
春のパンジー苗づくりから始まった、コータローとまゆみの一年。ふたりの小さな営みが、少しずつ地域に根を張り、やがて人生をともに歩む物語へと育っていきます。昭和の家庭養鶏を思わせる素朴な暮らし、品評会でのちょっと照れくさいプロポーズ、そして串カツ屋での新婚旅行。どうぞ、ふたりの季節を一緒にめくってみてください。
松江ではありがとうのことをダンダンといいますが、最近は朝ドラ2025、ばけばけのヒロインのおかげで松江の方言も全国区になってきました。今回は、なるべく方言なしでお話を紡いでみたいと思います。
苗とまゆみと休日と
朝の空気はまだ冷たく、畑の隅に並んだパンジーの苗たちが、霜をまとって小さく震えているように見えた。コータローは軍手をはめながら、しゃがみ込んで一つひとつの苗を見て回る。
「お前は元気そうだな。あ、こっちはちょっと葉焼けしてるかもな」
苗に話しかける癖は、大学時代から変わらない。大阪の私立大学で農業経営を学んでいた頃、ある担任講師から、植物は言葉を聞いて育つと言われて以来、ずっと続けている。
軽トラのエンジン音が遠くから聞こえてきた。まゆみだ。助手席には段ボール箱が積まれていて、座席の後ろには軍手とラベルシールが見える。
「おはよう、コータロー。今日も30個?」
「うん、販売所に並べる分。昨日の雨でちょっと心配だったけど、まあまあ育ってる」
まゆみは鉄工所の事務員として働いているが、休日にはこうして苗の出荷を手伝ってくれる。大学時代、同じ島根出身ということで仲良くなり、卒業後もなんとなく付き合いが続いている。
「コータロー農園ってラベル、ちょっとダサかわいいよね」
「それ、褒めてる?」
「うん、たぶん」
二人は苗を段ボールに詰めながら、軽口を交わす。まゆみがラベルを貼り、コータローが苗の根元を新聞紙で包む。手際はいい。何度も繰り返してきた作業だ。
販売所に着くと、すでに何人かの農家が品物を並べていた。野菜、果物、手作りジャム。コータローはパンジーの苗を棚に並べる。1個100円。販売所の手数料が30円引かれるが、それでも小銭にはなる。
「お、パンジーか。うちの孫が好きなんだよ」
声をかけてきたのは、近所のベテラン農家・タケさんだった。麦わら帽子に長靴、手には大根を抱えている。
「でも100円は高いな。うちの孫にやりたいから、マゴ割とかないのか?」
「じゃあ、マゴ割で、二つが200円、どうでしょう?」
「お前、商売下手だな」
まゆみが後ろで吹き出す。コータローは苦笑いしながら、苗を手渡す。帰り道、軽トラの中でまゆみがぽつりとつぶやいた。
「コータローって、なんで農業続けてるの?」
「うーん、パンジーが咲くと、なんか報われる気がするんだよね。うまくいかないことばっかりだけど、苗が育つと、ちょっとだけ自分も育った気がする」
「そういうとこ、好きかも」
コータローは少し照れて、窓の外を見ながら言った。
「まゆみも苗みたいだな」
「は?どういう意味?」
「いや、なんか、手間かかるけど、育てがいあるっていうか」
「それ、褒めてる?」
「うん、たぶん」
軽トラはゆっくりと松江の町を走る。パンジーの苗と、ふたりの距離は、少しずつ育っているようだった。
こたつとビニールと展覧会
1月の松江は、風が冷たく空気がぴんと張りつめている。畑の土も朝には凍り霜柱がザクザクと音を立てる。そんな中コータローはビニールトンネルの中を覗き込んでいた。
「よしよし、ちゃんと芽が出てるな。お前ら、えらいぞ」
パンジーの小さな芽が透明なビニールの内側で、ひっそりと顔を出している。冬の間は外気にさらすわけにはいかない。日中は陽を浴びさせ夜は冷え込みを防ぐためにビニールを二重にかける。まるで保育器のような扱いだ。
種は近所の園芸好きの花の師匠こと佐和子さんから分けてもらったものだ。佐和子さんは元小学校の先生で、定年後に花づくりに目覚め今では町内の花壇番長として知られている。
「パンジーはね、寒さに当てると花つきがよくなるの。でも発芽のときだけは、ぬくぬくさせてあげなきゃダメよ」
その教えを守ってコータローは苗の一部を自宅に持ち帰り、こたつの中で発芽させていた。こたつ布団の端をめくると、そこには小さな育苗トレイが並んでいる。同じように、まゆみの家でもパンジーの芽がこたつの中でぬくぬくと育っていた。鉄工所の事務仕事の合間に、まゆみは昼休みには自宅に急いで帰って、こたつの中を覗き込んで、苗に話しかけていた。
「がんばれ、がんばれ。あんたたち、品評会に出るんだからね」
2月には、産直販売所の恒例イベント冬のほっこり市が開催される。出品者30軒がそれぞれの得意分野で腕を競い合う。野菜の漬物部門・手作りジャム部門・そして花の苗部門。農閑期のこの時期、地域を盛り上げるための一大イベントだ。コータローは今年初めて花の苗部門に出品することにした。というのも冬にパンジーを出す人は少なく、出せば目立つ。しかもうまくいけば高得点も狙える。
「200鉢の中から、10鉢だけ選ぶって、けっこうプレッシャーだな」
コータローは、こたつの中の苗を見ながらつぶやいた。
じゃあ、私が審査員やってあげようか?と、まゆみが言う。
「え、まゆみ基準で選ぶの?」
「うん。かわいい度とがんばってる感で採点する」
「それ、主観でしかないじゃん」
とはいえ、まゆみの目は確かだった。彼女は苗の葉の色や茎の太さ、根の張り具合を見て的確にコメントする。
「この子はちょっと徒長してるね。日光が足りなかったんじゃない?」
「さすが、こたつ農法のプロ」
イベント当日までに、10鉢を選び残りの190鉢は初物パンジーとして販売所に並べる予定だ。コータローは手書きのポップを用意した。
冬を越えた、がんばり屋さんのパンジーです。春までずっと咲きます
まゆみがそれを見て、にやりと笑った。
「がんばり屋さんって苗のこと?それとも自分のこと?」
「両方だよ」
ふたりのこたつの中では、今日もパンジーが静かに芽を伸ばしている。春はもうすぐそこだ。
雪と指輪とすれ違い
2月の松江にようやく雪が降った。暖冬だと騒がれていたが、やはり降るべきものは降る。朝、畑に出たコータローはビニールトンネルの上に積もった雪を見て思わずため息をついた。
「うわ。これ全部どけるのか」
パンジーの苗は雪の重みで押しつぶされないよう毎朝トンネルの雪を払う必要がある。外作業は億劫だ。指先はかじかみ鼻の頭が赤くなる。それでもコータローの心にはある種の高揚感があった。品評会が終わったら、まゆみにプロポーズするつもりだった。3月になる前に。春が来る前に。
「指輪くらいは、ちゃんと選ばないとな」
そう思い立ったコータローは午後から市内のデパートや宝石店を回ることにした。農閑期とはいえ苗の世話はある。時間を見つけての買い物はちょっとした冒険だ。1軒目の店では店員にご婚約ですか?と聞かれて照れ笑いしか返せなかった。2軒目ではパンジーの花をモチーフにした指輪を見つけてしばらく見入っていた。そのときだった。
「コータロー?」
振り返るとまゆみが立っていた。コートの襟を立て、手には小さな紙袋。昼休みに会社を抜け出して買い物に来ていたらしい。
「えっ、まゆみ?なんでここに?」
「ここお店のセール、気になってて、ってコータローこそ、なんで宝石店?」
コータローは一瞬、言葉に詰まった。まゆみも目を丸くしている。
「いや、その、農具の、いや違うな、ん?」
「農具は売ってないと思うけど」
ふたりは顔を見合わせて同時に笑った。まるで、何かを隠していることをお互いに察しているようで、でも口には出さない。
「まゆみこそ何買ったの?」
「え? あ、これは。母の誕生日プレゼント。たぶん」
「たぶん?」
「いや、ほんとは自分用かも。でも、母にあげるかも。どっちでもいいかも」
言葉がふわふわしている。まるで、雪のように。その後、ふたりは店を出て、駅前のカフェでココアを飲んだ。話題は、品評会のこと、苗のこと、近所のタケさんがまたマゴ割を要求してきたこと。プロポーズの話は、出なかった。指輪の話も、出なかった。でも、コータローは思った。
「やっぱり、まゆみに渡すなら、ちゃんと選ばなきゃな」
まゆみも、心の中でつぶやいた。
「品評会が終わったら、言おう。ちゃんと言おう」
雪は、静かに降り続いていた。ふたりの距離は変わらないようでも、少しずつ春に向かっていた。
入選とココアと気づき
2月の終わり、風のない穏やかな日。産直販売所の恒例イベント冬のほっこり市は、今年もにぎわいを見せていた。来場者は例年の倍近く。駐車場は満車。キッチンカーには長蛇の列。会場の空気はどこか春の気配を含んでいた。
コータローのパンジー苗は花の苗部門で入選した。といっても、この時期に花を育てていたのはコータロー農園だけだった。競争というより努力賞に近い。それでも、コータローは素直に嬉しかった。全部で5部門しかない中で自分の苗が表彰されたのだ。何より来場者がこぞってパンジーを買ってくれた。
午前中からじわじわと売れ始め、昼過ぎには、この苗どこで育てたんですか?と聞かれるようになり、午後3時にはすべて完売した。
「すごいね、コータロー。全部売れたじゃん」
「うん。なんか報われた気がする」
まゆみとふたり、キッチンカーでココアを買って会場をぶらぶら歩いた。紙カップから立ちのぼる湯気が、ふたりの間にふわりと漂う。野菜、木の実、ナッツ類、果物、ジャム、漬物。どれもいつもの数倍の量が売れていた。残すところあと1時間というのに、棚にはほとんど何も残っていない。
「ねえ、コータロー」
「ん?」
「あたし、コータローのこと、みなおしたわ」
コータローは、少し驚いた顔をして、すぐに笑った。
「そうでしょう、そうでしょう。努力は報われるんですよ」
まゆみは、ココアをひとくち飲んでから、ふとコータローのリュックサックを見た。
「ねえ、そのリュック。あの宝石店で、何か買ったでしょう?」
コータローは、ココアを飲む手を止めた。
「え? なんで?」
「この前、昼休みに偶然会ったとき、あの店で何か見てたでしょ。あたし、気づいてたよ」
コータローは、少し照れたように笑った。
「まあ、ちょっとね。春が来る前に、渡したいものがあるんだ」
まゆみは何も言わずに、ココアをもうひとくち飲んだ。その沈黙は心地よいものだった。
イベント会場の空は少しずつ夕焼けに染まり始めていた。パンジーの苗はすべて旅立ち、ふたりの気持ちも少しずつ春に向かっていた。
マイクと指輪と、よろしくおねがいします
3月になる少し前、コータローとまゆみは週末ごとに結婚式場を見て回るようになった。といっても、ふたりとも派手な式にはあまり興味がない。
「親戚が集まれるくらいの、こぢんまりしたとこがいいよね」
「うん、あと料理がおいしいとこ」
そんな会話をしながら、パンフレットをめくる時間が、なんだか楽しかった。指輪もあの宝石店で注文していた。まゆみの薬指に合わせて8号のサイズに直してもらい、コータローの分も一緒に注文した。
「結婚式を開くかどうかまだわからないけどさ」
「でも入籍は4月3日にしよう、あたしの誕生日だし」
「うん、忘れにくいしね」
「そこ?」
そんなふうに、ふたりの未来は、少しずつ形になっていった。そして、あの品評会の日。午後4時20分すぎ、閉会式の終わり間際。花の苗部門で入選したコータローが壇上に呼ばれた。
「それでは、入賞者のコータロー農園さん、ひとことお願いします」
マイクを渡されたコータローは、少しだけ間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「パンジーの苗は、まゆみさんとの二人三脚で育てました。これからも一生、同じ人生を歩んでいきたいです。よろしくおねがいします」
会場がざわめいた。まゆみは客席で固まっていた。コータローはマイクを置くと、まっすぐまゆみの方を向いてふかぶかとお辞儀をした。
仕方ない。
まゆみは、立ち上がり、舞台に上がった。そしてマイクを奪い取るようにして言った。
「ふつつかものですが、こちらこそ、よろしくおねがいします」
拍手が起きた。笑い声も混じっていた。でも、ふたりの間には静かであたたかな春の風が吹いていた。
にわとりと串カツと新婚旅行
春が過ぎ夏が近づくころ。コータローとまゆみの暮らしは少しずつ、ふたりの家らしくなっていた。まゆみは、かねてから鶏を飼ってみたいと思っていた。養鶏の経験はなかったが近所のベテラン農家やネットの掲示板で情報を集めながら昭和初期の家庭養鶏のような暮らしをイメージしていた。
「鶏って、けっこう性格あるんだね」
「うん、オスの一羽がちょっとヤンチャでさ。朝からケンカしてた」
飼い始めたのは8羽。うち3羽はオス。5メートル四方の囲いを草むらに設置して、毎日少しずつ場所をずらしていた。鶏たちは土をほじくり返しながら餌を探す。おかげで夏の間は草刈りをしなくても済んだ。
近所の自動精米機で米ぬかをもらってきて餌に混ぜる。卵は生みたてを消毒液で洗い会社の同僚や取引先、ご近所に配った。
「コータロー農園の卵、黄身が濃いね」
「鶏が雑草ばっかり食べてるからかな」
そんな声が少しずつ広がりコータロー農園は隣近所でちょっとした評判になった。
貯金はあまりなかった。だから無理して結婚式は挙げず、市内のホテルで家族を招いての食事会で済ませた。それでも、まゆみの誕生日である4月3日に入籍をしたとき、ふたりはこれで十分だねと、笑い合った。
にわとりがいるので夏休みも旅行には行けない。
そう思っていた。
ところが大学時代のクラスメイト夫婦が夏休みに手伝いに来てくれることになった。彼らも4月に結婚したばかりで、新婚同士助け合いましょう、と言ってくれた。
鶏の世話をお願いして、コータローとまゆみは入れ替わるように母校の近くへ。懐かしい串カツ屋でソース二度づけ禁止のルールを守りながら、笑い合っていた。
「この味、変わってないね」
「うん、でもコータローはちょっと変わったかも」
「え、どこが?」
「鶏の世話してるとこ」
ふたりは、串カツをほおばりながら、静かに新婚旅行を楽しんだ。パンジーも鶏も卵も、そして串カツも、すべてがふたりの暮らしの一部になっていた。










