長岡の風①

長岡の風① キャリア・将来の進路
長岡の風①

新潟県長岡市。信介は60歳を過ぎた今も、毎朝6時に起きて散歩をする。「頑張ることは大事だぞ。夢を持て。努力しろ」子どもの頃から耳にタコができるほど言われてきた言葉。父も母も、教師も、近所の大人も、みんな同じことを言った。

長岡の友人たち

だから信介は、頑張った。誰よりも頑張った。頑張り方がわからないときは、もっと頑張った。その結果、60歳になって気づいた。(あれ、俺、疲れてる?)

長岡駅前のベンチに腰を下ろし、信介は缶コーヒーを開けた。「頑張るのも大事だけどよ抜き方も大事なんだよな」誰に言うでもなくつぶやく。

信介には、昔から不思議な友人が多い。

  • 白黒つけない男、松田
  • 人と比べない女、美代子
  • 無理に好かれようとしない男、高志
  • 深刻にならない女、春江

彼らは、信介が若い頃から「なんでそんなに軽やかに生きられるんだ」と思っていた人たちだ。松田はよく言う。

「正しいか間違いかなんて、長岡の天気くらい当てにならんて」

美代子は笑う。

「上見ても下見てもキリないよ。昨日の自分よりちょっとマシなら十分」

高志は肩をすくめる。

「全員に好かれようなんて無理だて。合わん人とは距離置けばいいんだわ」

春江はケラケラ笑う。

「悩みなんて一年後には忘れてるよ。まず今日を乗り切ればいいんだわ」

信介は、彼らの言葉を聞くたびに思っていた。

(なんでこんなに気楽なんだ?)

60歳を過ぎた頃、信介はふと気づいた。(あれ俺、頑張りすぎてたんじゃね?)仕事も家庭も、責任が増えるたびに「もっと頑張らなきゃ」と思っていた。でも、年齢を重ねるほど、足し算より引き算が大事に思えてきた。

  • 抱え込まない
  • 勝とうとしすぎない
  • 完璧を求めない

そうすると、不思議なくらい心が軽くなった。

(力を抜いてるように見えて、実は人生の本質を知ってる。俺もそんな男になりたいもんだ)

信介は、長岡駅前のベンチで空を見上げた。

信介には、今、3つの座右の銘がある。

  1. 「なんとかなる」
    根拠はない。でも過去もなんとかなった。未来もたぶん同じ。
  2. 「笑う回数を増やす」
    面白いから笑うんじゃない。笑うから面白くなる。
  3. 「興味を失わない」
    新しい店、新しい人、新しい趣味。好奇心がある人は若い。

そして信介は、こう思うようになった。(人生をラクに生きる人って、特別な才能があるわけじゃない。頑張るところと、抜くところを知ってるだけなんだな)

定年退職の日。信介は職場の送別会で、ゆっくりと話し始めた。

「人生は戦い続けるものじゃない。楽しみながら進むものだと思うんです」

若い社員たちは目を丸くして聞いている。

「真面目な人ほど、自分を追い込みます。でもね、肩の力を抜いた方が、案外うまくいくんですよ」

信介は笑った。

「頑張らない。人生をマネージしない。我慢しない。これが私の座右の銘です」

会場がざわつく。

「努力は必要です。でも、向き方を間違えると自分を壊します。自分が何に向いてるか、何に関心があるかそれを突き詰めて考えないと、死ぬ間際に後悔します」

信介は最後にこう締めた。

「幸せは勝つことよりご機嫌でいること。今日くらいは肩の力を抜いて、自分に優しくしてあげてください」

会場は静かに拍手に包まれた。

退職後の信介は、長岡の街をゆっくり歩きながら思う。(さてここからどう生きようか)目標も計画もない。でも、それがいい。

「なんとかなるさ」

信介は笑いながら、長岡駅前のバスロータリーを歩き出した。

第二の人生

退職してからの信介の朝は、驚くほどゆるい。起きる時間は6時〜8時のどこか。気分次第で変わる。この日は7時半に起きた。

「まあ、起きた時間が正解だわな」

そう言いながら、信介は長岡駅前のスタバに向かった。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと人の流れを見る。

(みんな頑張ってるなあえらいなあ。俺は今日、何しようかな)

予定はない。でも、それがいい。コーヒーを飲んでいると、同級生の松田がやってきた。

「おー、信介。退職おめでとう。どうだ、自由は」

「自由すぎて逆に困るわ」

「困るってのは、まだ頑張ろうとしてる証拠だて」

松田は、長岡でも有名な白黒つけない男だ。

「最近、どうなんだ?」

「俺か?昨日は仕事でミスったけど、まあええわって帰ってきた」

「ええわって」

「だって、ミスったって死なんし。正しいか間違いかなんて、長岡の天気くらい当てにならんて」

信介は吹き出した。

(こいつは昔からこうだな)

松田は続けた。

「信介、お前もそろそろ正解探しやめたらどうだ」

「やめてるつもりなんだけどな」

「つもりじゃダメだて。まあ、そういうこともあるって言えるようになったら一人前だわ」

信介はコーヒーをすすりながら、(まあ、そういうこともあるか)と心の中でつぶやいてみた。なんか、ちょっと楽になった。

その日の午後。信介は妻・恵子に頼まれて、スーパーへ買い物に行った。

「牛乳と卵と、あと安かったら豚肉ね」

「了解」

しかし、帰ってきた信介の袋には――

  • 牛乳(正解)
  • 卵(正解)
  • 豚肉(正解)
  • なぜか柿の種・わさび味3袋(不正解)
  • なぜか新潟限定ルマンド2箱(不正解)
  • なぜか枝豆1袋(季節感だけ正解)

恵子が袋を見て言った。

「信介、なんでこんなに買ってきたの?」

「いや、なんか気になって」

「気になって?」

「興味を失わないのが若さの秘訣だて」

恵子は呆れながらも笑った。

「まあ、いいけど。あなた、退職してから興味が暴走してない?」

「暴走してるくらいがちょうどいいんだわ」

ひとり娘の美咲(30歳)が横から言った。

「パパ、枝豆はいいけど、ルマンド2箱はやりすぎ」

「いや、長岡の誇りだし」

「誇りは1箱でいいのよ」

家族のツッコミが飛び交う。信介は笑いながら枝豆を茹で始めた。

夕方、信介は古町の喫茶店で美代子と会った。美代子は昔から人と比べない女として有名だ。

「信介、退職してどう?」

「なんか、自由すぎて落ち着かん」

「落ち着かんのは、まだ誰かと比べてるからよ」

「比べてないつもりなんだけどな」

「つもりじゃダメ。比べるってのはね、無意識にやるのよ」

美代子はコーヒーを飲みながら言った。

「昨日の自分よりちょっと前に進んでたら、それで十分よ。人生はそれの積み重ねだわ」

信介は思わず聞いた。

「美代子は、昨日より前に進んだ?」

「進んだよ。昨日より1ミリだけどね」

「1ミリ?」

「1ミリでいいのよ。1ミリ進んだら、1ミリ分だけ人生が変わるんだから」

信介は、胸の奥がじんわり温かくなった。(1ミリかそれなら俺にもできそうだな)

夜。信介は高志の家に呼ばれた。

「信介、聞いてくれよ。俺、今日、会社で嫌われたわ」

「なんで?」

「上司にその仕事、やりたくないですって言ったら」

「そりゃ嫌われるわ」

「でもな、嫌われても死なんし。合わん人とは距離置けばいいんだわ」

信介は笑った。

「お前は昔からブレんよな」

「ブレんよ。嫌われない努力より、自分らしくいる努力の方がラクだて」

信介は、心の中でつぶやいた。(俺もそろそろ嫌われない努力やめてもいいかもな)

帰り道、春江から電話が来た。

「信介、今日なんかあった?」

「いや、別に」

「声が深刻だわ」

「深刻って」

「深刻になってもいいことないよ。人生の悩みなんて一年後には笑い話だて」

信介は思わず笑った。

「春江、お前は昔から変わらんな」

「変わらんよ。深刻にならんのが私の才能だわ」

信介は、電話を切ったあと、空を見上げた。(深刻にならんそれも大事だな)長岡の夜風が、信介の肩の力をそっと抜いていった。

波紋

ある土曜日の朝。信介は、長岡駅東口のベンチでぼんやりしていた。そこへ娘の美咲(30歳)が現れた。

「パパ、今日の予定は?」

「予定?ないよ」

「ないって。昨日も言ってたよね?」

「うん。予定がないのが予定だて」

美咲は眉をひそめた。

「パパ、退職してからゆるさが加速してない?」

「加速してるくらいがちょうどいいんだわ」

「いや、ちょうどよくないよ」

美咲は腕を組んだ。

「パパ、最近抜きすぎじゃない?なんか魂が抜けてるみたい」

「魂は抜けてない。力が抜けてるだけだて」

「同じじゃん!」

信介は笑った。

「美咲、人生はな、力を入れるより抜く方が難しいんだわ」

「いや、パパの場合は簡単そうだけど」

「失礼だな」

美咲はため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。

その夜、信介は松田・美代子・高志・春江と飲み会をした。場所は長岡駅前の居酒屋「越後の風」。信介が乾杯の音頭を取る。

「今日もなんとかなる精神でいきましょう」

松田が笑う。

「お前、最近なんとかなるしか言ってないな」

美代子が言う。

「でも信介、前より顔が若返ったよ」

高志が言う。

「嫌われるの怖くなくなった顔してるわ」

春江が言う。

「深刻さゼロの顔だね」

信介は照れながらビールを飲んだ。(俺、そんなに変わったか?)そこへ店員が来た。

「すみません、注文したへぎそばなんですが、間違えてへぎそば3人前になってまして」

テーブルに巨大なへぎそばが3つ並ぶ。美代子が叫ぶ。

「多いわ!」

松田が笑う。

「まあ、そういうこともある」

春江が言う。

「一年後には笑い話だよ」

高志が言う。

「嫌なら残せばいいんだわ」

信介は言う。

「なんとかなる」

店員が困惑した顔で言った。

「あの、どうしましょう?」

信介は笑顔で答えた。

「食べるよ。興味を失わないのが若さの秘訣だて」

全員がツッコんだ。

「そこ興味いらん!」

翌日。美咲は仕事でミスをして落ち込んでいた。

「パパ。私、やらかした」

「やらかしたって、死なんだろ」

「いや、死なないけど」

「じゃあ、大丈夫だて」

「大丈夫じゃないよ!」

信介はコーヒーを飲みながら言った。

「美咲、人生の悩みの8割は一年後には忘れてるんだわ」

「そんなわけ」

美咲は言いかけて止まった。

(確かに、去年の悩みって覚えてないな)

信介は続けた。

「深刻にならんでいい。今日を乗り切れば、明日もなんとかなる」

美咲は苦笑した。

「パパのなんとかなるって、なんか説得力あるんだよね」

「根拠はないけどな」

「根拠ないのに、説得力あるのが怖いのよ」

美咲は少し元気になって帰っていった。信介は思った。(俺のゆるさも、たまには役に立つんだな)

その日の夕方。信介が長岡駅前を歩いていると、見知らぬ若者に声をかけられた。

「あの。すみません。昨日、飲み会でなんとかなるって言ってた人ですよね?」

(誰だ、こいつ)

「え、聞いてたの?」

「はい。僕、隣の席にいて。その人生相談してもいいですか?」

信介は驚いた。

「俺で、いいのか?」

「はい。なんか抜けてる感じが安心するんです」

(褒められてるのか?)

若者は言った。

「僕、仕事辞めようか悩んでて」

信介は言った。

「辞めたかったら辞めればいいし、辞めたくなかったら辞めんでいい」

「え、それだけ?」

「それだけだて」

若者は目を丸くした。

「なんか、スッとしました」

「よかったな」

若者は深々と頭を下げて去っていった。信介は思った。(俺のゆるさ、意外と需要あるんだな)

夜。信介は自宅のこたつで、枝豆をつまみながら考えた。

(頑張るより、抜く方が難しい。でも抜くと、人生が軽くなる)

  • 白黒つけない
  • 比べない
  • 無理に好かれようとしない
  • 深刻にならない

それらが、信介の中でひとつにつながっていく。(人生は足し算じゃなくて、引き算だな)信介は、枝豆をひとつ口に放り込んだ。

「まあ、なんとかなるわ」

その言葉が、長岡の夜にゆっくり溶けていった。

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