キャッチボール

キャッチボール 全記事
キャッチボール

スーパーの自動ドアが開くたび、外の風がひゅうっと入り込んでくる。レジ横のビニール袋がふわりと揺れ、私のエプロンの裾も少しだけめくれ上がる。私はマユミ、三十五歳。このスーパーでレジ係のパートを始めて、もう七年になる。

レジ

朝のレジは、いつも同じような顔ぶれだ。野菜を買いに来るおばあちゃん、パンだけ買っていく高校生、そして、毎朝必ず「今日も暑いねえ」と言ってくれる常連の佐藤さん。そんな日常の中に、ひときわ明るい声が混ざった。

「マユミ、今日さ、ちょっと聞いてよ」

声の主は、私の友人であり、医者と結婚したミキ。仕事帰りに寄ったらしく、白衣の袖を少しだけまくっている。

「どうしたの?また旦那さんの話?」

「そうそう。昨日ね、旦那が面白い研究の話しててさ」

ミキは、レジ横のカゴに牛乳を置きながら言った。

「夫婦喧嘩をよく見る子どもって、脳の前頭前野の一部が萎縮するんだって」

「え?」

私は思わずバーコードを読み取り損ねた。

「萎縮って脳が?」

「そう。MRIで分かったらしいよ。前頭前野って、我慢したり、コツコツ頑張ったり、人の気持ちを思いやったり。そういう人間らしさのセンターなんだって」

ミキは、まるで天気の話でもするようにさらりと言った。

「だからね、子どもの前で夫婦喧嘩すると、ゲームよりスマホより、よっぽど悪影響なんだってさ」

私は、レジのボタンを押しながら、胸の奥がざわっとした。夫婦喧嘩。その言葉が、妙に重く響いた。

仕事を終えて家に帰ると、夫のタカシがソファに座ってテレビを見ていた。

「おかえり」

「ただいま」

返事はしたものの、部屋の空気がどこか冷たい。昨日の夜、ちょっとしたことで言い合いになった。子どもの宿題のこと。私が「もう少し見てあげてよ」と言ったら、タカシが「仕事で疲れてるんだよ」と声を荒げた。そのあと、二人とも黙り込んでしまった。

怒鳴り声はなかった。でも、沈黙が部屋いっぱいに広がっていた。その空気を、小学三年生の息子・ユウマは、どんな気持ちで感じていたんだろう。

「ママ、おかえり」

ユウマが部屋の隅から顔を出した。笑っているけれど、どこかぎこちない。

「ただいま。宿題、終わった?」

「うん」

返事が小さい。私は胸の奥がきゅっと痛くなった。ミキの話、あれ、本当なんだろうか。夫婦喧嘩が、子どもの脳に影響するなんて。そんなこと、考えたこともなかった。

夕飯の支度をしながら、ふと、小学生の頃の記憶がよみがえった。クラスに、いつも落ち着かない子がいた。ちょっとしたことで怒り出したり、授業中に集中できなかったり。

当時は性格の問題だと思っていた。でも、ある日、担任の先生がぽつりと言った。

「お家でね、毎晩のように夫婦喧嘩があるらしいの」

その子は、家で布団をかぶって震えていたという。私はその話を聞いたときの、胸の奥がざわざわする感じを思い出した。家って、本当は安心できる場所のはずなのに。その子にとっては、家が戦場だったのかもしれない。

夕飯の時間。タカシとユウマと三人で食卓を囲む。

「今日ね、学校でね」

ユウマが話し始めた瞬間、タカシがテレビのリモコンを手に取った。私は思わず言った。

「ちょっと、テレビ消してあげて」

タカシがこちらを見る。昨日の言い合いの続きになりそうな気配がした。でも、私は深呼吸した。ミキが言っていた。「イラっとした瞬間に6秒だけ待つ」と。私は心の中で、ハッピーバースデーをゆっくり歌った。1番だけ。

すると、不思議と胸のざわつきが少しだけ静まった。

「ごめん。そうだな」

タカシはテレビを消し、ユウマの方を向いた。

「で、どうしたんだ?」

ユウマは嬉しそうに笑った。

「今日ね、図工でね!」

その笑顔を見て、私は胸の奥がじんわり温かくなった。ああ、こういう時間が、ユウマにとっての安全基地なんだ。そう思った。

休憩室

スーパーの朝は、レジのピッという音と、バックヤードの段ボールを運ぶガラガラという台車の音で始まる。私はいつものようにレジに立ち、バーコードを読み取りながら、昨夜のユウマの笑顔を思い出していた。

テレビを消してくれたタカシ。あれだけで、あんなに空気が変わるんだな。そんなことを考えていると、隣のレジから声が飛んできた。

「マユミさん、今日なんか顔が柔らかいねえ」

声の主は、同僚のサエコさん。五十代で、いつも口紅の色がやたら元気だ。

「え、そうですか?」

「うん。昨日の夜、いいことあった?」

「まあ、ちょっとだけ」

サエコさんはにやりと笑った。

「夫婦仲がいいと、顔に出るのよ」

「いや、仲がいいってほどじゃ」

「いいのいいの。言わなくていいの。夫婦のことは、夫婦にしか分からないんだから」

そう言って、サエコさんはレジのボタンを軽快に叩いた。この人、なんでも見抜くんだよな。私は苦笑しながら、次のお客さんのカゴを受け取った。

午前のピークが終わり、休憩室に入ると、コーヒーメーカーの前に小さなメモが置いてあった。

《マユミへ昨日の話、気にしすぎないでね。でも、ちょっとだけ思い出してくれたら嬉しい。ミキ》

私は思わず笑った。

「気にしすぎないでって言いながら、気にさせる書き方だよね」

でも、ミキらしい。あの子は昔から、言葉の選び方が絶妙にずるい。コーヒーを淹れながら、私は昨夜のユウマの表情を思い返した。

テレビが消えた瞬間、ユウマの目がぱっと明るくなった。あれは、安心したって顔だった。私は胸の奥がじんわり温かくなった。

午後のレジは、午前より少しだけゆっくりしている。私はカゴを受け取りながら、ふと気づいた。夫婦喧嘩って、声よりも空気なんだな。昨日の沈黙の重さを思い出す。怒鳴り声はなかった。でも、ユウマはきっと気づいていた。

そんなことを考えていると、レジに並んでいた若いお母さんが、小さな男の子の手をぎゅっと握っていた。

「ママ、これ買っていい?」

「今日はダメ。昨日買ったでしょ」

「えー!」

男の子は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、お母さんは笑って頭を撫でた。

「また今度ね」

そのやり取りを見て、私はなんだか胸が温かくなった。ああ、こういう空気、いいな。子どもが安心して甘えられる空気。怒鳴らなくても伝わる空気。私はレジを打ちながら、自分の家の空気を思い返した。

仕事を終えて外に出ると、空がオレンジ色に染まっていた。スーパーの駐車場の端で、小学生たちが自転車を並べて笑っている。その中に、ユウマの姿があった。

「ママー!」

ユウマが駆け寄ってくる。その顔は、昨日よりずっと明るい。

「今日ね、図工で作ったやつ、先生に褒められた!」

「ほんと?すごいじゃん」

「うん!パパにも見せる!」

私は胸の奥がじんわり熱くなった。パパにも見せる。その言葉が、なんだかとても嬉しかった。

昨日の沈黙の夜を思い出す。あの空気が、ユウマの心にどんな影響を与えていたのか。でも、今日は違う。ユウマは笑っている。

私はユウマの頭を撫でながら、夕焼けの空を見上げた。家の空気って、こんなにも子どもの表情に出るんだな。そう思った。

リンゴ

スーパーの青果コーナーは、いつも少しだけ湿った土の匂いがする。朝の仕分けで積まれた段ボール箱の隙間から、りんごの赤い皮がちらりと見えていた。

私はレジに立ちながら、昨日のユウマの笑顔を思い返していた。あの子、今日はどんな顔で帰ってくるかな。そんなことを考えていると、青果コーナーからドサッという音がした。

「わっ!」

振り向くと、小さな男の子がりんごの山に手を伸ばし、そのまま数個を床に転がしてしまっていた。

「ご、ごめんなさい」

男の子は泣きそうな顔で母親の袖をつかんだ。

「大丈夫よ、大丈夫。ほら、謝れたじゃない」

母親は優しく言い、男の子の頭を撫でた。その光景を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

ああ、あの子に似てる。小学生の頃、クラスにいたタケルのことだ。

タケルは、いつも落ち着きがなかった。授業中に突然立ち上がったり、ちょっとしたことで友達に怒鳴ったり。私は当時、

「タケルって、なんであんなに怒りっぽいんだろう」

と不思議に思っていた。でも、ある日、担任の先生がぽつりと言った。

「タケルくんのお家ね毎晩のように夫婦喧嘩があるらしいの」

その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥がざわざわした。タケルは、家で布団をかぶって震えていたという。怒鳴り声が聞こえるたび、自分の部屋の隅で膝を抱えていたらしい。

家って、本当は安心できる場所のはずなのに。そのときの気持ちが、今日の青果コーナーの光景と重なった。

私はレジを抜けて、青果コーナーへ向かった。

「大丈夫ですよ。りんごは逃げませんから」

そう言って、床に転がったりんごを拾い集めた。男の子はまだ不安そうにしていたが、母親がそっと背中を押した。

「ほら、ありがとうって言おうね」

「ありがとう」

小さな声だったけれど、その声には安心が混ざっていた。

「こちらこそ。りんごも喜んでるよ」

私は笑ってみせた。母親はほっとしたように息をついた。

「すみません、いつも落ち着きがなくて」

「いえいえ。お母さんが優しく声かけてるから、この子も安心してますよ」

母親は照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、私はふと、昨日の自分を思い出した。あの沈黙の夜、ユウマはどんな気持ちだったんだろう。

昼休み、休憩室でお弁当を広げていると、サエコさんが隣に座った。

「さっきのりんごの子、かわいかったねえ」

「見てたんですか?」

「見てた見てた。ああいうとき、親の声のトーンって大事よね」

サエコさんは、味噌汁のフタを開けながら言った。

「怒鳴る親もいるけど、あのお母さんは優しかった。子どもって、ああいう空気で育つのよ」

私は箸を止めた。

「空気、ですか」

「そうよ。家の空気って、子どもの顔に出るの」

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。ユウマの顔にも、出てたんだろうか。昨日の沈黙の夜。ユウマのぎこちない笑顔。私は胸が少し痛くなった。

仕事を終えて外に出ると、風が少し強くなっていた。駐車場の端で、ユウマが待っていた。

「ママー!」

駆け寄ってくるユウマの顔は、昨日よりずっと明るい。

「今日ね、パパとキャッチボールしたよ!」

「え、ほんと?」

「うん!パパ、すごい球投げるんだよ!」

私は胸の奥がじんわり温かくなった。タカシ、ユウマと遊んでくれたんだ。昨日の沈黙の夜が、少しだけ溶けた気がした。風が、落ちたりんごの匂いを運んでくる。私はユウマの手を握りながら思った。家の空気って、こんなにも子どもの表情に出るんだな。そのことを、今日のりんごがそっと教えてくれた気がした。

割れたプリン

夕方のスーパーは、昼間とはまったく違う顔を見せる。仕事帰りの人たちが一気に押し寄せ、レジ前には長い列ができる。私はバーコードを読み取りながら、頭の片隅でタカシのことを考えていた。

昨日は、ユウマとキャッチボールしてくれたんだよな。

そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。でも、同時に、あの沈黙の夜の重さもよみがえる。そんなことを考えていると、レジの前で突然、パリンという音がした。

「わっ、ごめんなさい!」

振り向くと、買い物カゴの中でプリンのカップが割れていた。落としたのは、若いお父さん。その横で、小さな女の子が泣きそうな顔をしている。

「パパのせいじゃないよ」

女の子が小さな声で言った。

「いや、パパがちゃんと持ってなかったからだよ」

お父さんは苦笑いしながらしゃがみ込んだ。その声は優しくて、女の子の不安をそっと包み込んでいた。私は思わず胸が温かくなった。

「大丈夫ですよ。すぐ片付けますね」

私は割れたプリンを片付けながら、お父さんと女の子のやり取りを聞いていた。

「パパ、怒ってない?」

女の子が不安そうに聞く。

「怒るわけないだろ。プリンが勝手に飛んだんだよ」

「飛んだの?」

「そう。プリンは自由だからな」

女の子はくすっと笑った。その笑顔を見て、私は胸の奥がじんわりと熱くなった。ああ、こういう空気、いいな。怒鳴らない。責めない。ただ、笑って受け止める。家の空気って、こういう小さな瞬間で作られるんだろうな。

休憩室に戻ると、サエコさんがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

「プリン事件、見てたよ」

サエコさんは新聞から目を離さずに言った。

「見てたんですか」

「見てた見てた。あのお父さん、いい声してたねえ」

「声ですか?」

「そうよ。子どもって、声のトーンで安心するのよ。怒鳴らなくても、冷たい声だとすぐ分かるの」

私は思わず息をのんだ。冷たい声。昨日の夜のタカシの声が頭に浮かんだ。

「マユミさん、最近ちょっと考え事多いでしょ」

「え、そんなこと」

「顔に出てるのよ。でもね、夫婦なんてそんなもんよ。大事なのは、戻る場所があるかどうか」

サエコさんは、コーヒーを一口飲んだ。

「戻る場所」

「そう。家の空気って、夫婦で作るものだからね」

私は胸の奥がじんわりと温かくなった。

仕事を終えて家に帰ると、タカシがキッチンで皿を洗っていた。

「おかえり」

「ただいま」

声は普通だった。でも、どこかぎこちない。ユウマはリビングで宿題をしている。その背中が、なんだか小さく見えた。

「今日、学校どうだった?」

タカシが声をかける。

「うん普通」

ユウマの声は小さい。私は胸がざわついた。昨日の沈黙、まだ残ってるんだ。タカシと私の間にある冷たい空気が、ユウマに伝わっている。怒鳴り声なんてない。でも、空気は嘘をつかない。私は深呼吸した。

「ねえ、タカシ」

「ん?」

「昨日のこと、ごめんね」

タカシは驚いたようにこちらを見た。

「いや俺も悪かったよ」

その瞬間、ユウマがふっと顔を上げた。その表情は、昨日より少しだけ柔らかかった。

ユウマが寝たあと、タカシがぽつりと言った。

「ユウマ、昨日の夜、寝つき悪かったみたいだな」

「うん。たぶん、私たちのせいだよね」

「そうかもしれないな」

タカシは苦笑いした。

「でも、今日のユウマ、ちょっと明るかったな」

「うん。キャッチボール、ありがとう」

「いやなんとなく、やりたくなってさ」

私は胸の奥がじんわりと温かくなった。家の空気って、こうやって少しずつ変わっていくんだ。そう思った。

ノート

翌朝、ユウマがランドセルを背負いながら言った。

「ママ、今日ね学校で発表あるんだ」

「発表?何の?」

「図工のやつ。昨日の続き」

ユウマは少し照れたように笑った。その笑顔は、ここ数日でいちばん自然だった。

「そっか。楽しんでおいで」

「うん!」

玄関のドアが閉まると、私はしばらくその場に立ち尽くした。あの子、こんな顔して学校行くの、久しぶりだな。胸の奥がじんわり温かくなった。

スーパーに着くと、レジ横の台に小さな花束が置かれていた。黄色いガーベラが一輪、透明の袋に入っている。

「誰のだろう?」

私が首をかしげていると、青果担当のハルオさんがやってきた。

「あ、それね。お客さんが忘れてったんだよ。

『娘に買って帰るんだ』って言ってたのに」

「娘さんに」

私は花束をそっと持ち上げた。ガーベラの黄色が、朝の光に透けて見える。誰かのために買った花って、こんなに優しい色なんだ。そう思った。

午前のピークが始まると、レジ前には長い列ができた。

「すみません、これ」

中年の男性が、割れた卵パックを差し出してきた。

「落としちゃって」

「大丈夫ですよ。すぐ交換しますね」

私は卵を交換しながら、男性の後ろに並んでいた小学生の男の子に気づいた。男の子は、割れた卵を見て不安そうにしている。

「パパ、怒らない?」

「怒らないよ。卵が勝手に転んだんだ」

その言い方が、昨日のプリンのお父さんとそっくりで、私は思わず笑ってしまった。男の子は安心したように、パパの袖をぎゅっと握った。ああ、こういう空気、いいな。怒鳴らない。責めない。ただ、笑って受け止める。その空気が、子どもの表情をこんなにも柔らかくするんだ。

昼休み、休憩室に入ると、ミキがコーヒーを飲んでいた。

「マユミ、昨日の夜どうだった?」

「ちょっとだけ、いい感じだったよ」

「そっか。よかった」

ミキは嬉しそうに笑った。

「ユウマくん、最近どう?」

「昨日ね、パパとキャッチボールしたんだって」

「おお、それはいいね。子どもってさ、親の仲がいいと、すぐ顔に出るんだよ」

私は思わず笑った。

「サエコさんも同じこと言ってた」

「でしょ?あの人、見る目あるからね」

ミキはコーヒーを飲みながら言った。

「家の空気って、ほんとに大事なんだよ。でもね、完璧じゃなくていいの。ちょっとずつ変われば、それで十分」

私は胸の奥がじんわり温かくなった。

仕事を終えて家に帰ると、ユウマがリビングでノートを広げていた。

「ママ、見て!」

ノートには、図工で作った作品のスケッチが描かれていた。色鉛筆で丁寧に塗られた、カラフルな魚。

「すごいじゃん。これ、発表したの?」

「うん!先生がね、すごく丁寧だねって言ってくれた!」

ユウマは誇らしげに笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。この子、こんなに集中できるんだ。昨日の沈黙の夜とは違う。今日のユウマは、安心した顔で、自分の世界に没頭している。私はそっとユウマの頭を撫でた。

「よかったね。ほんとに上手だよ」

「パパにも見せる!」

その言葉が、なんだかとても嬉しかった。

夕食の時間。タカシがユウマのノートを見ながら言った。

「お、これすごいじゃん。色の使い方、いいな」

「ほんと?パパ、見てくれると思った!」

ユウマは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私は胸の奥がじんわり温かくなった。家の空気って、こんなにも子どもの表情に出るんだな。今日のユウマは、昨日よりずっと柔らかい顔をしていた。

シチュー

その日の夕方、スーパーのレジはいつもより静かだった。雨が降りそうな空のせいか、客足が少し少ない。私はレジを打ちながら、ユウマの図工のノートのことを思い返していた。あの子、あんなに丁寧に色を塗るんだな。集中しているときのユウマの顔は、どこか小さな職人みたいで、私はそれを見るのが好きだった。

そんなことを考えていると、レジに並んでいたお客さんが、小さな声で言った。

「これ、落としちゃって」

見ると、シチューのルウの箱が少しへこんでいる。

「大丈夫ですよ。交換してきますね」

私は箱を受け取りながら、ふと、そのお客さんの隣にいた男の子に目がいった。男の子は、へこんだ箱を見て不安そうにしている。

「パパ、怒ってない?」

「怒らないよ。箱が勝手に転んだんだ」

その言い方が、昨日の卵のお父さんとも、プリンのお父さんとも似ていて、私は思わず笑ってしまった。優しい声って、こんなにも空気を変えるんだな。そう思った。

仕事を終えて外に出ると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。傘を開いて歩いていると、前からユウマが走ってきた。

「ママー!」

「走ったら危ないよ」

「だってね、今日ね、先生が褒めてくれたんだよ!」

ユウマは息を弾ませながら言った。

「図工の発表、すごくよかったって!」

「ほんと?よかったね」

「うん!パパにも言ったよ!」

私は胸の奥がじんわり温かくなった。パパにも言った。その言葉が、なんだかとても嬉しかった。

家に帰ると、タカシがキッチンでシチューを作っていた。

「おかえり」

「ただいま。シチュー?」

「うん。ユウマが食べたいって言うから」

タカシは照れくさそうに笑った。

「今日、学校で褒められたんだってな」

「うん。すごく嬉しそうだったよ」

タカシは鍋をかき混ぜながら言った。

「昨日のこと、悪かったな」

私は少し驚いた。

「いや、私も悪かったよ」

「でも、今日のユウマ見てたら、なんか、ちゃんとしなきゃなって思った」

その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。

夕飯のシチューを囲んでいると、ユウマがふと顔を上げた。

「ねえ、パパとママ、昨日ケンカした?」

私は一瞬、箸を止めた。タカシも同じように固まった。ユウマは、不安そうな目で私たちを見ている。私は深呼吸した。

「うん。ちょっとだけね。でも、もう仲直りしたよ」

タカシも続けた。

「ごめんな。ユウマの前で、嫌な空気にしちゃって」

ユウマはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと笑った。

「そっか。よかった」

その笑顔は、ここ最近でいちばん柔らかかった。

ユウマが寝たあと、タカシがぽつりと言った。

「あいつ、気づいてたんだな」

「うん。子どもって、空気読むからね」

「そうだな」

タカシはソファに座り、少しだけ肩を落とした。

「俺、もっとちゃんとしたいな。ユウマの前では、できるだけ穏やかでいたい」

私は隣に座り、そっとタカシの手に触れた。

「うん。私もそうしたい」

その瞬間、部屋の空気がふっと柔らかくなった。まるで、長い間閉め切っていた窓を開けて、新しい風が入ってきたような感覚だった。

翌朝。ユウマがランドセルを背負いながら言った。

「パパ、今日もキャッチボールしようね!」

「おう、いいぞ」

タカシは笑ってユウマの頭を撫でた。その光景を見て、私は胸の奥がじんわり温かくなった。家って、こういう場所でいいんだ。完璧じゃなくていい。時々ぶつかってもいい。でも、戻る場所があればいい。ユウマの笑顔が、その答えを教えてくれていた。

私は玄関のドアを開け、朝の光の中へ一歩踏み出した。

「今日も、いい日になるといいな」

そうつぶやくと、風がやさしく頬を撫でた。

AIラジオ「この記事の解説」

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