
結婚して最初の春。ふたりは川沿いの桜並木を歩いた。風が吹くたび、花びらが舞い、ヒサシの肩にも、アイコの髪にも落ちた。桜って、散るのが早いねとアイコが言うと、ヒサシはだから綺麗なんだよと答えた。その言葉が、アイコの胸に静かに残った。ふたりはまだ若く、未来がどんな形をしているのか知らなかった。ただ、手をつないで歩くことが嬉しかった。
新婚アパートと、ふたりの影
結婚してすぐ、ふたりは小さなアパートに越した。築年数はそこそこ、駅から徒歩12分。でも、窓を開けると遠くで電車が通る音がして、それがアイコには妙に心地よかった。
「ねぇ、ヒサシ、あの音、なんか好き」
「わかる。毎日が旅の始まりみたいだろ」
ヒサシは胸を張って言ったが、その直後に段ボールにつまずいてうわっと派手に転んだ。
(旅の始まり、早速つまずいてるじゃない)
アイコは笑いをこらえながら、転んだ夫を引き起こした。
家具はまだ少なく、部屋はやけに広く見えた。
夕方になると、台所に灯りがともり、ふたりの影が壁に寄り添うように映った。
「見て、影が仲良しだよ」
「本体も仲良しだろ」
「本体は段ボールに負けてたけどね」
「それは忘れてくれ」
そんな他愛ない会話が、新しい生活のリズムになっていった。
影は、まだ未来を知らない。
ヒサシがどれだけポンコツで、アイコがどれだけツッコミ体質で、そしてふたりの5年間がどれほど愛おしいものになるかも。
ただ、ふたりは今日を大切に生きていた。
電車の音と、灯りの下の影と、小さな笑い声に包まれながら。
二年目の夏、夕立とふたり
二年目の夏。買い物袋を両手に下げて歩いていたふたりは、突然の夕立に捕まった。
「えっ、ちょっと待って、空さっきまで青かったよね?」
「夏の天気は気まぐれなんだよ。俺みたいに」
「いや、あなたの気まぐれは季節じゃなくて、性格」
ふたりは商店街の軒先へ駆け込んだ。
雨は勢いよく降り、アスファルトを叩く音がリズムのように響いた。
ヒサシは濡れた前髪をかき上げ、妙にキリッとした顔で言った。
「走るか」
アイコは吹き出した。
「走っても濡れるよ。 ていうか、あなた走ったら絶対転ぶでしょ」
「否定できない」
ヒサシはしょんぼり肩を落とした。
雨は止む気配がなく、ふたりは覚悟を決めて歩き出した。
ゆっくり、ゆっくり。アスファルトは雨で光り、街灯がその上に揺れて映った。
「なんか映画みたいだね」
「俺たち、主演か」
「主演が段ボールにつまずくタイプの映画ね」
「それは俺の黒歴史だから忘れてくれ」
ふたりの会話は、雨の音に混ざって流れていった。
家に着く頃には、ふたりの服はすっかり濡れていた。
でも、なぜか心は温かかった。
「ねぇ、ヒサシ」
「ん?」
「こういう日、悪くないね」
「だろ? 俺と一緒だから」
「はいはい」
アイコは笑いながらタオルを取りに行き、ヒサシは玄関で靴を脱ぎながらくしゃみ出そうと言っていた。
雨の匂いと、ふたりの笑い声が混ざった夏の夕方だった。
三年目の秋、落ち葉と転職と横顔と
三年目の秋。ヒサシは転職したばかりで、どこか肩に小さな疲れを乗せていた。
「最近、帰ってきたら、あっ、の回数が増えてるよ」
アイコがそう言うと、ヒサシは苦笑いした。
「転職したては、あっが増えるんだよ。仕様だよ」
「あなたの仕様は初期不良が多いのよ」
そんなやり取りをしながら、休日のふたりは公園を歩いていた。
落ち葉が道を覆い、踏むたびにサクッ、サクッと柔らかな音がした。
ヒサシはその音が気に入ったらしく、わざわざ落ち葉の多いところを選んで歩く。
「ほら、ここサクサクだぞ」
「子どもと、サクサクは正義なんだよ」
「知らなかったわ、その正義」
アイコは呆れながらも、そのサクサク正義の話に興味深く聞き入っていた。
しばらく歩いたあとアイコは、ふとヒサシの横顔を見た。
「仕事、大変?」
そう聞くと、ヒサシは落ち葉をひとつ蹴りながら考えた。
「大変だけど、好きだよ。 お客さんの顔が見えるのがいい」
その言葉は、秋の空気に溶けるように静かだった。
アイコはうなずいた。
落ち葉の色が、ヒサシの横顔をやわらかく照らしていた。
(この人のこと、やっぱり好きだな)
そう思った瞬間、ヒサシが足を滑らせてサクッではなくズサッと転んだ。
「ちょっ、大丈夫!?」
「落ち葉、裏切った。正義って、なんだったんだ?」
ふたりの声が、秋の公園にふわりと広がった。
四年目の冬、手袋と白い息とふたり
四年目の冬。夜の空気はきりりと冷たく、ふたりは肩を寄せ合いながら散歩に出かけた。
吐く息は白く、街灯の下でふわりと溶けていく。
「見てヒサシ、ドラゴンみたい」
アイコが白い息を吐きながら言うと、ヒサシも真似して息を吐いた。
「俺の方がドラゴンっぽいだろう」
「うん、あなたは湯気の多いポンコツって感じ」
「なんだ、その肩書き?」
そんな他愛ない会話をしながら、ふたりは冬の道を歩いた。
しばらくすると、ヒサシがポケットをごそごそ探り始めた。
アイコ、ちょっと立ち止まって
「え、なに?まさかプロポーズのやり直し?」
「いや、もう結婚してるだろ」
ヒサシは照れくさそうに、小さな紙袋を差し出した。
「これ、アイコに」
アイコが袋を開けると、中には小さな手袋が入っていた。
「寒いと手が冷たくなるだろ。 ほら、いつも俺の手握ると冷たっって言うし」
「言ってたねぇ」
「だから買ったんだよ。俺、成長しただろ。」
「5歳児が6歳児になったくらいにはね」
「微妙な成長だな」
アイコはにっこり微笑みながら手袋をはめた。
そして、そのままヒサシの手を握った。
「ほら、あったかいよ」
「お、ほんとだ。文明の力すごいな」
「文明じゃなくて手袋ね」
手袋越しでも、ふたりの手はしっかり温かかった。
冬の空気は冷たいのに、ふたりの歩く道だけはほんのりと灯りがともったように感じられた。
五年目の春、つぼみとコーヒーとふたり
五年目の春。朝の空気はまだ少し冷たく、でも窓の外では桜のつぼみがふくらみ始めていた。
アイコがカーテンを開けると、ちょうどヒサシがキッチンでコーヒーを淹れていた。
「おはよ、アイコ。今日のコーヒーは春仕様だぞ」
「春仕様って何?」
「気持ち多めに豆を入れた」
「それ、ただの濃いコーヒーじゃない?」
ヒサシは胸を張った。
「春は新生活の季節だからな。気合いだよ、気合い」
「あなたの気合いはいつも方向がズレてるのよね」
そんな会話が、五年目の朝のルーティンになっていた。
ヒサシは転職して忙しくなっていたけれど、朝のコーヒーだけは欠かさなかった。
「今日も頑張るよ」
そう言って、ヒサシはいつものようにカバンを肩にかけた。
アイコは笑って言った。
「いってらっしゃい。
あ、帰りにプリン買ってこなくていいからね」
「なんで?」
「最近、冷蔵庫がプリンだらけなのよ」
「非常用だぞ」
「非常用はそんなにいらないの」
ヒサシは
「そうかぁ」
と言いながら靴を履いた。
玄関を出る前、ふとヒサシが振り返った。
「アイコ、桜咲いたら一緒に見に行こうな」
「うん、行こう」
その約束は、春のつぼみのように静かにふくらんでいった。
アイコは窓の外を見た。桜のつぼみは、もうすぐ開きそうだった。
(今年の春も、きっといい春になる)
そう思いながら、アイコはヒサシが淹れた春仕様の濃いコーヒーを一口飲んだ。
「濃い。でも、悪くないかも」
五年目の春は、そんな小さなふたりの味で始まった。
五年目の夏、最後の青空とプリンの約束
五年目の夏。朝の光はまぶしく、カーテンの隙間から差し込む陽射しが部屋の床を金色に染めていた。
ヒサシは、いつものように寝癖を直しきれないままキッチンに立ち、アイコの分のコーヒーを淹れていた。
「今日のコーヒーは夏仕様だぞ」
「また、仕様変更?」
「氷をひとつ多めに入れた」
「それ、ただの薄いコーヒーじゃない?
そんな会話が、五年目の夏の朝をゆっくりと動かしていた。
ヒサシはカバンを肩にかけ、玄関で靴を履きながら振り返った。
「アイコ、今日さ、プリン買って帰るからな」
「またプリン?冷蔵庫、プリンで埋まってるよ?」
「非常用だぞ」
「非常用の定義、見直した方がいいと思う」
ヒサシは笑った。その笑顔は、夏の光みたいに明るかった。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。 プリンは1個でいいからね」
「了解!3個な!」
「話聞いてない!」
そんなやり取りが、ふたりのいつもの朝だった。
その日の空は、雲ひとつない青空だった。
アイコは洗濯物を干しながら、ふと空を見上げた。
(今日、いい日になりそう)
そう思った。本当に、そう思った。
夕方。スマホが鳴った。
病院からの電話だった。
世界が、音を失った。
家に戻ったアイコは、震える手で冷蔵庫を開けた。
そこには、、プリンがひとつ。
ヒサシが、今日買って帰ると言ったプリン。
なんで、こんな時にプリンなのよ
アイコは泣きながら笑った。
非常用って、、 こういう非常のことじゃないでしょ、、
涙がぽたぽた落ちた。でも、その涙はプリンの甘さに少しだけ溶けていった。
五年目の夏。最後の夏。
ふたりが交わした最後の約束は「プリンを買って帰る」というなんでもない約束だった。
でも、そのなんでもない約束がアイコの胸にずっと灯り続けることになる。
夏の青空は、あの日のまま、今もアイコの心に広がっていた。
桜の下で
結婚して最初の春。ふたりは川沿いの桜並木を歩いた。
風が吹くたび、花びらが舞い、ヒサシの肩にも、アイコの髪にも落ちた。
桜って、散るのが早いねとアイコが言うと、ヒサシはだから綺麗なんだよと答えた。
その言葉が、アイコの胸に静かに残った。
ふたりはまだ若く、未来がどんな形をしているのか知らなかった。ただ、手をつないで歩くことが嬉しかった。
夕立の帰り道
二年目の夏。買い物帰りに突然の夕立に降られた。
傘はなく、ふたりは商店街の軒先で雨宿りをした。
ヒサシは濡れた前髪をかき上げ、走るかと言った。
アイコは笑って首を振った。走っても濡れるよ
ふたりはゆっくり歩いた。雨の匂いがして、アスファルトが光っていた。
家に着く頃には、ふたりの服はすっかり濡れていたが、心はなぜか温かかった。
落ち葉の道
三年目の秋。ヒサシは転職したばかりで、少し疲れていた。
休日、ふたりは公園を歩いた。落ち葉が道を覆い、踏むたびに柔らかな音がした。
仕事、大変?とアイコが聞くと、ヒサシは少し考えてから言った。
大変だけど、、好きだよ。 お客さんの顔が見えるのがいい
アイコはうなずいた。落ち葉の色が、ヒサシの横顔を優しく照らしていた。
冬の白い息
四年目の冬。ふたりは夜の散歩に出かけた。
吐く息が白く、街灯の下でふわりと溶けた。
ヒサシはポケットから小さな紙袋を取り出した。
これ、アイコに
中には、小さな手袋が入っていた。
寒いと手が冷たくなるだろ
アイコは手袋をはめ、ヒサシの手を握った。
ふたりの手は、手袋越しでも温かかった。
🌸春の小話(五年目)芽吹きの朝
五年目の春。ヒサシは忙しく、朝の時間が短くなっていた。
それでも、コーヒーだけは必ず淹れてくれた。
今日も頑張るよとヒサシが言うと、アイコはいってらっしゃいと微笑んだ。
窓の外では、桜のつぼみがふくらんでいた。
ふたりの時間は、ゆっくりと、しかし確かに進んでいた。
夏の最後の青空
五年目の夏。その日の朝も、ヒサシはいつもと同じように出かけた。
プリン買って帰るからな
それが最後の言葉になった。
空はよく晴れ、蝉の声が響いていた。
アイコはその日の青空を、今でも忘れない。
ふたりが歩いた5年間は、短かったかもしれない。けれど、季節のひとつひとつが確かにふたりを包んでいた。
アイコはこんなことを思い出していた。








