場が運んだ最後のお見合い
84歳になった今でも、私の心にはいつも一人の大切な女性がいます。
私の生きた日記帳いくちゃん
役場で働いていた頃、私にはいくちゃんという同い年の最高の親友ができました。
彼女は単なる同僚ではありません。私の人生という本を一緒に読んでくれる、生きた日記帳のような存在なんです。
苦しい時: 職場の悩みや、家族のこと。「ねえ、いくちゃん聞いてよ」と話し始めれば、彼女は黙って私の泥水を全部受け止めてくれました。
楽しい時: 嬉しいことがあれば、自分のことのように大笑いして喜んでくれる。
出会ってから60年以上。今でも連絡を取り合っていますが、電話をすれば一瞬で役場をバタバタ走り回っていたあの頃に戻れるから不思議です。いくちゃん、あんたがいてくれたから、私はここまで歩いてこれたんだよ。
ノブ子空前のお見合いラッシュ!
さて、仕事もバリバリこなして愛想もいい新市の看板娘(自称)を、周りが放っておくはずもありません。
「ノブちゃん、いい人がおるんじゃけど、どう?」
「ノブ子さん、ここの息子さんは真面目だよ!」
役場の助役さんや課長さんたちが、競うようにしてお見合い話を持ってきてくれました。
今思えば、上司たちにそれだけ可愛がってもらっていたんだなあと、ありがたい気持ちでいっぱいです。でも当時の私は、えー、またですか?なんて贅沢な悩みを抱えていたんです。
最後に現れた運命のひと
いくつものお見合いを、うーん、なんか違うなあとお断りしてきた私。
そんな時、最後に紹介を受けたのが今の旦那さんです。
紹介された時の第一印象? それは内緒ですが(笑)、これまでのどのお見合い話よりも、不思議とスッと心に入ってきたのを覚えています。
これまでの苦労も、ボロ傘で歩いたあの日も、役場での忙しい日々も。
すべては、この人と出会うための助走だったのかもしれません。
「いくちゃん、私、この人に決めてもいいかな?」※ノブ子の心の声
そんな報告を真っ先にしたのも、やっぱり彼女だった気がします。
五右衛門風呂と駄菓子屋そして今が一番幸せ
運命の(?)お見合いで結ばれた夫との生活。華やかなスタートとは程遠い、泥臭くも一生懸命な日々が始まりました。
技師の夫と共働きの私
夫は町で一番大きな鉄工所に勤める技師でした。
「大きな会社だから安泰ね!」なんて周りには言われましたが、現実はそう甘くありません。
夫の背中: 驚くほどの薄給でしたが(笑)、彼は一度も腐ることなく、誇りを持って仕事に打ち込んでいました。
ノブ子の踏ん張り: 私は役場勤めを続けていましたが、定時制卒ということもあり、お給料は同僚たちより控えめ。
二人で一生懸命働いても、お財布の中身はいつもギリギリ。でも、私たちは稼ぐこと以上に生きることに必死で、それがどこか楽しかった気もします。1つ1円みたいなはんだ付け内職を夜通し頑張ったこともありますね。
ワンオペ育児と瀬戸内を駆ける夫
子どもが生まれても、夫は技師として東奔西走。大阪から九州まで、瀬戸内海を股にかけて出張に出る毎日でした。
今でいう「ワンオペ育児」です。
心細くて、疲れ果てて、ついヒステリックになって夫に当たってしまうこともありました。私一人でどうしろって言うのよ!って。
でも、夫が真っ黒になって帰ってくる姿を見ると、また明日も頑張ろうと思えた。あの頃の私は、泣き虫で、でも誰よりも強かった気がします。
土間の駄菓子屋と五右衛門風呂
私たちが手に入れたのは、中古の一軒家。
お風呂は薪で沸かす五右衛門風呂、トイレはもちろん汲み取り式。
今の若い人が見たら泣くような不便な家でしたが、そこは私たちの城でした。
ノブ子のサイドビジネス:土間商店
1階の土間を使って、小さなお店を開いたんです。
私が漬けたお漬物を並べ、子供たちのために駄菓子を並べて。
役場の仕事の合間や、家事の合間に、近所の人たちと今日は寒いねぇなんて言いながら言葉を交わす。
あの土間には、いつも誰かの笑い声がありました。
お兄ちゃんの抜き打ち訪問
私が結婚して新居を構えると、お兄ちゃんは何かと理由をつけては遊びに来てくれました。
兄の訪問スタイル: 連絡なしの突撃訪問。「おいノブ子、元気にしとるか?」
兄の優しさ: 相変わらず言葉は少なめですが、新居の様子をじろじろ見ては「何か困ったことはないか」と気にかけてくれる。
かつての厳しい兄は、立派な社会人になっても、やっぱり最後まで私たちの頼れるお兄ちゃんであり続けてくれました。
※この兄も、兄の息子も今では故人になってしまいました。ご冥福をお祈り申し上げます。
84歳のノブ子がボロ傘の少女に伝えたいこと
振り返れば、私の人生はいつも何かが足りないところから始まりました。
お米がない、お父さんがいない、傘が破れている、お金がない。
でも、4歳で線路沿いをトボトボ歩いていたあの日の私に、今ならこう言ってあげられます。
「ノブ子、大丈夫だよ。あんたが歩いた線路の先にはね、一生の友達いくちゃんがいて、誇り高きお兄ちゃんと勇気あるお姉ちゃんがいて、そして不器用だけど真っ直ぐな旦那さんが待っているから」
84歳になった今、私の心はあの頃の五右衛門風呂のように温かいです。
苦労という名の薪(まき)をたくさん燃やしたからこそ、今のこの平和な湯加減がある。
私のドタバタ奮闘記にお付き合いいただき、ありがとうございました。
皆さんの明日も、美味しいコロッケと、素敵な笑い声で溢れますように!
完
