聞いてるつもり④

聞いてるつもり④ 全記事
聞いてるつもり④

澄江が二十代で結婚した頃、夫の隆は、今と同じように寡黙な人だった。仕事から帰ってくると、靴を脱ぎ、黙って風呂に入り、夕飯を食べ、テレビをつけ、酒を飲む。その一連の動作に、ほとんど言葉はなかった。

寡黙な夫

澄江は最初、それを大人の男らしさだと思っていた。けれど、結婚して数年が経つと、その沈黙が胸に重くのしかかるようになった。ある夜、澄江は勇気を出して言った。

「今日ね、ちょっと嫌なことがあって」

隆はラジオに耳を向けたまま言った。

「そうか」

その一言で、澄江の胸の奥がすっと冷えた。

(ああ、私は母と同じことをされているんだ)

その瞬間、澄江の中で何かが静かに閉じた。

それからしばらく、澄江は夫に話しかけるのをやめた。隆もまた、澄江が話さなくなったことに気づいていたが、どう声をかけていいかわからなかった。

ある夜、食卓に二人きりで座ったとき、隆がぽつりと言った。

「最近、あんまり話さんね」

澄江は箸を置いた。

「話しても、聞いてくれんやろ」

隆は驚いたように顔を上げた。

「聞いとるつもりやったが」

「つもりじゃ、伝わらんとよ」

その言葉は、隆の胸に深く刺さった。

その夜、隆は珍しく酒を飲まずに、澄江の隣に座った。

「澄江。俺は話すのが下手なんだ」

澄江は黙って聞いた。

「仕事で疲れて帰ってきて、家では何も考えたくなくて、黙っとる方が楽やった」

隆は続けた。

「でも、澄江が話したいときに、俺が黙っとったら、そりゃ寂しいよな」

澄江は胸が熱くなった。夫がこんなふうに言葉を探しながら話す姿を、初めて見た。

「私もね、話すのが得意じゃないとよ。でも、聞いてほしかった」

隆はうなずいた。

「わかった。これからは、もう少し聞くようにする」

その言葉は、ぎこちなくても、確かに澄江の胸に届いた。

ゆっくり変わる夫婦

それからの隆は、少しずつ変わっていった。仕事から帰ると、まず澄江に声をかけるようになった。

「今日、どうやった」

その言い方は不器用で、ぎこちなくて、ときどき間が空いた。でも、澄江はその不器用さが嬉しかった。

ある日、隆が珍しく自分のことを話し始めた。

「今日、部下が失敗してな。怒る気になれんで、困った」

澄江は黙って聞いた。隆は話し終えると、照れたように言った。

「話すと、ちょっと楽になるな」

澄江は微笑んだ。

「聞いてくれてありがとうって、言われたことがあるとよ。話す方も、聞く方も、どっちも大事なんだよ」

隆は小さくうなずいた。

老いて、やっと並んで歩けた

年月が流れ、大輔が大人になり、家を出ていった。夫婦二人の生活は、静かで、穏やかで、若い頃よりもずっと会話が増えていた。

ある夕方、二人で海沿いを散歩していたとき、隆がぽつりと言った。

「澄江。俺は若い頃、お前の話を聞かんで悪かったな」

澄江は驚いた。

「急にどうしたと」

「年取ると、いろいろ思い出すんだ。お前が話したそうにしとったのに、俺は気づかんふりしとった」

澄江は首を振った。

「もういいとよ。今、こうして話しながら歩けとるけん」

隆は照れくさそうに笑った。

「そうやな」

その笑顔は、若い頃よりもずっと柔らかかった。

隆が病気で倒れたとき、澄江は毎日病院に通った。隆は弱々しい声で言った。

「澄江。お前の話、もっと聞きたかったな」

澄江は夫の手を握った。

「聞いてくれたよ。ゆっくり、少しずつ。私は嬉しかったよ」

隆は目を閉じ、静かにうなずいた。その日、澄江は思った。

(私は、聞くことで夫とつながっていたんだ)

そして、夫が亡くなったあとも澄江は、聞くことを続けた。大輔にも、美咲にも、悠斗にも。誰かの話を聞くたびに、夫との日々が胸に浮かんだ。聞くというのは、愛するということなんだ。澄江はそう信じて生きてきた。

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