聞いてるつもり①

聞いてるつもり① 全記事
聞いてるつもり①

海の匂いがする坂の町を、悠斗はランドセルを揺らしながら歩いていた。小学三年生の彼は、今日も胸の中に話したいことをいっぱい詰め込んで帰ってくる。玄関の扉を開けると、家の中に夕飯の匂いが広がっていた。

聞いてくれない

「ただいま」

靴を脱ぎながら、悠斗はリビングの父に向かって声をかけた。父の大輔はソファに座り、スマホの画面を指で滑らせている。

「お父さん、今日ね、学校でさ」

「へえぇ」

大輔は画面から目を離さない。

「まだ何も言ってないよ」

「そう?」

悠斗は口を閉じた。胸の中にあった言葉が、しゅるしゅるとしぼんでいく。キッチンでは母の美咲が夕飯の準備をしていた。鍋の蓋を開けながら、振り返りもせずに言う。

「今日どうだったの」

「今日ね、あのね」

「で、結局、何が言いたいの」

「まだ言ってないよ」

「じゃあ、要点だけ言って」

要点と言われても、何が要点なのか自分でもわからない。話したいことは、順番も形も決まっていない。ただ、聞いてほしいだけなのに。夕飯の時間になっても、家の空気は変わらなかった。大輔はスマホを横に置いているが、画面はしっかり見ている。美咲は手際よく皿を並べながら、悠斗に言う。

「今日どうだったの」

「別に」

「また別に、って言って。ちゃんと話しなさい」

「いいよ、もう」

大輔が相槌を打つ。

「そうなんだ」

悠斗は箸を置いた。

「だから何も言ってないってば」

胸の奥が重くなる。どうせ最後まで聞いてくれない。途中で止められる。話しても意味がない。その夜、布団に潜りながら思った。

(僕の話って、つまらないのかな)

翌朝。玄関のチャイムが鳴り、大輔の母・澄江が立っていた。

「ちょっと様子、見に来たよ」

美咲が驚いた顔をする。

「お義母さん、どうしたんですか」

「昨日、悠斗の声が元気なかったからね」

大輔は目を丸くした。

「え、そうだったのか」

美咲も首をかしげる。

「全然気づかなかった」

澄江は二人をじっと見つめた。

「あんたたち、悠斗の話、ちゃんと聞いてるのかい」

大輔は胸を張る。

「聞いてるよ。へえって返してるし」

美咲も負けじと言う。

「私は要点を聞いてるし」

澄江はため息をついた。

「それは聞いてるつもりって言うんだよ」

二人は言葉を失った。澄江は続ける。

「悠斗はね、話したいんじゃないの。聞いてほしいだけなんだよ」

その言葉は、二人の胸に静かに落ちた。

「今日の夜、ちょっとやってみなさい。スマホ置いて、手を止めて、それでどうなったのって聞くだけでいいから」

二人はうなずいた。

夕飯の時間。大輔はスマホを裏返してテーブルに置いた。美咲は手を止め、悠斗の方を向いた。

「今日どうだったの」

「別に」

大輔が静かに言う。「そっか。別にの中に、何があった」

悠斗は驚いたように顔を上げた。

「え」

美咲が優しく言う。

「ゆっくりでいいよ。最後まで聞くから」

二人の目が、まっすぐ自分に向いている。その視線に押されるように、悠斗は小さく口を開いた。

「あのね、今日ね」

その瞬間、二人は黙って聞いていた。

(あ、聞いてくれてる)

胸の奥が、ほんの少し温かくなった。その夜、家族の空気がほんの少しだけ変わった。

聞く練習

翌朝の食卓。大輔は妙にキリッとした顔で座っていた。「今日から聞く男になる」

美咲は呆れたように眉を上げた。「どうしたの、その顔」

「昨日、ばあちゃんに言われたんだ。聞いてるつもりじゃダメだって。だから今日から、俺は聞くプロになる」

悠斗は心の中でつぶやいた。

(お父さん、絶対なんかズレてる)

その予感はすぐに的中した。学校から帰った悠斗が話し始めようとすると、大輔は勢いよくうなずき始めた。「うん、うん。うんうん。うんうんうんうん。うんうん!」

「まだ何も言ってないよ」

「聞く姿勢を見せようと思って」

「多すぎるよその、うん、が」

美咲がため息をつく。「お父さん、落ち着いて」

大輔は真剣な顔で言った。「聞くってこういうことじゃないのか」

「違うよ」

その日の午後、大輔は職場でも同じ調子だった。同僚が話しかけると、例のうなずきが始まる。「うん、うん。うんうん。うん?うん、うん。うんうん。うん!」

「怖いんだけど」

上司にまで注意され、大輔は肩を落とした。

夕方。玄関のチャイムが鳴り、澄江が竹の棒を持って立っていた。「今日から聞く道場を開くよ」

大輔は目を丸くした。「お母さん、その棒、なに?」

「聞くには心と体の両方が必要なんだよ」

澄江は大輔の前に立ち、竹の棒で床をトンと叩いた。「あんたは、うんうんが多すぎる。昨日なんて、悠斗が三秒話す間に八回言ってたよ」

「そんなに」

「だから今日は、うん禁止!」

「うーん」

「うんって言ったね」

「うわ」

美咲にも指導が入る。

「あんたは要するに病だね。話を短くしようとしすぎる。子どもの話は寄り道が大事なんだよ」

美咲は顔を赤くした。

「クセが出ちゃうんです」

「今日は要するに禁止」

澄江の指導は厳しいが、どこか温かかった。

その日の悠斗は体育のリレーでバトンを落とし、落ち込んで帰ってきた。玄関を開けると、大輔がスマホを置いて立ち上がった。

「おかえり」

美咲も手を止めて顔を上げた。

「今日はどうだったの」

「別に」

二人は急かさず、ただ待っていた。夕飯のあと、澄江が隣に座った。

「今日、なんかあったね」

「え」

「顔に書いてあるよ。ちょっとだけ話したいことがあるって」

その沈黙が、なぜか心地よかった。しばらくして、悠斗は小さな声で言った。

「今日ね、体育でバトン落としちゃって。僕のせいで負けたみたいで、胸がぎゅっとした」

澄江はただ静かに聞いていた。

「そっか。それは悔しかったね」

悠斗は涙をこぼした。

「ばあちゃん、聞いてくれてありがとう」

「話してくれてありがとうだよ」

その夜、家族の空気はまた少し温かくなった。悠斗が寝たあと、リビングで大輔と美咲は向かい合って座っていた。美咲が静かに言った。

「私たち夫婦の会話って、ずっとできてなかったよね」

大輔は驚いた。美咲は続けた。

「私ね、大輔に話しても、途中で要するにって言われるのが怖くて、だんだん話さなくなってたの。私の話ってつまらないのかなって思ってた」

大輔は胸が痛くなった。

「俺もさ。美咲がいつもテキパキしてるから、話すとすぐ要点だけ言ってって言われる気がして、話すのが苦手になってた」

二人は初めて、相手の本音に触れた。廊下から澄江が顔を出した。

「夫婦ってのはね、話すことより聞くことの方が大事なんだよ。相手の話を最後まで聞くって、それだけで大事にしてるって伝わるんだよ」

その言葉は、二人の胸に深く染みた。

美咲は深呼吸して言った。

「今日、仕事どうだったの」

大輔は驚いた。「聞いてくれるのか」

「うん。まとめないし、急かさない。最後まで聞くよ」

大輔はゆっくり話し始めた。後輩のミスをフォローしたこと。どう声をかけていいかわからなかったこと。胸の奥にあった不安。美咲は黙って聞いていた。話し終えると、美咲は言った。

「大変だったね。でも、大輔がフォローしてくれて、その後輩、きっと救われたと思うよ」

大輔の胸が温かくなった。寝室に向かう廊下で、美咲が言った。

「今日、話してくれてありがとう」

「聞いてくれてありがとう」

二人は、ほんの少しだけ距離を縮めて歩き出した。廊下の影で澄江が微笑んでいた。

(夫婦ってのはね、聞くだけで、こんなに変わるんだよ。)

夜のリビングは、静かだった。悠斗が寝たあと、家の中には大人だけの空気が流れる。美咲はソファに座り、膝の上で指を組んだまま動かない。大輔はキッチンの片付けを終え、そっと隣に腰を下ろした。

聞く練習

「今日、仕事どうだったの」

美咲がそう言ったとき、大輔は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。その表情に、美咲は胸が少しだけ温かくなる。

「聞いてくれるのか」

「うん。まとめないし、急かさない。最後まで聞くよ」

大輔は深呼吸をして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「今日さ、後輩がミスして、俺がフォローしたんだ。

その後輩が泣きそうになってて、どう声をかけていいかわからなかった」

美咲は黙って聞いていた。うなずきは一度だけ。目線はまっすぐ。口は閉じたまま。澄江に教わった「聞く姿勢」を、丁寧に守っていた。話し終えると、美咲は静かに言った。

「大変だったね。でも、大輔がフォローしてくれて、その後輩、きっと救われたと思うよ」

その言葉は、大輔の胸の奥にそっと落ちた。自分の弱さを見せてもいいのだと、初めて思えた。

翌日。夕飯のあと、美咲は少し疲れた顔でソファに座った。

「なんか、疲れたな」

大輔は皿を洗いながら声をかける。

「仕事、大変だったのか」

「うん、まあね」

「そっか。頑張ってるよ」

その瞬間、美咲の胸がざわついた。頑張ってるよ。その言葉は優しいはずなのに、なぜか苦しくなる。

(まただ。この言葉を聞くと、もっと頑張らなきゃって思ってしまう)

大輔は大輔で、美咲の表情に戸惑っていた。

(また間違えたのか。どう言えばよかったんだろう)

二人の間に、また静かな距離が生まれた。

見抜く力

翌朝。澄江がふらりと家に現れた。

「なんか、空気がしょんぼりしてるねぇ」

美咲は驚いた。

「そんなにですか」

「夫婦のすれ違いってのはね、終わりのサインじゃないよ。本音が隠れてるよっていう合図なんだよ」

澄江は美咲の顔をじっと見つめた。

「美咲、あんた、本当はもっと聞いてほしいんだろう」

美咲は胸がぎゅっとなった。図星だった。

夜。悠斗が寝たあと、美咲は勇気を出して言った。

「大輔。私ね、頑張ってるねって言われるの、苦手なの」

大輔は驚いた。

「そうだったのか」

「その言葉を聞くとね、もっと頑張らなきゃって思っちゃうの。本当は、ただ聞いてほしいだけなのに」

大輔は胸が痛くなった。美咲は続けた。

「それに、話しても迷惑かなって思う日もあるの。弱いところを見せたら嫌われるんじゃないかって、怖いんだよ」

その言葉は、美咲がずっと胸の奥にしまっていた本音だった。大輔はそっと美咲の手を握った。

「美咲。弱いところを見せてくれて、ありがとう」

美咲の目に涙がにじんだ。

距離が縮まる

大輔は深呼吸して言った。

「俺も、本音を言っていいか」

美咲はうなずいた。

「俺も弱いよ。美咲にしっかりしてるねって言われるのが嬉しくて、弱いところを見せられなかった。情けないって思われたくなかった」

美咲の目から涙がこぼれた。

「そんなふうに思ってたんだね」

「うん。でも、今日わかったよ。美咲の弱さも、俺の弱さも、どっちも大事なんだって」

美咲はそっと大輔の手を握り返した。

「ありがとう。今日、話せてよかった」

その瞬間、二人の距離がふっと近づいた。それは大きな出来事ではなく、派手な言葉でもなく、ただ弱さを渡し合えたという、静かで確かな瞬間だった。

寝室に向かう廊下で、美咲が言った。

「今日、話してくれてありがとう」

大輔は照れながら言った。

「聞いてくれてありがとう」

二人は、ほんの少しだけ距離を縮めて歩き出した。廊下の影で澄江が微笑んでいた。

(夫婦ってのはね、すれ違うたびに、少しずつ仲良くなるんだよ)

AIラジオ「この記事の解説」

コメント

タイトルとURLをコピーしました