澄江が二十代で結婚した頃、夫の隆は、今と同じように寡黙な人だった。仕事から帰ってくると、靴を脱ぎ、黙って風呂に入り、夕飯を食べ、テレビをつけ、酒を飲む。その一連の動作に、ほとんど言葉はなかった。
寡黙な夫
澄江は最初、それを大人の男らしさだと思っていた。けれど、結婚して数年が経つと、その沈黙が胸に重くのしかかるようになった。ある夜、澄江は勇気を出して言った。
「今日ね、ちょっと嫌なことがあって」
隆はラジオに耳を向けたまま言った。
「そうか」
その一言で、澄江の胸の奥がすっと冷えた。
(ああ、私は母と同じことをされているんだ)
その瞬間、澄江の中で何かが静かに閉じた。
それからしばらく、澄江は夫に話しかけるのをやめた。隆もまた、澄江が話さなくなったことに気づいていたが、どう声をかけていいかわからなかった。
ある夜、食卓に二人きりで座ったとき、隆がぽつりと言った。
「最近、あんまり話さんね」
澄江は箸を置いた。
「話しても、聞いてくれんやろ」
隆は驚いたように顔を上げた。
「聞いとるつもりやったが」
「つもりじゃ、伝わらんとよ」
その言葉は、隆の胸に深く刺さった。
その夜、隆は珍しく酒を飲まずに、澄江の隣に座った。
「澄江。俺は話すのが下手なんだ」
澄江は黙って聞いた。
「仕事で疲れて帰ってきて、家では何も考えたくなくて、黙っとる方が楽やった」
隆は続けた。
「でも、澄江が話したいときに、俺が黙っとったら、そりゃ寂しいよな」
澄江は胸が熱くなった。夫がこんなふうに言葉を探しながら話す姿を、初めて見た。
「私もね、話すのが得意じゃないとよ。でも、聞いてほしかった」
隆はうなずいた。
「わかった。これからは、もう少し聞くようにする」
その言葉は、ぎこちなくても、確かに澄江の胸に届いた。
ゆっくり変わる夫婦
それからの隆は、少しずつ変わっていった。仕事から帰ると、まず澄江に声をかけるようになった。
「今日、どうやった」
その言い方は不器用で、ぎこちなくて、ときどき間が空いた。でも、澄江はその不器用さが嬉しかった。
ある日、隆が珍しく自分のことを話し始めた。
「今日、部下が失敗してな。怒る気になれんで、困った」
澄江は黙って聞いた。隆は話し終えると、照れたように言った。
「話すと、ちょっと楽になるな」
澄江は微笑んだ。
「聞いてくれてありがとうって、言われたことがあるとよ。話す方も、聞く方も、どっちも大事なんだよ」
隆は小さくうなずいた。
老いて、やっと並んで歩けた
年月が流れ、大輔が大人になり、家を出ていった。夫婦二人の生活は、静かで、穏やかで、若い頃よりもずっと会話が増えていた。
ある夕方、二人で海沿いを散歩していたとき、隆がぽつりと言った。
「澄江。俺は若い頃、お前の話を聞かんで悪かったな」
澄江は驚いた。
「急にどうしたと」
「年取ると、いろいろ思い出すんだ。お前が話したそうにしとったのに、俺は気づかんふりしとった」
澄江は首を振った。
「もういいとよ。今、こうして話しながら歩けとるけん」
隆は照れくさそうに笑った。
「そうやな」
その笑顔は、若い頃よりもずっと柔らかかった。
隆が病気で倒れたとき、澄江は毎日病院に通った。隆は弱々しい声で言った。
「澄江。お前の話、もっと聞きたかったな」
澄江は夫の手を握った。
「聞いてくれたよ。ゆっくり、少しずつ。私は嬉しかったよ」
隆は目を閉じ、静かにうなずいた。その日、澄江は思った。
(私は、聞くことで夫とつながっていたんだ)
そして、夫が亡くなったあとも澄江は、聞くことを続けた。大輔にも、美咲にも、悠斗にも。誰かの話を聞くたびに、夫との日々が胸に浮かんだ。聞くというのは、愛するということなんだ。澄江はそう信じて生きてきた。

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