住み込み職員30歳、貯金120万、結婚絶望。どん底のヒロが極真空手×お菓子×絵画を掛け合わせたら、1年後に岡山で自分の店と奥さんを手に入れた話
🌿住み込み職員30歳、貯金120万、結婚絶望。どん底のヒロが極真空手×お菓子×絵画を掛け合わせたら、1年後に岡山で自分の店と奥さんを手に入れた話

朝5時半の目覚ましでヒロは起きた。まだ暗いグループホームのバルコニー横のサンルームが彼の居室だった。古い日本家屋でサンルームとは呼ばれているが、実際には縁側だ。板の廊下に敷かれた布団から体を起こす。週に2回ある朝食の当番だ。


グループホーム朝のルーティン

ヒロはまず、熱いシャワーをあびる。寝癖を直し、髭剃りをする。歯磨きをしたあと、朝食の準備に取り掛かった。納豆とご飯、テーブルに醤油や箸を並べる。その日の朝食と並行して、ハムとチーズをスライスし、トーストの準備をする。こちらは、利用者4名が福祉作業所で食べる弁当になる。

利用者も職員もだいたい同じ年齢だ。利用者はマサシさん(てんかんを持っている)、歩行が困難なトミオさん、同じことしかしゃべらないトシさん、背中が曲がっているヨウジさんがいる。住み込みの職員も4人。男ばかりで申し訳ないが、中村さん、田中さん、佐藤さん、鈴木さんだ。

朝食の準備はあっという間に終わった。手早く正確に動くことは、高校時代から始めた極真空手の黒帯としての訓練と、日々の製菓見習いの仕事で培われた切れ味だ。

トーストに塗るピーナッツバターが切れていたので、買い物当番の中村さんに後で伝えようと思う。まだみんなが部屋から降りてこない間に、ヒロはコップにたっぷり注いだオレンジジュースを一気に飲んだ。

誰もいない静かな空間で、ヒロはふと、サンルームの隅に置かれた大きな段ボール箱を見た。それは、彼が今週末から始める副業の道具一式が入った箱だった。

キャンバス

朝食当番を終え、ヒロはいつものルーティンに戻った。午前10時から職員会議が始まるまでの間、彼は利用者たちの使う共有タオルなどの洗濯や共用部分の掃除を手際よくこなしていく。空手で培ったムダのない動きと、製菓見習いで求められる正確な手順は、グループホームの日常業務においても大いに役立っていた。

ヒロは高校を卒業してすぐに就職したのだが、そこがケーキ屋さんだったのだ。しかし、彼の新しい副業。それは、誰も想像しない絵画制作だった。

暇つぶしにSNSで極真空手の動画を検索していたとき、ふとした間違いで流れてきた一本の動画に心を奪われた。それは、小さなキャンバスに、色鮮やかな小鳥が寄り添う作品の制作過程だった。ヒロは、その精密さと色の鮮やかさに深く感心した。

「自分でもあんな絵が描けたらな」

そう思った瞬間から、ヒロの凝り性が動き出した。彼はキャンバスの作り方を検索し、木枠の材料を集め、絵の具の種類を調べ、アクリル絵の具を一通り揃えた。そして、サンルームの隅の段ボール箱の中には、彼が自分で正確に組み立てたF5号の白いキャンバスが静かに眠っていた。

しかし、キャンバスに絵筆を走らせる勇気は、まだ彼にはなかった。

その日の午前中、ヒロはまず1時間の職員会議を終え、続けて1時間の掃除と洗濯を手際よく完了させた。目的は、午後の休憩時間を確保することだ。

昼12時から午後3時までの3時間ある自由時間。通常なら近所のカフェへ行ったり、町中へ買い物に出たりする時間だが、ヒロはそれを削ることに決めた。

昼食を急いで済ませたヒロは、誰にも見られないよう慎重に、白いキャンバスをサンルームの窓際へと運んだ。

初めての作業は、まず色を塗ること。

極真空手で鍛え上げた鋼のような体躯を持つ男が、緊張で少し震える手で、パレットナイフと絵筆を握りしめた。黒帯の切れ味は、この未知の白い壁に、どのような色を刻み込むのだろうか。

グループホーム職員からの依頼

ヒロが初めてキャンバスに色を塗って数日後のこと。昼休憩、サンルームの隅で静かに筆を動かしているヒロの背後に、職員の中村さんが立っていた。

「ヒロさん、それ、ヒロさんが描いたのですか?」

中村さんの目線は、ヒロが先日試しに描いてみた、少し不格好だが鮮やかな黄色のカナリアの絵に向けられていた。

「ええ、まあ。趣味でちょっと」

ヒロが答えると、中村さんは突然、真剣な顔つきになった。

「ヒロさん、俺、ヨリコっていう24になる妹がいる。知ってると思うけど。小鳥が好きで、来月の誕生日、妹が喜びそうなものを探してる。小鳥の絵を妹の誕生日祝いに描いてほしいんだ。 3千円で。」

金銭のやり取りを考えていなかったヒロは、お金は結構ですと即座に辞退した。しかし、誰かのために描くという依頼の響きは、キャンバスに向かうことへの大きな動機付けとなった。二つ返事で快諾し、ヒロは早速、夜勤明けの時間を使い、より丁寧にキャンバスに向かい始めた。

空手の稽古で培った集中力と、製菓で要求される色の調合の正確さが、ここで活かされた。特にカナリアの羽毛の質感と、愛らしい目の輝きを表現するために、ヒロは筆の抜きや、留めに細心の注意を払った。

そして完成した絵を中村さんに渡す日、あれから1週間経っていた。中村さんは絵を見るなり、目を見開いて声を上げた。

「そうそう、これこれ!この優しそうな感じがいいんだよ!ありがとう、ヒロさん!」

そのシンプルで偽りのない喜び方に、ヒロの胸には小さな達成感が広がった。

1ヶ月後の11月24日土曜日、グループホームでは年に一度のオープンハウスが開催された。利用者さんのご家族や地域住民が訪れる賑やかな日だ。

ヒロが食器の片付けをしていると、女性の声に呼び止められた。

「あの、ヒロさんですか?」

見れば、中村さんにどこか似た、優しそうな女性が立っている。ヨリコさんだ。

「素敵な絵をありがとうございます。カナリアの優しそうな目が好きです。うちのリビングに飾ってありますよ」

ヒロは少し戸惑いながら「いえ、とんでもない」と頭を下げた。

その瞬間、ヒロはハッとした。自分がただ暇つぶしで始めた絵画制作という副業が、誰かの日常に具体的な優しさを届け、喜びを生み出しているという事実。

それは、毎日繰り返されるグループホームの仕事とは違う、個人のスキルが誰かの心を動かした確かな手応えだった。

この日を境に、ヒロのサンルームでの制作時間は、単なる趣味ではなく、誰かの期待に応える仕事へと変わっていく。そして、次の依頼は、利用者さんのうちの一人から、静かに持ち込まれることになるのだった。

黒帯の動と静

クリスマスを間近に控えた慌ただしい頃、ヒロは、車椅子で生活している利用者、トミオさんから声をかけられた。

「ボクの通ってるずけどんどん(福祉作業所)でね、なんかインテリアが欲しいって言ってたんだけど、ヒロさん、絵が上手でしょ」

それは依頼とも、単なる情報連絡ともつかない、トミオさん特有のぼんやりとした話し方だった。ヒロは「へー、そうなんですね」と返事をするに留めたが、その言葉が年明けまでずっと気にかかっていた。

正月休みが明けてすぐ、ヒロは、ずけどんどんに電話を入れてみた。すると、そこの職員から驚きの事実を聞かされた。

「実は、トミオさんに言ったのは、車椅子でも描ける絵とかを描いたらどうですか?売れるかどうかわからないけど、という提案だったんです」

トミオさんの真意は、「誰か上手な人に絵を描いてもらって、ずけどんどんで売ることができるのではないか」という、優しさと商才が入り混じった考えだったのだろう。

ヒロはトミオさんの純粋な気持ちを汲み取りながらも、他の職員にも話しておいた。

「なるほど、そうだったんですね」

その職員はいった。ヒロは、続けてその職員に質問してみる。

「トミオさんだったら、どんな絵を描かれると思いますか?」

その職員は少し考え込み、答えた。

「うーん、どうでしょうね。トミオさん、きっと車椅子生活だから、歩いてみたいとか、自分のスピードで進んでみたいとか、躍動的なことを考えているかもしれませんし。逆に、現状に合わせた静止した視点を求めているかもしれませんね」

ヒロの心臓が、静かに強く打った。

躍動と静止。

その二律背反の意味を、彼は誰よりも深く理解しているつもりだった。高校時代から打ち込んできた極真空手において、型は一瞬の静止の連続であり、組手は爆発的な躍動の瞬間だ。どちらが欠けても、真の強さは成立しない。

ヒロは、トミオさんのために描く絵のモチーフを「トンビ」に決めた。

小鳥や鳩でもない。鷲や鷹のように、最も強く、人気がある鳥でもない。どちらかといえば、ありふれた、一般的には中の下に位置する鳥だと思う。

しかし、トンビは風を捉え、羽をバタバタさせずに静止したまま空中を滑空する。その姿は、一見穏やかなトミオさんの内に秘めた、自由に飛び回りたいという躍動の願いを、ヒロなりに表現するものだと感じた。

ヒロは、その絵を白黒(モノクローム)で仕上げた。色彩の誘惑を断ち切り、形とコントラストの力だけで静の中の動を表現する。

完成した絵の隅に、「トミオ」とサインを入れ、彼に渡した。

絵を受け取ったトミオさんは、いつもと同じように、特に大きなリアクションはしなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、絵を見つめていた。

その静かな視線の奥に、ヒロは確かな手応えを感じた。それは、自分が持つ黒帯の精神性が、キャンバスという副業を通じて、初めて人の心に深く触れた瞬間だった。

住み込みの葛藤

ヒロは30歳。結婚は、彼にとって手の届かない夢になりつつあった。

このグループホームの仕事は好きだったが、住み込みという形態がネックだった。結婚すれば住み込みではなくなる。業務は続けられるものの、家賃を払い、所帯を持つには、この最低賃金以下の給料ではどうにもならない。

「この仕事を続けるためには、結婚を諦めなければならない」

そう思い込んでいたが、心の奥底では、逆なのではないかと薄々気づいていた。結婚できないからという理由で、住み込みという安定したコンプレックスに逃げ込んでいるのではないか、と。ヒロは、その真実から目を逸らし続けていた。

最低賃金と言い値の葛藤

絵を副業にするといっても、収入は微々たるものだった。彼はX(旧Twitter)に自分の絵の写真をアップロードし、DMで連絡してきた人が申し込んできた「4千円で」「2千円で買いたい」と相手の言い値で売っていた。送料を引けば、月に2枚売れたとしても5千円程度の収入にしかならない。

それは、彼流の、強いけど優しいという生き様でもあった。極真空手の黒帯として、知らない人から不当に高い金額を受け取る行為が、どうにも気持ちが良くなかったのだ。自分の技術や労働に正当な価値を付けることに、強い抵抗を感じていた。

しかし、流れが変わったのは、トミオさんが描いてもらったモノクロのトンビの絵が、ずけどんどんに飾られてからだ。思いのほか評判を呼び、ずけどんどんを通じて、ヒロの絵の注文が増え始めた。注文を取り次いでくるのは、もちろんトミオさんだ。

「ずけどんどんの人がね、ヒロさんの絵はエネルギーがあるって言ってたよ」

トミオさんの言葉に背中を押され、ヒロはトミオさんが持ってきた言い値を飲むことを決意した。それは、おそらく、ずけどんどんの職員が決めたのだろう。絵の定価は2万円、そしてトミオさんへの卸値が1万円という条件だった。

一気に跳ね上がった金額に戸惑いはしたが、ヒロはこれをトミオさんとの共同作業の報酬だと解釈した。

トミオさんが注文を取り、自分が描く。この新しい連携によって、ヒロのアクリル絵の具の厚塗り鳥の絵という独自の画風も確立した。それは、製菓見習いの時に培ったクリームの厚みを操る技術と、空手の力強い突きのような勢いを筆に込めたスタイルだった。

相変わらず、知らない人に直接「これを売ります」というのは苦手だった。だが、トミオさんが間に立ち、社会との緩衝材となってくれることで、ヒロは初めて商売をしているという確かな手応えと、最高の喜びを感じていた。

トミオさんとの共同作業で、ヒロは自分のスキルが人に喜ばれ、それが対価を生むというビジネスの楽しさに目覚めていた。

絵の注文は途切れず、安定した収入は、彼が長年抱えてきた最低賃金と結婚のコンプレックスを少しずつ溶かしていった。結婚を諦める必要は、もうない。ただ、彼には、もっと多くの人に、自分の手から生み出されたものを届けたいという、新たな欲求が生まれていた。

再出発

31歳になった春、ヒロは、働いてきたグループホームを退職した。

嫌なことがあったわけではない。トミオさんとの金銭的なやり取りも、すべて、ずけどんどんを経由しており、グループホームでも周知の事実だった。彼が辞めたのは、自分のコンプレックスから逃げるためではなく、新たな夢を追うためだった。

「ヒロさん、さみしくなるよ」

サビ管の鈴木さんが冗談めかして言った。利用者たちは、この変化を正確に理解できているのかどうか分からなかったが、ヒロの顔を見ると手を振ってくれた。

退職後、ヒロは実家のある岡山へ戻った。貯金は120万円。両親が近所にあった築50年の古い家を相当な安値で購入してくれていた。ヒロは両親に家賃を払う約束をし、空手で鍛えた体力と、グループホームで身につけた段取りの良さを活かし、その家をクッキー屋の店舗へと改装していった。

そう、ヒロは製菓という自分の原点に戻ることを決めたのだ。

絵画制作で知ったビジネスの楽しさ。もっと多くの人に、誰でも気軽に買えるものを売ってみたい。日持ちのするクッキーなら、それが可能になる。

そして、お店の名前を、ヒロは迷うことなく決めた。

トミオのトンビ・ロゴマークには、彼がトミオさんのために描いたモノクロのトンビの絵を用いた。

そこには、ヒロがグループホームで得た人の優しさと、空手の、静の集中力、そしてキャンバスで表現した躍動の感情のすべてが詰まっていた。

ヒロは、エプロンを締め、オーブンに向かう。生地を練り上げる手つきは、黒帯の道着を着ていた頃よりも、製菓見習いだった頃よりも、ずっと力強く、そして優しさに満ちていた。

そしてその次の春、ヒロはヨリコさんを岡山へ迎えるのだった。

むすびに(byヒロ)

岡山へ向かう新幹線の窓から、ふと空を見上げました。そこには、あの日トミオさんのために描いたトンビのように、風に乗って悠々と、けれど確かな意志を持って羽ばたく自分の姿が重なりました。

30歳のとき、サンルームで震える手で筆を握ったあの瞬間が、僕の本当の再出発でした。

来年の春、店の入り口にはトミオのトンビの看板が掲げられ、その横にはヨリコさんの笑顔があるでしょう。一度は諦めた夢の続きを、僕は今、最高に香ばしいクッキーの香りと共に歩み始めています。

Xでフォローしよう

おすすめの記事