新潟県長岡市。信介は60歳を過ぎた今も、毎朝6時に起きて散歩をする。「頑張ることは大事だぞ。夢を持て。努力しろ」子どもの頃から耳にタコができるほど言われてきた言葉。父も母も、教師も、近所の大人も、みんな同じことを言った。
長岡の友人たち
だから信介は、頑張った。誰よりも頑張った。頑張り方がわからないときは、もっと頑張った。その結果、60歳になって気づいた。(あれ、俺、疲れてる?)
長岡駅前のベンチに腰を下ろし、信介は缶コーヒーを開けた。「頑張るのも大事だけどよ抜き方も大事なんだよな」誰に言うでもなくつぶやく。
信介には、昔から不思議な友人が多い。
- 白黒つけない男、松田
- 人と比べない女、美代子
- 無理に好かれようとしない男、高志
- 深刻にならない女、春江
彼らは、信介が若い頃から「なんでそんなに軽やかに生きられるんだ」と思っていた人たちだ。松田はよく言う。
「正しいか間違いかなんて、長岡の天気くらい当てにならんて」
美代子は笑う。
「上見ても下見てもキリないよ。昨日の自分よりちょっとマシなら十分」
高志は肩をすくめる。
「全員に好かれようなんて無理だて。合わん人とは距離置けばいいんだわ」
春江はケラケラ笑う。
「悩みなんて一年後には忘れてるよ。まず今日を乗り切ればいいんだわ」
信介は、彼らの言葉を聞くたびに思っていた。
(なんでこんなに気楽なんだ?)
60歳を過ぎた頃、信介はふと気づいた。(あれ俺、頑張りすぎてたんじゃね?)仕事も家庭も、責任が増えるたびに「もっと頑張らなきゃ」と思っていた。でも、年齢を重ねるほど、足し算より引き算が大事に思えてきた。
- 抱え込まない
- 勝とうとしすぎない
- 完璧を求めない
そうすると、不思議なくらい心が軽くなった。
(力を抜いてるように見えて、実は人生の本質を知ってる。俺もそんな男になりたいもんだ)
信介は、長岡駅前のベンチで空を見上げた。
信介には、今、3つの座右の銘がある。
- 「なんとかなる」
根拠はない。でも過去もなんとかなった。未来もたぶん同じ。 - 「笑う回数を増やす」
面白いから笑うんじゃない。笑うから面白くなる。 - 「興味を失わない」
新しい店、新しい人、新しい趣味。好奇心がある人は若い。
そして信介は、こう思うようになった。(人生をラクに生きる人って、特別な才能があるわけじゃない。頑張るところと、抜くところを知ってるだけなんだな)
定年退職の日。信介は職場の送別会で、ゆっくりと話し始めた。
「人生は戦い続けるものじゃない。楽しみながら進むものだと思うんです」
若い社員たちは目を丸くして聞いている。
「真面目な人ほど、自分を追い込みます。でもね、肩の力を抜いた方が、案外うまくいくんですよ」
信介は笑った。
「頑張らない。人生をマネージしない。我慢しない。これが私の座右の銘です」
会場がざわつく。
「努力は必要です。でも、向き方を間違えると自分を壊します。自分が何に向いてるか、何に関心があるかそれを突き詰めて考えないと、死ぬ間際に後悔します」
信介は最後にこう締めた。
「幸せは勝つことよりご機嫌でいること。今日くらいは肩の力を抜いて、自分に優しくしてあげてください」
会場は静かに拍手に包まれた。
退職後の信介は、長岡の街をゆっくり歩きながら思う。(さてここからどう生きようか)目標も計画もない。でも、それがいい。
「なんとかなるさ」
信介は笑いながら、長岡駅前のバスロータリーを歩き出した。
第二の人生
退職してからの信介の朝は、驚くほどゆるい。起きる時間は6時〜8時のどこか。気分次第で変わる。この日は7時半に起きた。
「まあ、起きた時間が正解だわな」
そう言いながら、信介は長岡駅前のスタバに向かった。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと人の流れを見る。
(みんな頑張ってるなあえらいなあ。俺は今日、何しようかな)
予定はない。でも、それがいい。コーヒーを飲んでいると、同級生の松田がやってきた。
「おー、信介。退職おめでとう。どうだ、自由は」
「自由すぎて逆に困るわ」
「困るってのは、まだ頑張ろうとしてる証拠だて」
松田は、長岡でも有名な白黒つけない男だ。
「最近、どうなんだ?」
「俺か?昨日は仕事でミスったけど、まあええわって帰ってきた」
「ええわって」
「だって、ミスったって死なんし。正しいか間違いかなんて、長岡の天気くらい当てにならんて」
信介は吹き出した。
(こいつは昔からこうだな)
松田は続けた。
「信介、お前もそろそろ正解探しやめたらどうだ」
「やめてるつもりなんだけどな」
「つもりじゃダメだて。まあ、そういうこともあるって言えるようになったら一人前だわ」
信介はコーヒーをすすりながら、(まあ、そういうこともあるか)と心の中でつぶやいてみた。なんか、ちょっと楽になった。
その日の午後。信介は妻・恵子に頼まれて、スーパーへ買い物に行った。
「牛乳と卵と、あと安かったら豚肉ね」
「了解」
しかし、帰ってきた信介の袋には――
- 牛乳(正解)
- 卵(正解)
- 豚肉(正解)
- なぜか柿の種・わさび味3袋(不正解)
- なぜか新潟限定ルマンド2箱(不正解)
- なぜか枝豆1袋(季節感だけ正解)
恵子が袋を見て言った。
「信介、なんでこんなに買ってきたの?」
「いや、なんか気になって」
「気になって?」
「興味を失わないのが若さの秘訣だて」
恵子は呆れながらも笑った。
「まあ、いいけど。あなた、退職してから興味が暴走してない?」
「暴走してるくらいがちょうどいいんだわ」
ひとり娘の美咲(30歳)が横から言った。
「パパ、枝豆はいいけど、ルマンド2箱はやりすぎ」
「いや、長岡の誇りだし」
「誇りは1箱でいいのよ」
家族のツッコミが飛び交う。信介は笑いながら枝豆を茹で始めた。
夕方、信介は古町の喫茶店で美代子と会った。美代子は昔から人と比べない女として有名だ。
「信介、退職してどう?」
「なんか、自由すぎて落ち着かん」
「落ち着かんのは、まだ誰かと比べてるからよ」
「比べてないつもりなんだけどな」
「つもりじゃダメ。比べるってのはね、無意識にやるのよ」
美代子はコーヒーを飲みながら言った。
「昨日の自分よりちょっと前に進んでたら、それで十分よ。人生はそれの積み重ねだわ」
信介は思わず聞いた。
「美代子は、昨日より前に進んだ?」
「進んだよ。昨日より1ミリだけどね」
「1ミリ?」
「1ミリでいいのよ。1ミリ進んだら、1ミリ分だけ人生が変わるんだから」
信介は、胸の奥がじんわり温かくなった。(1ミリかそれなら俺にもできそうだな)
夜。信介は高志の家に呼ばれた。
「信介、聞いてくれよ。俺、今日、会社で嫌われたわ」
「なんで?」
「上司にその仕事、やりたくないですって言ったら」
「そりゃ嫌われるわ」
「でもな、嫌われても死なんし。合わん人とは距離置けばいいんだわ」
信介は笑った。
「お前は昔からブレんよな」
「ブレんよ。嫌われない努力より、自分らしくいる努力の方がラクだて」
信介は、心の中でつぶやいた。(俺もそろそろ嫌われない努力やめてもいいかもな)
帰り道、春江から電話が来た。
「信介、今日なんかあった?」
「いや、別に」
「声が深刻だわ」
「深刻って」
「深刻になってもいいことないよ。人生の悩みなんて一年後には笑い話だて」
信介は思わず笑った。
「春江、お前は昔から変わらんな」
「変わらんよ。深刻にならんのが私の才能だわ」
信介は、電話を切ったあと、空を見上げた。(深刻にならんそれも大事だな)長岡の夜風が、信介の肩の力をそっと抜いていった。
波紋
ある土曜日の朝。信介は、長岡駅東口のベンチでぼんやりしていた。そこへ娘の美咲(30歳)が現れた。
「パパ、今日の予定は?」
「予定?ないよ」
「ないって。昨日も言ってたよね?」
「うん。予定がないのが予定だて」
美咲は眉をひそめた。
「パパ、退職してからゆるさが加速してない?」
「加速してるくらいがちょうどいいんだわ」
「いや、ちょうどよくないよ」
美咲は腕を組んだ。
「パパ、最近抜きすぎじゃない?なんか魂が抜けてるみたい」
「魂は抜けてない。力が抜けてるだけだて」
「同じじゃん!」
信介は笑った。
「美咲、人生はな、力を入れるより抜く方が難しいんだわ」
「いや、パパの場合は簡単そうだけど」
「失礼だな」
美咲はため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。
その夜、信介は松田・美代子・高志・春江と飲み会をした。場所は長岡駅前の居酒屋「越後の風」。信介が乾杯の音頭を取る。
「今日もなんとかなる精神でいきましょう」
松田が笑う。
「お前、最近なんとかなるしか言ってないな」
美代子が言う。
「でも信介、前より顔が若返ったよ」
高志が言う。
「嫌われるの怖くなくなった顔してるわ」
春江が言う。
「深刻さゼロの顔だね」
信介は照れながらビールを飲んだ。(俺、そんなに変わったか?)そこへ店員が来た。
「すみません、注文したへぎそばなんですが、間違えてへぎそば3人前になってまして」
テーブルに巨大なへぎそばが3つ並ぶ。美代子が叫ぶ。
「多いわ!」
松田が笑う。
「まあ、そういうこともある」
春江が言う。
「一年後には笑い話だよ」
高志が言う。
「嫌なら残せばいいんだわ」
信介は言う。
「なんとかなる」
店員が困惑した顔で言った。
「あの、どうしましょう?」
信介は笑顔で答えた。
「食べるよ。興味を失わないのが若さの秘訣だて」
全員がツッコんだ。
「そこ興味いらん!」
翌日。美咲は仕事でミスをして落ち込んでいた。
「パパ。私、やらかした」
「やらかしたって、死なんだろ」
「いや、死なないけど」
「じゃあ、大丈夫だて」
「大丈夫じゃないよ!」
信介はコーヒーを飲みながら言った。
「美咲、人生の悩みの8割は一年後には忘れてるんだわ」
「そんなわけ」
美咲は言いかけて止まった。
(確かに、去年の悩みって覚えてないな)
信介は続けた。
「深刻にならんでいい。今日を乗り切れば、明日もなんとかなる」
美咲は苦笑した。
「パパのなんとかなるって、なんか説得力あるんだよね」
「根拠はないけどな」
「根拠ないのに、説得力あるのが怖いのよ」
美咲は少し元気になって帰っていった。信介は思った。(俺のゆるさも、たまには役に立つんだな)
その日の夕方。信介が長岡駅前を歩いていると、見知らぬ若者に声をかけられた。
「あの。すみません。昨日、飲み会でなんとかなるって言ってた人ですよね?」
(誰だ、こいつ)
「え、聞いてたの?」
「はい。僕、隣の席にいて。その人生相談してもいいですか?」
信介は驚いた。
「俺で、いいのか?」
「はい。なんか抜けてる感じが安心するんです」
(褒められてるのか?)
若者は言った。
「僕、仕事辞めようか悩んでて」
信介は言った。
「辞めたかったら辞めればいいし、辞めたくなかったら辞めんでいい」
「え、それだけ?」
「それだけだて」
若者は目を丸くした。
「なんか、スッとしました」
「よかったな」
若者は深々と頭を下げて去っていった。信介は思った。(俺のゆるさ、意外と需要あるんだな)
夜。信介は自宅のこたつで、枝豆をつまみながら考えた。
(頑張るより、抜く方が難しい。でも抜くと、人生が軽くなる)
- 白黒つけない
- 比べない
- 無理に好かれようとしない
- 深刻にならない
それらが、信介の中でひとつにつながっていく。(人生は足し算じゃなくて、引き算だな)信介は、枝豆をひとつ口に放り込んだ。
「まあ、なんとかなるわ」
その言葉が、長岡の夜にゆっくり溶けていった。


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