角屋
角屋

今治市の城下町風情が残る一角に、代々続く蕎麦屋:角屋(かどや)はある。「はい、お待たせしました! ざる蕎麦二つと、焼豚玉子飯(やきぶたたまごめし)一丁です!」お昼時の店内に、弥生(22)のきびきびとした声が響く。ここでホール係として働き始めて早4年。今ではすっかりお店の顔だ。パートの年上のおばちゃんたちからも、「弥生ちゃん、あっちの片付けお願い!」「弥生ちゃん、次のお客さん案内して!」と全幅の信頼を寄せられている。

「角屋」の看板娘と、ちいさな常連さんたち

平日は地元の常連さんが「いつもの」といいながら、暖簾をくぐるのどかな食堂だ。週末や祝日ともなれば一変する。しまなみ海道を渡ってきた観光客で、店内は戦場のようなごった返しぶりだ。

ある日曜日のこと。店内がピークを迎えた頃、観光客の家族連れがやってきた。お父さんとお母さんは、旅の疲れと慣れない混雑で少しピリピリした様子。その腕には、生後数ヶ月ほどの赤ちゃんが抱かれていた。

注文を取り終えた弥生は、ふと笑顔でしゃがみ込んだ。

「あのお母さん、もしよかったら。私が注文をお持ちするまで、赤ちゃんを抱っこしていてもいいですか?」

「えっ? ああ、助かります!」

お母さんがホッとした表情で赤ちゃんを差し出す。弥生が慣れた手つきで優しく受け止めると、赤ちゃんは泣き出すどころか、弥生の顔をじっと見つめた。

「ふふ、可愛い。はじめまして、こんにちは」

弥生が人差し指で赤ちゃんのほっぺたをツンツンとつつく。赤ちゃんは嫌がるどころか、キャッキャと声を上げて喜び、まんざらでもない様子だ。その微笑ましい光景に、周囲のピリピリした空気も一瞬で和んでいった。

子どもが大好きな弥生は、お店の外でもついつい小さな子どもたちに目を奪われてしまう。それはある平日の夕方、弥生が買い出しのために通学路を歩いていた時のこと。前を歩く小学生の姉妹がいた。小学3年生くらいのお姉ちゃんが、後ろをとぼとぼ歩く妹を振り返って痺れを切らしている。

「ねぇ、早くしてよ!」

そう言いながら、お姉ちゃんは両方の膝を交互にピクピク、ピクピクと激しく動かした。

(あーーこれ、いわゆる地団駄を踏む、っていうやつか!)

本人は大真面目に怒っているのだろうが、その健気で必死な動きが可愛すぎて、弥生は後ろで思わず吹き出しそうになりながら、温かい目で見守ってしまった。近頃は「子どもをどう扱っていいか分からない」という同世代の女性も増えていると聞く。けれど、弥生にとって子どもは理屈抜きで愛おしい存在だった。

角屋の厨房の奥から、そんな弥生の様子をじっと見守っている視線があった。この道数十年の料理長である。出汁の湯気の向こうで、赤ちゃんをあやす弥生や、近所の子どもたちに優しく声をかける弥生の背中を見ながら、料理長はポツリと呟いた。

「弥生さん、きっと良いお嫁さんになるだろうなぁ」

その言葉に、隣で天ぷらを揚げていたおばちゃんが「本当ねぇ」と深く頷く。

「でもね料理長、弥生ちゃんがどこかにお嫁に行っちゃったら、うちの店は大パニックよ? だから、婿養子を取ってもらう方向で考えましょう!」

「ガハハ、そりゃそうだ! 角屋の未来は安泰だな!」

厨房の勝手な妄想と笑い声を知ってか知らずか、弥生は今日も「いらっしゃいませ!」と、満面の笑顔でお客さんを迎えているのだった。

「チャーシュー玉子飯」とは、愛媛県今治市のB級グルメ「焼豚玉子飯(やきぶたたまごめし)」のことです。ご飯に甘辛いタレとチャーシュー、半熟の目玉焼きを乗せた、ボリューム満点でやみつきになる丼です。Google検索より

弥生のルーツ

厨房での料理長たちの心配をよそに、当の弥生がここまで子ども好きに育ったのには、ちゃんとした理由があった。

実は弥生には、年の離れた姉が2人いる。2人ともすでに結婚して家庭を持っており、それぞれ可愛い子ども——弥生にとっては甥っ子や姪っ子——がいた。
弥生にとって、姉たちの家へ遊びに行って赤ちゃんの様子を見に行く時間は、何よりの楽しみだったのだ。

幼い頃から、2人の姉たちにこれでもかと可愛がられて育った弥生。その溢れるほどの愛情を受けて育ったせいか、彼女自身も小学生の頃にはすっかり「ちいさな命を愛でる英才教育」を完了していた。
当時から、道端でベビーカーに乗った赤ちゃんを見かければ、見知らぬ人であっても「可愛いですねぇ」と満面の笑みで声をかけるような、筋金入りの子ども好きだったのである。

高校を卒業した弥生は、大好きな地元・今治に残ることを決め、歴史ある角屋に就職した。

「若い女の子が古い蕎麦屋で働くなんて、出会いのチャンスも少ないだろうに……」

最初は周囲からそんな風に心配されたものだったが、フタを開けてみれば全くの杞憂だった。何を隠そう、お店の常連たちの間には、すでに隠れ弥生ファンが大量に存在していたのだ。ある日の昼下がり。地元の常連であるおじさまたちのテーブルから声がかかる。

「お姉さん、ちょっといい?」
「はい! なんでしょう?」

弥生がメモ帳を片手に笑顔で駆け寄ると、既婚者であるはずのおじさまが、少し照れくさそうに頭をかいた。

「いやぁ、いつも元気で気持ちがいい接客だからさ。差し支えなければ、名前なんていうの?」
「あ、弥生と申します!」
「弥生ちゃんか! いい名前だ。じゃあ、次からは弥生ちゃんを指名させてもらうよ」

そんなやり取りがあちこちで日常茶飯事に行われている。今や、お昼時の忙しい時間帯でも、
「やよいさん、こっち追加ね!」「やよいさん、お会計お願い!」と、あちこちのテーブルから名指しで声がかかる状態だ。まるで蕎麦屋の中に、弥生だけの小さなファンクラブができているかのようだった。

「おいおい、また弥生さんが捕まってるぞ」

厨房の隙間からホールを覗き見ながら、料理長がニヤニヤと天ぷらを揚げている。

「本当ねぇ。既婚者のおじちゃんたちまでメロメロなんだから。でも、これだけファンがいれば、変な男が近寄ってきたら常連さんたちが一斉にガードしてくれそうね」

パートのおばちゃんが笑いながら言うと、料理長も、確かに!と声を上げて笑った。当の本人は、ファンからの熱視線などどこ吹く風。「はーい、ただいま伺います!」と、今日も今治の美味しいお蕎麦と一緒に、とびきりの元気を振りまいている。出会いの心配どころか、角屋の看板娘は、今日も街のみんなに愛されまくっているのであった。

看板娘の笑顔

それは、ある大型連休の日曜日のこと。時計の針が昼前の11時46分を指した頃、店内の混雑はすでに始まっていた。ガラガラと暖簾(のれん)をくぐって、一人の男性客が入ってくる。忙しく動き回りながらもアンテナを張っている弥生は、男性が席を見回して困った顔をしたのを見逃さなかった。

「いらっしゃいませ! どうぞ!」

すかさず声をかけた弥生に、男性はすまなそうに言った。

「あのお、8人なんですが、席ありますか?」
(8人!)

弥生は瞬時に頭の中で店内の座席マップを展開する。空いている席はあるにはあるが、あちこちに飛び飛びで、このままではバラバラの相席になってしまう。せっかくの連休、グループで来られたのなら一緒に座って楽しんでほしい。

そのとき、奥のトイレから1人の女性客が出てくるのが見えた。その女性が座っていたのは、ちょうど8人がゆったり座れる大きめの小上がり席。弥生は、よし、と小さく気合を入れその女性客のもとへ歩み寄った。

「お客様、大変恐れ入ります。もしよろしければ、あちらの落ち着いたお席に移っていただけないでしょうか?」

弥生の丁寧で温かみのあるお願いに、女性客も、いいですよと快く笑顔で応じてくれた。弥生は手際よく、女性が頼んでいた飲みかけの瓶ビールとおつまみをお盆に載せ、新しい席へとスマートに移動させる。

「ありがとうございます! 助かります!」

女性客にお礼を伝えた弥生は、すぐさま8人分のスペースを整え、待たせていた男性客を案内した。

「お待たせいたしました、どうぞこちらへ!」

しかし、男性が席についたものの、他の連れが一向に現れない。

(本当にあと7人、ちゃんと来るのかな?)

この仕事をしていると、こういう瞬間はいつも少し心配になる。予約ではないし、外で行列を作っている他のお客さんの手前、空席のまま長く待たせるわけにはいかないからだ。けれど、そんな心配はすぐに吹き飛んだ。数分もしないうちに、残りの7人がぞろぞろと賑やかに入ってきたのだ。聞けば、みんなで駐車場を探していたらしい。専用駐車場は2台分しかなく、連休ともなればすぐに満車になってしまう。きっとすぐ隣のコインパーキングに車を停めてきたのだろう。

「お待たせしました! ご注文はお決まりですか?」

水を持っていくと、彼らの会話から瀬戸内海を渡ったお隣、広島県からやってきた観光客だと分かった。構成は、お年を召された仲睦まじいご夫婦と、その息子さんか娘さん夫婦、そして元気な孫たちといった三世代の家族連れだ。

「さっきは急にお席を作ってくださって、本当にありがとうございました」

おじいちゃんが嬉しそうに弥生に声をかける。忙しい時間帯にもかかわらず、嫌な顔ひとつせず臨機応変に席を用意してくれた弥生の心意気に、家族みんなで大感激している様子だった。その感謝の気持ちからか、料理が運ばれてくると、彼らは「外でお客さんも待ってるからね」と、実に気持ちよく早めに平らげてくれた。

この広島からのご家族の素早い協力のおかげで、弥生は次のファインプレーに繋げることができた。ちょうど食べ終わって席を立つご家族と入れ替わりで、ドアの内側で待っていた地元の昼休み中の作業員たち5人組を、ほとんど待たせることなく席へ案内できたのだ。

「おっ、やよいちゃんタイミングいいね! 助かるよ!」

と、作業員のお兄さんたち。満席の店内で、パズルのピースをハメるように完璧にお客さんを循環させるこの仕事。テトリス?普通なら頭がパンクしそうで骨が折れる大仕事だが、4年のキャリアと抜群のセンスを持つ弥生にとっては、これくらい、ちょちょいのちょいの朝飯前だ。

「お気をつけて、良い旅を!」

広島からのご家族を笑顔で見送る弥生の背中を、厨房から料理長が「やっぱり大したもんだ」と感心しきりで見つめていた。角屋の頼れる看板娘の活躍で、連休の忙しい1日は、今日もたくさんの「ありがとう」で満たされていく。

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