家具職人

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弘前市の城下町にある実家は、りんご農家の名残がある古い家だ。34歳のゆうたは一人暮らしだが、実家にはしょっちゅう顔を出す。母・良子(りょうこ)は、口うるさいが情に厚い。父・勝(まさる)は、無口だが、りんごの皮むきだけは異様に速い。その日も、ゆうたが工房から帰ると、母が玄関で腕を組んでいた。

りんごの香り

弘前市の朝は、りんご畑の甘い匂いが風に混ざる。34歳のゆうたは、駅前の小さな家具工房で働いている。旅行が趣味だが、遠くへ行くよりも、近所の奥入瀬渓谷を歩くのがいちばん好きだ。

「遠く行かなくても、ここが一番落ち着くんだよなあ」

そう言って、休みの日は必ず渓谷の水音を聞きに行く。ゆうたにとって奥入瀬は心の充電スポットだった。

その日、ゆうたは作った小さなチェストをお客さんに届けた。帰ってくると、工房の奥で40年の職人・親方が鉋くずを払っていた。

「お前、なんで自分のいい仕事を、自分で安売りすんだ」

「え、安売りなんてしてませんよ。お代もちゃんと」

「金の話じゃねえ。お前がさっき客に言ったあの一言だ」

親方は、木目を確かめるようにゆっくりと顔を上げた。

「お前、納品のとき何て言った」

「まだ未熟なもんですが、よかったらって」

「それだよ」

親方は、鉋を置いてため息をついた。

「客はな、品を見る前に、売る奴のその一言を最初の物差しにすんだ。未熟から見始めたら、どう転んでもそこから上には行かねえ」

ゆうたは、胸の奥がチクリとした。

親方は、作業台の上に木片を並べながら言った。

「いいか。仕事を殺す前置きと、活かす前置きはここが違う」

<自分で値引きする前置き>

  • まだ未熟なもんで
  • 素人に毛が生えた程度で
  • 大したもんじゃないですが

<値打ちを先に置く前置き>

  • この板、三年寝かせた木です
  • 継ぎ目は、手で刻みました
  • 十年は、狂いません

「自慢しろってんじゃねえ。事実を先に置く。それだけだ」

「でも、自分からいい出来ですなんて言えませんよ」

親方はふっと笑った。

「だから事実だと言ってんだ。三年寝かせた、手で刻んだ。それは自慢か?ただ、やったことだろ」

その言葉は、奥入瀬の水音みたいに、ゆうたの胸に静かに染みていった。その日の夕方、ゆうたは奥入瀬渓谷を歩いた。水の流れは、いつもより強く見えた。

(俺、ずっと未熟ですって言い訳してたのかもしれないな)

苔むした岩に腰を下ろし、ゆうたは自分の手を見つめた。この手で、何百回も木を削ってきた。親方に怒られながら、褒められながら、積み重ねてきた時間がある。

(事実を言うだけなら、俺にもできるかもしれない)

渓谷の風が、背中を押した。

翌週、ゆうたは新しい引き出しを納品した。玄関先で、いつもの癖で「未熟なもんですが」が喉まで出かかった。ぐっと飲み込む。代わりに、こう言った。

「この引き出し、湿気で膨らまないよう、木を三年寝かせてあります」

客は、引き出しを二度、開け閉めした。

「これ、長く使えそうだね」

その一言に、ゆうたの胸がじんわり熱くなった。弘前の空は、りんご色に染まっていた。ゆうたは工房に戻りながら、少しだけ胸を張った。

(俺の仕事、ちゃんと事実で勝負していいんだ)

奥入瀬の風が、また背中を押してくれた気がした。

奥入瀬での出会い

「ゆうた、あんたまた洗濯物ためてるべ?あんたの部屋、湿気でカビ生えるよ」

「いや、今日は親方に怒られてさ」

「怒られたの?あんた、また未熟ですがって言ったんでしょ」

「なんで知ってんの」

「親方からLINE来た」

(親方、なんで母に報告すんだよ)

家族は、ゆうたの成長を心配しているのか、ただ面白がっているのか、微妙なラインで見守っていた。

ゆうたが働く「工房ひろさき」は、親方とゆうた、そしてもう一人。後輩のミナト(26歳)。

  • やたら明るい
  • やたら声が大きい
  • やたら恋愛相談をしてくる

「先輩、今日の納品どうでした?」

「まあ、なんとか」

「また未熟ですがって言ったんすか?」

「言った」

「先輩、それクセですよ。僕なんて逆にこれは世界に一つだけの作品です!って言いすぎて、親方に怒られましたけど」

(それはそれで問題だろ)

工房は、親方の渋い声と、ミナトの騒がしい声が混ざる、不思議なバランスで成り立っていた。休日、ゆうたはいつものように奥入瀬渓谷へ向かった。水音が近づくと、胸の奥がふっと軽くなる。

(ここに来ると、親方の言葉も、母の小言も、ミナトの声も、全部ちょうどよく薄まるんだよな)

そんなことを思いながら歩いていると、前方で女性がしゃがみ込んでいた。

「すみません、落とし物、あ、これ!」

女性は、渓流に落ちかけたスマホを必死に拾おうとしていた。

「危ないですよ」

ゆうたは反射的に手を伸ばし、スマホをキャッチした。

「わっ、ありがとうございます!助かりました!」

女性は、旅行者らしくリュックを背負い、首からカメラを下げていた。

「写真、撮りに来たんですか?」

「はい。奥入瀬、ずっと来たくて。私、東京から来たんです」

(東京。都会の人だ)

「私、さくらって言います。あなたは?」

「ゆ、ゆうたです」

「ゆうたさん、奥入瀬詳しいんですか?」

「まあ、近所なんで」

「近所!?いいなあ!」

さくらは、目を輝かせて渓谷を見渡した。

その横顔を見て、ゆうたは少しだけ胸がざわついた。

さくらは、ゆうたの案内で渓谷を歩きながらふと聞いた。

「ゆうたさん、お仕事は?」

「家具を作ってます。弘前の工房で」

「えっ、すごい!どんな家具を?」

いつものクセで「未熟ですが」が喉まで出かかった。

(親方の言葉、思い出せ)

ゆうたは、深呼吸した。

「今作ってるのは、湿気で膨らまないように、木を三年寝かせてから加工した引き出しです」

「三年!そんなに時間かけるんですね」

「はい。木が落ち着くまで待つんです」

さくらは、ゆっくり頷いた。

「なんか、いいですね。そういう仕事」

その言葉は、親方に褒められるよりも、ずっと胸に響いた。

さくらとは、渓谷の入り口で別れた。

「また弘前に来ますね。ゆうたさん、案内ありがとうございました!」

「い、いえ」

さくらが手を振って去っていく。

ゆうたは、しばらくその背中を見送った。

(なんだろう。奥入瀬の風が、いつもよりあったかい)

家に帰ると、母が待ち構えていた。

「ゆうた、なんかいいことあったべ?」

「な、なんもないよ」

「顔がりんごみたいに赤いよ」

(母の勘、鋭すぎる)

親方と母

翌朝。ゆうたが寝ぼけ眼でトーストをかじっていると、スマホが震えた。母・良子からのLINE。

『昨日の女の人、誰?』

(なんで知ってんの)

返信する前に、玄関のチャイムが鳴った。

「ゆうたー!洗濯物取り込みに来たよー!」

母が、当然のように靴を脱いで上がってきた。

「ちょ、なんで来るの」

「なんか昨日、顔がりんごみたいに赤かったから心配でねえ」

(心配という名の詮索だろ)

母は部屋を見回し、すぐに証拠探しモードに入った。

「女の人の忘れ物とか、ないの?」

「ないよ!」

「じゃあ、なんで顔赤かったの?」

「奥入瀬で、ちょっと人助けしただけ」

「人助け?どんな?」

「スマホ拾っただけ」

「その人、かわいかった?」

「普通」

「普通って言うときは、かわいいときだね」

(母の洞察力、もはや探偵)

工房に着くと、親方が木を削りながら言った。

「おい、ゆうた。昨日、奥入瀬で女の人助けたんだって?」

「なんで知ってるんですか」

「お前の母ちゃんからLINE来た」

(母よ。情報共有の範囲が広すぎる)

後輩ミナトも、目をキラキラさせて寄ってきた。

「先輩、ついに春が来たんすね!」

「来てない!」

「で、どんな人だったんすか?」

「東京から来た旅行者で」

「東京!?都会の風が先輩に!」

「やめろ」

親方はニヤリと笑った。

「で、その人に未熟ですがは言わなかったんだろ?」

「はい。事実だけ言いました」

「ほう。で、反応は?」

「なんか、いいですねって言われました」

親方は、木目を見つめながら小さく頷いた。

「それでいいんだよ」

(親方、今日はやけに優しいな)

昼休み。ゆうたが弁当を食べていると、スマホが震えた。さくらからのメッセージ。

『昨日はありがとうございました!今日も弘前を回るんですが、もしおすすめの場所があれば教えてください』

(え、また連絡くれた)

ミナトが背後から覗き込む。

「先輩、それデートのお誘いじゃないですか?」

「違うよ!」

「じゃあ、なんで顔赤いんすか?」

(お前も母と同じこと言うな)

親方まで近づいてきた。

「行ってこい」

「えっ」

「客に説明する練習にもなる。弘前の良さを事実で伝えてこい」

(親方、そういう押し方する?)

ミナトは背中を押してきた。

「先輩、行ってこいっすよ!僕、今日の仕事全部やっときますから!」

「いや、それはそれで不安なんだけど」

結局、ゆうたは午後からさくらと合流することになった。待ち合わせ場所に行くと、さくらが手を振った。

「ゆうたさん!来てくれたんですね」

「いや、その。仕事の合間に」

「お仕事、大丈夫なんですか?」

「親方が行ってこいって」

「親方さん、優しいですね」

(いや、優しいというか、押しが強いというか)

さくらは、弘前城の桜並木を見ながら言った。

「弘前って、落ち着く街ですね。ゆうたさん、ずっとここなんですか?」

「はい。旅行は好きですけど、結局ここに戻ってきます」

「わかります。なんか、空気がやわらかい」

ゆうたは、少しだけ勇気を出した。

「奥入瀬もまた行きます?」

さくらは、ふわっと笑った。

「行きたいです。ゆうたさんが案内してくれるなら」

(なんだこの破壊力)

夕方、家に帰ると、母が玄関で仁王立ちしていた。

「ゆうた、今日どこ行ってたの?」

「弘前城」

「誰と?」

「一人じゃない」

「やっぱりね!」

(母の嗅覚、もはや野生動物レベル)

父が新聞を読みながらぼそっと言った。

「ゆうた、いい顔してるな」

その一言に、ゆうたは少し照れた。

さくらの影

ある朝、工房に段ボールが届いた。差出人は、さくら。

「先輩、これ絶対ラブレターっすよ!」

ミナトが騒ぐ。

「いや、段ボールでラブレター送る人いないだろ」

親方は無言でカッターを渡してきた。

(開けろ、という無言の圧)

恐る恐る開けると、中には弘前で撮った写真のプリント。そして。小さなメモ、

>『先日は案内してくれてありがとうございました。お礼に写真を送ります。また弘前に行きますね。さくら』

ミナトが叫ぶ。

「先輩、これもう結婚じゃないですか!」

「どこがだよ!」

親方は写真を手に取り、

「この構図、素人じゃねえな」

とつぶやいた。

(え、どういう意味?)

その日の夕方、ゆうたは写真をじっくり見た。

  • 奥入瀬の水の流れ。
  • 弘前城の石垣。
  • ゆうたが案内した小道。

どれも、やけに上手い。

(旅行者の写真ってレベルじゃないよな)

気になって、メモに書かれていた番号に連絡してみた。

「もしもし、さくらです」

「ゆ、ゆうたです。写真、ありがとうございました」

「喜んでもらえてよかったです」

「あの、さくらさんって、写真、趣味なんですか?」

一瞬、沈黙。

「はい。趣味、です」

(今、ちょっと間があったよな)

翌週末。

さくらが「また弘前に行きます」と連絡してきた。ゆうたは奥入瀬で待ち合わせることにした。さくらは、前より少し疲れた顔をしていた。

「大丈夫ですか?」

「えっ、あ、はい。ちょっと寝不足で」

(寝不足?なんで?)

歩きながら、さくらはカメラを構えた。その姿は、やっぱり素人のそれじゃない。

「さくらさん、写真、本当に趣味なんですか?」

さくらは、少しだけ笑った。

「ゆうたさん、鋭いですね」

「いや、そんな」

「実は、東京で、写真の仕事をしてました」

(やっぱり!)

「でも、今は辞めてます」

「どうして?」

さくらは、渓流を見つめたまま言った。

「ちょっと、いろいろあって」

その声は、奥入瀬の水音にかき消されそうなほど小さかった。しばらく歩いたあと、さくらはぽつりと言った。

「私、写真が好きで始めたのに。いつの間にか、好きじゃなくなってしまって」

「仕事が忙しかったんですか?」

「忙しいのもあるけど、もっとこう撮れもっと売れる写真をって言われ続けて。自分の写真じゃなくなっていく感じがして」

ゆうたは、胸が少し痛くなった。

(俺も未熟ですがって言って、自分の仕事を小さくしてたな)

「だから、弘前に来たんです。なんか、ここなら、また好きになれる気がして」

ゆうたは、ゆっくり頷いた。

「奥入瀬、いいですよね。落ち着きますし」

「はい。ゆうたさんが案内してくれたから、余計に」

(え、今の反則じゃない?)

帰り道。さくらはふと立ち止まり、カメラを構えた。シャッター音が、いつもより鋭く響く。

「やっぱり、撮るの好きなんですね」

「はい。好きなんです。でも、好きだからこそ、怖くなるときもあって」

「怖い?」

「また、嫌いになったらどうしようって」

その言葉に、ゆうたは思わず言った。

「大丈夫ですよ。好きなものって、一回離れても、ちゃんと戻ってきますから」

さくらは、驚いたようにゆうたを見た。

「ゆうたさん。なんか、職人さんみたいなこと言いますね」

「いや、職人ですけど」

二人は、少しだけ笑った。家に帰ると、母が仁王立ち。

「ゆうた、今日どこ行ってたの?」

「奥入瀬」

「誰と?」

「一人じゃない」

工房の嵐

その日の朝、工房に入ると、親方が珍しく床を拭いていた。

「おはようございますって、親方どうしたんですか」

「別に。気が向いただけだ」

(親方が床を拭くなんて、年に一度あるかどうかだぞ)

ミナトが耳打ちしてきた。

「先輩、今日さくらさん来るんですよね?」

「うん。ちょっと工房を見たいって」

「それ、デートじゃないですか!」

「違うって」

「じゃあなんで親方が床拭いてるんですか!」

(確かに)

親方は聞こえていたのか、聞こえていないのか、黙々と掃除を続けていた。

昼前。

工房のドアが静かに開いた。

「こんにちは。お邪魔します」

さくらが立っていた。いつもの旅行スタイルではなく、少し落ち着いた服装。カメラは肩から下げている。ミナトが小声で叫ぶ。

「先輩、めっちゃ雰囲気違うじゃないですか!」

「しーっ!」

親方が前に出た。

「お前が、さくらさんか」

「はい。ゆうたさんに案内していただいて」

親方は腕を組んで、じっとさくらを見た。

(親方、なんでそんな父親の彼氏チェックみたいな目なんだよ)

しかし次の瞬間、親方はふっと表情を緩めた。

「いい目してるな」

「え?」

「写真撮る人の目だ」

さくらは驚いたように目を瞬かせた。

工房を案内していると、ミナトがやたら張り切って説明を始めた。

「こちらが先輩の作業台でして!この前の引き出しは三年寝かせた木を使ってまして!先輩は未熟ですがって言いがちなんですけど最近は言わなくなりまして!」

「おいミナト、余計なこと言うな!」

さくらはくすっと笑った。

「ゆうたさんらしいですね」

(いや、らしいって何)

ミナトはさらに続ける。

「先輩、さくらさんの前だと声のトーン変わりますよね!」

「変わってない!」

「変わってます!」

親方が木槌で作業台をドンッと叩いた。

「ミナト、黙れ」

「はい!」

(親方、ナイス)

親方の作業台の前に来ると、さくらは自然とカメラを構えた。

「撮ってもいいですか?」

「好きにしな」

シャッター音が工房に響く。

「すごい。木の表情が、全部違うんですね」

親方は少しだけ目を細めた。

「お前、写真の仕事してたんだろ」

「えっ、どうして」

「見りゃわかる。撮る前に、木の声を聞こうとしてる目だ」

さくらは、言葉を失ったように親方を見つめた。

「そんなふうに言われたの、初めてです」

「東京の連中は、そういうの気にしねえからな」

さくらの表情に、ほんの少し影が落ちた。

ゆうたは、その影に気づいた。

(さくらさん、やっぱり、仕事でいろいろあったんだな)

工房の隅に、ゆうたが作った小さなチェストが置いてあった。

「これ、ゆうたさんが作ったんですか?」

「うん。まだ練習みたいなもんだけど」

(あ、また未熟って言いそうになった)

ゆうたは深呼吸した。

「木を三年寝かせて、湿気に強くしてます。継ぎ目は、全部手で刻みました」

さくらは、ゆっくり引き出しを開け閉めした。

「すごく、静かですね」

「木が落ち着いてるからだと思います」

「ゆうたさんの仕事、好きです」

(え?)

「丁寧で、まっすぐで。なんか、安心します」

(ちょっと待って、これ心臓に悪い)

ミナトが後ろでガッツポーズしている。親方は、なぜか満足そうに頷いている。工房を出る前、さくらはゆうたに小さく言った。

「また来てもいいですか?」

「もちろん」

「ゆうたさんと、親方さんと、ミナトさんと。この工房の空気、好きなんです」

「そ、そうですか」

「東京に戻る前に、もう一度来たいんです」

(東京に戻る前?)

「さくらさん、いつ戻るんですか?」

さくらは少しだけ目を伏せた。

「まだ決めてません。でも、長くはいられないかもしれません」

その言葉は、奥入瀬の風よりも冷たく、ゆうたの胸に残った。

帰らなきゃいけない理由

さくらが工房を訪れた翌日、ゆうたは、なんとなく落ち着かなかった。ミナトがニヤニヤしながら寄ってくる。

「先輩、昨日のさくらさん、めっちゃ工房気に入ってましたよね!」

「まあ、そうみたいだな」

「てか、先輩。さくらさん、東京に戻るって言ってましたよね?」

「うん」

「理由、聞いたんすか?」

「聞いてない」

ミナトは腕を組んでうなった。

「それ、絶対なんかありますよ」

(お前に言われると、妙に不安になるんだよな)

親方は黙って木を削っていたが、ぽつりと言った。

「気になるなら、聞いてこい」

「えっ」

「仕事も人間関係も、気になることを放っとくと、後で面倒になる」

(親方、人生訓が急に重い)

昼休み。ゆうたのスマホが震えた。

さくら:『今日、少しお話ししたいことがあります。時間ありますか?』

(これは、なんかあるやつだ)

ミナトが背後から覗き込む。

「先輩、それ絶対重大発表ですよ!」

「やめろ」

親方がまた木槌でドンッ。

「ミナト、黙れ」

「はい!」

夕方、さくらと弘前公園で待ち合わせた。さくらは、いつもより少し静かな表情だった。

「ゆうたさん、来てくれてありがとうございます」

「うん。どうしたの?」

さくらは、しばらく言葉を探していた。そして、ゆっくり口を開いた。

「東京の会社から、戻ってきてほしいって連絡があったんです」

(やっぱり)

「写真の仕事、ですか?」

「はい。辞めたはずだったんですけど、あなたの写真が必要だって言われて」

ゆうたは胸がざわついた。

(必要だって言われたら、そりゃ、揺れるよな)

さくらは、ベンチに座りながら続けた。

「正直、嬉しかったんです。必要だって言われるのは、やっぱり」

「うん」

「でも、怖いんです。また、あの頃みたいに、売れる写真を撮れって言われ続けて、自分の写真じゃなくなるのが」

ゆうたは、そっと言った。

「さくらさんは、どんな写真が撮りたいの?」

さくらは、少し驚いたようにゆうたを見た。

「そんなふうに聞かれたの、初めてです」

「え?」

「みんな、戻るの?とか仕事どうするの?とか、そういうことばかりで」

ゆうたは、さくらの目をまっすぐ見た。

「俺はさくらさんが好きな写真を撮れる方がいいと思う」

さくらは、ゆっくり息を吸った。

「ゆうたさんって、時々ずるいくらい優しいですね」

(いや、そんなつもりじゃ)

さくらは、少しだけ視線を落とした。

「実はもう一つ理由があるんです」

「うん」

「東京に私をずっと支えてくれた人がいるんです」

(支えてくれた人?)

「その人が、戻ってきてほしいって言っていて、その気持ちにも、ちゃんと向き合わなきゃいけなくて」

胸が、ぎゅっと締めつけられた。

(恋人、なのか?元恋人、なのか?それとも)

ゆうたは、何も言えなかった。さくらは、ゆうたの沈黙に気づいたのか、慌てて言った。

「ごめんなさい!変な意味じゃなくて、その人は、仕事のパートナーで、恋愛とかじゃなくて!」

(あ、そういうこと?いや、でも支えてくれた人って)

ゆうたの頭の中は、りんごの皮みたいにぐるぐる回った。別れ際、さくらは言った。

「ゆうたさん。弘前に来て、工房に行ってゆうたさんと話して、好きな写真を撮りたいって気持ちを思い出しました」

「うん」

「だから、ちゃんと向き合ってみます。東京に戻ることも、自分の気持ちも」

ゆうたは、静かに頷いた。

(向き合うってことは、さくらさんは、東京に戻るかもしれないってことだよな)

弘前公園の風が、少し冷たく感じた。

ようやく気づく

さくらが「東京に戻るかもしれない」と言った翌日。工房はいつも通り木の香りがしているのに、ゆうたの胸だけがざわついていた。ミナトが、やたら心配そうに覗き込む。

「先輩、昨日、なんかあったんすか?」

「別に」

「別にって顔じゃないですよ。りんごジュースに塩入れちゃった人みたいな顔してますよ」

(どんな例えだよ)

親方は、木を削りながら言った。

「気になるなら、気になるって言え」

「え?」

「仕事も恋も、気持ちを誤魔化すと、木みたいに歪む」

(親方、急に恋の話に寄せてくるのやめてほしい)

ミナトが小声で囁く。

「先輩、親方って昔恋愛でなんかあったんすかね」

「知らん」

「でも、なんか説得力あるんすよね」

(たしかに)

仕事帰りに実家へ寄ると、母が玄関で腕を組んでいた。

「ゆうた、あんた、失恋した?」

「してない!」

「じゃあ、なんでそんな雨の日の犬みたいな顔してるの」

(母の例えもおかしい)

父は新聞をめくりながらぼそっと言った。

「ゆうた、好きな人できたんだな」

「ちょ、父さんまで!」

母は目を輝かせた。

「さくらさんでしょ?」

「なんで名前知ってんの」

「親方からLINE来た」

(親方!)

母は、ゆうたの肩をぽんと叩いた。

「気持ちに気づくのは、いいことだよ」

「気づいてないよ」

「じゃあ聞くけど、さくらさんが東京に戻ったら、寂しい?」

ゆうたは、言葉に詰まった。

(寂しい?そんなの)

胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。母は、ゆっくり微笑んだ。

「それが答えだよ」

翌朝。気づいたら、ゆうたは奥入瀬渓谷へ向かっていた。

(なんで来たんだろ)

でも、わかっていた。ここに来れば、さくらのことを考えるからだ。渓流の音を聞きながら、ゆうたは自分に問いかけた。

(さくらさんが東京に戻るの、嫌だ、なんで嫌なんだ。なんでこんなに気になるんだ?)

風が吹き、木々が揺れた。

(俺、さくらさんのこと)

胸の奥で、はっきりとした言葉が浮かんだ。

(好きなんだ)

その瞬間、奥入瀬の水音が、いつもより大きく聞こえた。ポケットのスマホが震えた。

「ゆうたさん、今、大丈夫ですか?」

「うん。奥入瀬にいる」

「えっ、奥入瀬?私も、今、向かってます」

「え?」

「話したいことがあって」

ゆうたの心臓が跳ねた。

(話したいこと?東京に戻る話か?それとも)

渓谷の入り口で、さくらが息を切らして立っていた。

「ゆうたさん!」

「どうしたの?」

「昨日の話、ちゃんと伝えたくて」

さくらは、胸に手を当てて深呼吸した。

「東京に戻るかもしれないって言いましたけど、本当は、まだ決めてないんです」

「うん」

「戻る理由もあるけど、戻りたくない理由もあって」

「戻りたくない理由?」

さくらは、ゆうたをまっすぐ見た。

「弘前が好きになったからです。奥入瀬も、工房も、そして」

ゆうたの心臓がまた跳ねた。

「ゆうたさんと話す時間が、すごく好きだからです」

(ああ、もう無理だ)

ゆうたは、ゆっくり言った。

「俺、さくらさんが東京に戻るって聞いて。すごく寂しかった」

「ゆうたさん」

「なんで寂しいのか、ずっと考えて今日、やっとわかった」

ゆうたは、奥入瀬の風を吸い込んだ。

「俺、さくらさんのこと、好きなんだと思う」

さくらは、驚いたように目を見開いた。そして、ふっと笑った。

「私もです」

渓流の音が、二人の間を優しく流れた。帰り道、さくらは言った。

「東京の仕事、どうするか、もう少し考えてみます。逃げるんじゃなくて、ちゃんと向き合って」

「うん」

「でも、弘前にも、また来ます。ゆうたさんがいるから」

ゆうたは、照れながらも言った。

「俺も、待ってます」

奥入瀬の風が、二人の背中をそっと押した。

エピローグ

さくらと奥入瀬で気持ちを確かめ合った翌週。ゆうたは、実家の玄関を開けた瞬間に母に捕まった。

「ゆうた、なんか、顔が変わったね」

「変わってないよ」

「変わったよ。いい恋してる人の顔になってる」

(母の観察力、もはや超能力)

父は新聞をめくりながら、ぼそっと言った。

「ゆうた、背中が伸びたな」

「え、そう?」

「うむ。男はな、誰かを大事にしたいと思うと、自然と背筋が伸びるもんだ」

(父さん、急に名言を言うのやめてほしい)

母はニヤニヤしながら台所へ戻っていった。

「さくらさん、また弘前来るんでしょ?そのときはうちに連れてきなさいよ」

「いや、それは」

「いいから。あんたの部屋、掃除しとくから」

(母よ、気が早い)

工房に行くと、親方が木を削りながら言った。

「で、どうだった」

「どうって?」

「奥入瀬での話だよ」

(親方、なんで全部知ってるんだ)

ミナトが横から割り込む。

「先輩、告白したんですよね!?」

「したけど、なんで知ってんの」

「親方からLINE来ました!」

(親方!)

親方は、木目を見つめたまま言った。

「ゆうた。仕事も恋も、丁寧にやれ。雑にやると、どっちも割れる」

「はい」

「それと」

親方は、ゆうたの肩を軽く叩いた。

「お前、いい顔してるぞ」

(父さんと同じこと言うなよ)

でも、その言葉は不思議と胸にしみた。さくらは東京に戻った。でも、毎日のようにメッセージが届く。

「今日、撮影の仕事で久しぶりにカメラを持ちました」

「ゆうたさんの工房の写真、見返してます」

「また弘前に行きたいです」

ゆうたは、返信しながら思う。

(遠距離ってほど遠くないけど、でも、会えない日はやっぱり寂しいな)

その寂しさは、前よりずっと前向きな寂しさだった。ある日、実家で夕飯を食べていると、母が言った。

「ゆうた、さくらさんが来る日、決まった?」

「まだ決まってないよ」

「じゃあ、決まったら教えて。お父さんと二人で、りんごの一番いいやつ用意しとくから」

父は静かに頷いた。

「うちのりんごは、誰に出しても恥ずかしくない」

(父さん、急にかっこいい)

母はさらに続ける。

「それと、さくらさん来たら、家族写真撮ってもらおうね」

「いや、まだ早いって!」

「早くないよ。あんた、もう顔に書いてあるもん」

「何が」

「この人を大事にしたいって」

ゆうたは、箸を止めた。

(そうかもしれない)

休日。ゆうたは一人で奥入瀬を歩いた。渓流の音は、いつもと同じなのに、胸の中は少しだけ違っていた。

(さくらさんが戻ってくるかどうかは、まだわからない。でも、俺は、ちゃんと待てる)

風が吹き、木々が揺れた。

(好きな人のために、胸を張って生きる。それだけで、こんなに景色が変わるんだな)

ゆうたは、ゆっくりと笑った。

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