海の匂いがする坂の町を、悠斗はランドセルを揺らしながら歩いていた。小学三年生の彼は、今日も胸の中に話したいことをいっぱい詰め込んで帰ってくる。玄関の扉を開けると、家の中に夕飯の匂いが広がっていた。
聞いてくれない
「ただいま」
靴を脱ぎながら、悠斗はリビングの父に向かって声をかけた。父の大輔はソファに座り、スマホの画面を指で滑らせている。
「お父さん、今日ね、学校でさ」
「へえぇ」
大輔は画面から目を離さない。
「まだ何も言ってないよ」
「そう?」
悠斗は口を閉じた。胸の中にあった言葉が、しゅるしゅるとしぼんでいく。キッチンでは母の美咲が夕飯の準備をしていた。鍋の蓋を開けながら、振り返りもせずに言う。
「今日どうだったの」
「今日ね、あのね」
「で、結局、何が言いたいの」
「まだ言ってないよ」
「じゃあ、要点だけ言って」
要点と言われても、何が要点なのか自分でもわからない。話したいことは、順番も形も決まっていない。ただ、聞いてほしいだけなのに。夕飯の時間になっても、家の空気は変わらなかった。大輔はスマホを横に置いているが、画面はしっかり見ている。美咲は手際よく皿を並べながら、悠斗に言う。
「今日どうだったの」
「別に」
「また別に、って言って。ちゃんと話しなさい」
「いいよ、もう」
大輔が相槌を打つ。
「そうなんだ」
悠斗は箸を置いた。
「だから何も言ってないってば」
胸の奥が重くなる。どうせ最後まで聞いてくれない。途中で止められる。話しても意味がない。その夜、布団に潜りながら思った。
(僕の話って、つまらないのかな)
翌朝。玄関のチャイムが鳴り、大輔の母・澄江が立っていた。
「ちょっと様子、見に来たよ」
美咲が驚いた顔をする。
「お義母さん、どうしたんですか」
「昨日、悠斗の声が元気なかったからね」
大輔は目を丸くした。
「え、そうだったのか」
美咲も首をかしげる。
「全然気づかなかった」
澄江は二人をじっと見つめた。
「あんたたち、悠斗の話、ちゃんと聞いてるのかい」
大輔は胸を張る。
「聞いてるよ。へえって返してるし」
美咲も負けじと言う。
「私は要点を聞いてるし」
澄江はため息をついた。
「それは聞いてるつもりって言うんだよ」
二人は言葉を失った。澄江は続ける。
「悠斗はね、話したいんじゃないの。聞いてほしいだけなんだよ」
その言葉は、二人の胸に静かに落ちた。
「今日の夜、ちょっとやってみなさい。スマホ置いて、手を止めて、それでどうなったのって聞くだけでいいから」
二人はうなずいた。
夕飯の時間。大輔はスマホを裏返してテーブルに置いた。美咲は手を止め、悠斗の方を向いた。
「今日どうだったの」
「別に」
大輔が静かに言う。「そっか。別にの中に、何があった」
悠斗は驚いたように顔を上げた。
「え」
美咲が優しく言う。
「ゆっくりでいいよ。最後まで聞くから」
二人の目が、まっすぐ自分に向いている。その視線に押されるように、悠斗は小さく口を開いた。
「あのね、今日ね」
その瞬間、二人は黙って聞いていた。
(あ、聞いてくれてる)
胸の奥が、ほんの少し温かくなった。その夜、家族の空気がほんの少しだけ変わった。
聞く練習
翌朝の食卓。大輔は妙にキリッとした顔で座っていた。「今日から聞く男になる」
美咲は呆れたように眉を上げた。「どうしたの、その顔」
「昨日、ばあちゃんに言われたんだ。聞いてるつもりじゃダメだって。だから今日から、俺は聞くプロになる」
悠斗は心の中でつぶやいた。
(お父さん、絶対なんかズレてる)
その予感はすぐに的中した。学校から帰った悠斗が話し始めようとすると、大輔は勢いよくうなずき始めた。「うん、うん。うんうん。うんうんうんうん。うんうん!」
「まだ何も言ってないよ」
「聞く姿勢を見せようと思って」
「多すぎるよその、うん、が」
美咲がため息をつく。「お父さん、落ち着いて」
大輔は真剣な顔で言った。「聞くってこういうことじゃないのか」
「違うよ」
その日の午後、大輔は職場でも同じ調子だった。同僚が話しかけると、例のうなずきが始まる。「うん、うん。うんうん。うん?うん、うん。うんうん。うん!」
「怖いんだけど」
上司にまで注意され、大輔は肩を落とした。
夕方。玄関のチャイムが鳴り、澄江が竹の棒を持って立っていた。「今日から聞く道場を開くよ」
大輔は目を丸くした。「お母さん、その棒、なに?」
「聞くには心と体の両方が必要なんだよ」
澄江は大輔の前に立ち、竹の棒で床をトンと叩いた。「あんたは、うんうんが多すぎる。昨日なんて、悠斗が三秒話す間に八回言ってたよ」
「そんなに」
「だから今日は、うん禁止!」
「うーん」
「うんって言ったね」
「うわ」
美咲にも指導が入る。
「あんたは要するに病だね。話を短くしようとしすぎる。子どもの話は寄り道が大事なんだよ」
美咲は顔を赤くした。
「クセが出ちゃうんです」
「今日は要するに禁止」
澄江の指導は厳しいが、どこか温かかった。
その日の悠斗は体育のリレーでバトンを落とし、落ち込んで帰ってきた。玄関を開けると、大輔がスマホを置いて立ち上がった。
「おかえり」
美咲も手を止めて顔を上げた。
「今日はどうだったの」
「別に」
二人は急かさず、ただ待っていた。夕飯のあと、澄江が隣に座った。
「今日、なんかあったね」
「え」
「顔に書いてあるよ。ちょっとだけ話したいことがあるって」
その沈黙が、なぜか心地よかった。しばらくして、悠斗は小さな声で言った。
「今日ね、体育でバトン落としちゃって。僕のせいで負けたみたいで、胸がぎゅっとした」
澄江はただ静かに聞いていた。
「そっか。それは悔しかったね」
悠斗は涙をこぼした。
「ばあちゃん、聞いてくれてありがとう」
「話してくれてありがとうだよ」
その夜、家族の空気はまた少し温かくなった。悠斗が寝たあと、リビングで大輔と美咲は向かい合って座っていた。美咲が静かに言った。
「私たち夫婦の会話って、ずっとできてなかったよね」
大輔は驚いた。美咲は続けた。
「私ね、大輔に話しても、途中で要するにって言われるのが怖くて、だんだん話さなくなってたの。私の話ってつまらないのかなって思ってた」
大輔は胸が痛くなった。
「俺もさ。美咲がいつもテキパキしてるから、話すとすぐ要点だけ言ってって言われる気がして、話すのが苦手になってた」
二人は初めて、相手の本音に触れた。廊下から澄江が顔を出した。
「夫婦ってのはね、話すことより聞くことの方が大事なんだよ。相手の話を最後まで聞くって、それだけで大事にしてるって伝わるんだよ」
その言葉は、二人の胸に深く染みた。
美咲は深呼吸して言った。
「今日、仕事どうだったの」
大輔は驚いた。「聞いてくれるのか」
「うん。まとめないし、急かさない。最後まで聞くよ」
大輔はゆっくり話し始めた。後輩のミスをフォローしたこと。どう声をかけていいかわからなかったこと。胸の奥にあった不安。美咲は黙って聞いていた。話し終えると、美咲は言った。
「大変だったね。でも、大輔がフォローしてくれて、その後輩、きっと救われたと思うよ」
大輔の胸が温かくなった。寝室に向かう廊下で、美咲が言った。
「今日、話してくれてありがとう」
「聞いてくれてありがとう」
二人は、ほんの少しだけ距離を縮めて歩き出した。廊下の影で澄江が微笑んでいた。
(夫婦ってのはね、聞くだけで、こんなに変わるんだよ。)
夜のリビングは、静かだった。悠斗が寝たあと、家の中には大人だけの空気が流れる。美咲はソファに座り、膝の上で指を組んだまま動かない。大輔はキッチンの片付けを終え、そっと隣に腰を下ろした。
聞く練習
「今日、仕事どうだったの」
美咲がそう言ったとき、大輔は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。その表情に、美咲は胸が少しだけ温かくなる。
「聞いてくれるのか」
「うん。まとめないし、急かさない。最後まで聞くよ」
大輔は深呼吸をして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「今日さ、後輩がミスして、俺がフォローしたんだ。
その後輩が泣きそうになってて、どう声をかけていいかわからなかった」
美咲は黙って聞いていた。うなずきは一度だけ。目線はまっすぐ。口は閉じたまま。澄江に教わった「聞く姿勢」を、丁寧に守っていた。話し終えると、美咲は静かに言った。
「大変だったね。でも、大輔がフォローしてくれて、その後輩、きっと救われたと思うよ」
その言葉は、大輔の胸の奥にそっと落ちた。自分の弱さを見せてもいいのだと、初めて思えた。
翌日。夕飯のあと、美咲は少し疲れた顔でソファに座った。
「なんか、疲れたな」
大輔は皿を洗いながら声をかける。
「仕事、大変だったのか」
「うん、まあね」
「そっか。頑張ってるよ」
その瞬間、美咲の胸がざわついた。頑張ってるよ。その言葉は優しいはずなのに、なぜか苦しくなる。
(まただ。この言葉を聞くと、もっと頑張らなきゃって思ってしまう)
大輔は大輔で、美咲の表情に戸惑っていた。
(また間違えたのか。どう言えばよかったんだろう)
二人の間に、また静かな距離が生まれた。
見抜く力
翌朝。澄江がふらりと家に現れた。
「なんか、空気がしょんぼりしてるねぇ」
美咲は驚いた。
「そんなにですか」
「夫婦のすれ違いってのはね、終わりのサインじゃないよ。本音が隠れてるよっていう合図なんだよ」
澄江は美咲の顔をじっと見つめた。
「美咲、あんた、本当はもっと聞いてほしいんだろう」
美咲は胸がぎゅっとなった。図星だった。
夜。悠斗が寝たあと、美咲は勇気を出して言った。
「大輔。私ね、頑張ってるねって言われるの、苦手なの」
大輔は驚いた。
「そうだったのか」
「その言葉を聞くとね、もっと頑張らなきゃって思っちゃうの。本当は、ただ聞いてほしいだけなのに」
大輔は胸が痛くなった。美咲は続けた。
「それに、話しても迷惑かなって思う日もあるの。弱いところを見せたら嫌われるんじゃないかって、怖いんだよ」
その言葉は、美咲がずっと胸の奥にしまっていた本音だった。大輔はそっと美咲の手を握った。
「美咲。弱いところを見せてくれて、ありがとう」
美咲の目に涙がにじんだ。
距離が縮まる
大輔は深呼吸して言った。
「俺も、本音を言っていいか」
美咲はうなずいた。
「俺も弱いよ。美咲にしっかりしてるねって言われるのが嬉しくて、弱いところを見せられなかった。情けないって思われたくなかった」
美咲の目から涙がこぼれた。
「そんなふうに思ってたんだね」
「うん。でも、今日わかったよ。美咲の弱さも、俺の弱さも、どっちも大事なんだって」
美咲はそっと大輔の手を握り返した。
「ありがとう。今日、話せてよかった」
その瞬間、二人の距離がふっと近づいた。それは大きな出来事ではなく、派手な言葉でもなく、ただ弱さを渡し合えたという、静かで確かな瞬間だった。
寝室に向かう廊下で、美咲が言った。
「今日、話してくれてありがとう」
大輔は照れながら言った。
「聞いてくれてありがとう」
二人は、ほんの少しだけ距離を縮めて歩き出した。廊下の影で澄江が微笑んでいた。
(夫婦ってのはね、すれ違うたびに、少しずつ仲良くなるんだよ)
AIラジオ「この記事の解説」


コメント