同期はNYで課長、俺は軽バンで半径2km。37歳・うだつの上がらない主任が辿り着いた人生の最終テスト
💊同期はNYで課長、俺は軽バンで半径2km

現在37歳のケンが、古びた置き薬の箱一つを持って顧客宅の玄関先に立つとき、彼がかつて都会の喧騒を離れた郊外の大学でウェブマスターの肩書きを(自称で)手に入れていたことを知る者はいない。


偽りのウェブマスターと郊外の長い道

主任という肩書きはもらったものの、うだつの上がらない今と比べれば、あの頃はまだ人生が滑り台を滑り降りる前の、小さな踊り場にいた時期だった。全ては、ケンが22歳、卒業を目前にして就職浪人確定の瀬戸際で受けた、母校ではない私立大学の教務部職員採用面接から始まった。

「あなたの熱意は買うがね、山田さん。うちで求めるのは、もっと即戦力、具体的に言えばすぐにでも授業のウェブサイトを立ち上げられる人材なんだ。申し訳ない」

面接官の田中教授は優しさと諦めが半々になったような表情でケンに告げた。

ケンは卒業制作でWordを駆使してウェブサイト風のポスターを作ったのが精一杯で、とても即戦力ではなかった。だが、エレベーターホールに向かう途中、田中教授は独り言のように呟いたのだ。

「それにしても、私の出身大学の教務部で、どうやら急にWebデザインができる学生を探しているらしいよ。時代だねぇ」

その瞬間、ケンの頭の中で何かがスパークした。Webデザインができる学生。このキーワードだ。ケンは内定をもらえなかったが、田中教授の出身大学の名前を聞き出した。郊外にある、自然に囲まれた桜丘大学。

次の日、彼は職務経歴書を書き換えた。

「私は、貴学を熱心に推薦する田中教授の紹介で参りました」

もちろん田中教授はケンを推薦していないし、名前を使っても良いとも言っていない。そして、職務経歴書の特技欄にはこう加えた。

ウェブデザイン:学生時代に独学で習得。即座にウェブサイトを構築可能

結果は成功だった。田中教授の名前の権威(と、桜丘大学の採用担当者が田中教授の顔を立てたかったという事情)のおかげで、ケンは面接に漕ぎ着け、ウェブデザインの腕前を問われると、学生時代に作成した、レイアウトが崩壊した手書き風ブログのスクリーンショットを見せて、ミニマルデザインの先駆けですと言い切った。

「ミニマル、なるほど。君のセンスに賭けよう!」

こうしてケンは、桜丘大学の教務部職員、一応ウェブ担当主任として中途採用された。しかし、現実は甘くなかった。桜丘大学は都心から電車で1時間半、そこからバスで30分、さらに徒歩10分という通勤の難所に位置していた。

彼の主な仕事は、学生の履修登録ミス対応、成績証明書の発行、そして教授の代わりに会議室のプロジェクターを立ち上げるIT雑用だった。ウェブデザイン? それは年間予算5万円で、教務部の古いお知らせページに、クリスマスシーズンに雪の結晶のGIFアニメーションを追加するだけの作業だった。

そんな毎日が何年も続いた。ある日の夜、疲労困憊で帰宅したケンは、妻にその日の出来事を興奮気味に話した。

「聞いてくれ。今日さ、教授が、卒業生の名簿をPDFで出力したいんだが、どうやるんだ?って聞いてきたんだ。俺はウェブ担当主任だぞ?なのに、紙の時代かよ!」
「で、できたの?」
「もちろん! プリンタの印刷ボタンを押して、出力先をPDFで保存した! 俺のキャリア史上、最も高度なITスキルを使った瞬間だったな!これで桜丘大学のウェブ担当主任として、世界に通用するスキルを身につけた!」

妻は無言で味噌汁を差し出し、一言。
「お疲れ様。私でも知ってるわ。部長さんになったあなたの同期は、今、ニューヨークにいるらしいよ」

ケンの心に刺さった小さなトゲは、郊外の大学から都心へ向かう毎朝の長い通勤電車の中で、少しずつ彼の自信を削り取り続けていくのだった。そして、ウェブデザインの知識が皆無のケンが、うっかり大学のトップページで休講日のお知らせを大学設立記念日のお知らせに上書きしてしまうという、小さなデジタル事故が起こるまで、そう時間はかからなかった。この事故が、ケンのウェブマスターとしてのキャリアに終止符を打つ、最初の小さな鐘の音となったのだ。

医療と福祉の時代、そして泥まみれの新規開拓

桜丘大学のウェブ担当主任(自称)としてのキャリアが、休講情報を大学創立記念日の情報に上書きするというデジタル大事故により、静かに、しかし決定的に終わった後、ケンは転職活動を始めた。

「これからは、医療と福祉の時代だ」

ケンはそう言って妻に熱弁したが、それは5年以上前から雑誌やニュースで言われ続けていた、もはや真新しさのかけらもない常識だった。しかし、彼にとってはその常識が、長い通勤電車で失われた自信を取り戻すための、唯一の拠り所だった。

彼が見つけた求人情報は、都心の小さな駅前に事務所を構える置き薬の薬局のお知らせだった。その求人は、コンビニの深夜バイト募集の隣に、申し訳なさそうに載っていたアルバイト情報誌の片隅に小さく印刷されていた。唯一、ケンを立ち止まらせたのは、正社員募集という一文が、手書きで雑に追加されていたことだった。

面接で、薬局の社長である佐野(当時50代、顔に苦労の皺が刻まれた男)は、ケンの前職の肩書きに興味を示した。

「ほほう、大学でウェブ担当の主任さんだったのか。すごいねぇ。まあ、うちは店舗もないし、ご家庭を回って薬の箱を置かせてもらう、昔ながらの商売だから、ウェブとは縁がないんだが」

ケンは、ここで自分が時代の最先端を行く男であることを示すチャンスだと確信した。

「社長!とんでもない!これからの時代、ウェブはインフラです!名刺代わり、いや、玄関代わりですよ!わたくし、御社に貢献させていただくため、この業界の最先端である新規開拓を担わせていただきます!」

佐野社長は目を細めてケンを見つめた。

「新規開拓、か。いい響きだね。つまり、泥臭い飛び込み営業ってことだ」
「いえ、社長!それは違います!未開の領域へのフロンティア・スピリットに満ちたチャレンジです!」

その言葉が気に入られたのか、ケンは採用された。入社初日、ケンが取り掛かったのは、もちろん、未開の領域へのチャレンジではなく、ウェブサイトの構築だった。この薬局にホームページがないなんて、インフラとして許されない!ケンは3日間で突貫工事を敢行した。

使用したのは無料のテンプレート。内容は他の置き薬会社のホームページから、ミッションステートメントや健康の豆知識を片っ端からコピー&ペーストした。

当社の使命:「私たちは、お客様の健康と安心を第一に考え、地域社会に根差したオーダーメイドのヘルスケア・ソリューションを提供します!」

(※実際には、箱の中身は誰に対しても同じで、オーダーメイド要素は皆無だった。)

満を持して、ケンは佐野社長に完成したホームページを見せた。

「社長!ご覧ください!これで、グローバルな視点で地域の皆様に当社のコアコンピタンスを伝えられます!」

社長は、画面に映し出された、過剰に専門用語が羅列され、見慣れない外国の青空のフリー画像が張り付けられたホームページをじっと見た。そして、ふむ、と一つ頷き、ケンの顔を見て、小さく苦笑した。

「山田さん、ご苦労さん。これで、うちも大企業だね。さて、話は変わるが、今日から君に回ってもらうのは、この半径2キロ圏内の住宅地図だ。この地図に載ってない家を一軒ずつ回って、新しい箱を置かせてもらう。ウェブのことは、まあ、その名刺の裏にでもURLを書いておいてくれ」

佐野社長が苦笑した理由をケンが完全に理解したのは、その置き薬の薬局で5年の月日が流れた後だった。

それは、ケンが台風の日、びしょ濡れになって顧客の家を訪問したときのことだ。

「あら、ケンちゃん。こんな日に大変ね。でも、あんたが直接来てくれるから、なんだか安心するわ」

そのとき、ケンは気づいた。この置き薬の商売にとって、ウェブサイトのオーダーメイドのヘルスケア・ソリューションなんて空虚な言葉よりも、雨の日も風の日も置き薬の箱を持って玄関先に立ってくれる山田ケンという人間の存在、そして彼の泥臭い安心感こそが、唯一にして最大のコアコンピタンスなのだ、と。

佐野社長のあの苦笑は、ウェブサイトは結構だが、この商売で大事なのは、コードじゃなくて、足と顔だよという、深い諦めと、わずかな優しさの表明だったのだ。

半径2kmのサバンナとマイナス1の衝撃

新規開拓という名の通り、ケンが配属されたのは、既存顧客がほぼいない未開の土地だった。研修として、入社したての中途のケン(37歳、主任)に対し、先輩社員(いずれも20代半ばで、平社員)が日替わりで同行することになった。

彼らは皆、置き薬の箱を片手で軽々と持ち、日焼けした顔で「まあ、気楽にっすよ、主任」と、年上の部下に向かって言うのが常だった。初日、ケンの指導係は、日焼け止めすら塗らないであろうマッチョな先輩、タカシだった。

タカシは会社の軽バンを半径2kmの中心点、つまり絶対にバスが来ないT字路でぴたりと止め、ケンの背中をポンと叩いた。

「じゃ、主任。ここはサバンナだと思ってください。獲物、じゃなかった、お客様を見つけて、夕方5時にまたここに帰ってきます。文明の利器は使わないでください。地図と己の足だけが頼りっす」

そう言って、タカシはケンと置き薬の箱を路肩に置き、あっという間に走り去った。ケンはまるで、飼い主に野に放たれた、ちょっと足の遅い猟犬のような気分だった。置き薬の箱を抱え、住宅地図を握りしめ、一軒一軒のインターホンを押す。

「置き薬はご入用ではないですか?」

返ってくるのは、間に合ってます、結構です、セールスお断りという、冷たい三連符。真夏の日差しがアスファルトを焦がす中、ケンは午前中でペットボトル3本を飲み干し、靴底が溶けそうになりながらも歩き続けた。

結果、初日の獲物はゼロ。夕方5時、約束のT字路に戻ったケンは、全身汗だくで魂が抜けたような顔をしていた。タカシは涼しい顔で彼を迎え入れたが、成果を聞くと鼻で笑った。

「まあ、主任。初日はそんなもんっすよ。それより、ちゃんと日当1万円は出るんで、その分、ご家族で初日のお祝いしてください」

その言葉で、ケンの心は少しだけ救われた。契約はゼロでも、月末にはしっかり1万円×日数が計上されている。この出来高給という名の固定給のような安心感は、大学職員時代にはなかった、真のインフラだとケンは思った。

そして2日目。ケンの指導係は、先輩の中で唯一優しげな顔をした女性社員ミサキだった。この日ケンはミサキが指定した、築年数の古い7階建てのマンションをゴールデンタイムの夕方3時に挑むことにしていた。

「一軒家より集合住宅のほうが効率はいいんですけど、マンションは管理人がいると難しいんですよね」

とミサキは言った。ケンは、1階から7階まで、エレベーターを使わずに階段を駆け上がり、全室のドアを叩いた。汗だくで、まるで消防士の訓練のようだった。6階まですべてゼロ。

「もうダメだ」

と膝を抱えそうになった、そのとき。最上階の7階、角部屋のインターホンを押すと、中からゆっくりと年配の男性が出てきた。彼はケンの汗と、必死な顔を見て、小さな笑みを浮かべた。

「あんた、若いのに頑張るね。うちにも置いてもらおうかな。最近、膝が痛くてな」

一本取れた!ケンは興奮のあまり、震える手で申込書を差し出した。住所、電話番号、名前—すべてを書いてもらい、深く頭を下げた。これで、社長の言うフロンティア・スピリットを示せたぞ!

夕方5時、集合場所に戻ったケンは、ミサキに満面の笑みで報告した。ミサキも

「主任、すごい!おめでとうございます!」

と褒めてくれた。報奨金5,000円!ケンはもう、その5,000円で何を買うか、頭の中でリストを作り始めていた。だが、喜びも束の間、3日目の朝、事件は起こった。

事務所に戻ると、佐野社長が神妙な顔つきでケンを呼び出した。

「山田主任。昨日取ってきた、あのマンションの契約なんだがね」

社長は、昨晩、契約書を見て不審に思い、電話で確認を取ったのだという。

「実は、あの契約書にサインしたのは、マンションの管理人さんだったそうだ。置き薬は住居ごとに置くもんであって、管理人室じゃダメだろ?しかも、管理人さんはお爺さんが勝手に契約書にサインしてごめんねと、丁重にお断りの連絡をくれたよ」

ケンは一瞬で青ざめた。膝が痛くてなと言っていた、あのおじいさんの真摯な表情が脳裏に蘇った。つまり昨日の一件は、マイナス1ってことだ。報奨金5,000円は、夢と消えたな。ケンはがっくりと肩を落とした。しかし、なぜか心が折れることはなかった。報奨金がなくなったのは残念だったが、1件契約すると5,000円という、このシンプルで明確なゲームのルールが、ケンの心に火をつけたのだ。

「よし。来週こそは、あのマンションの全住戸を管理人に気づかれずに攻略してやる!」

ケンにとって、この泥臭い飛び込み営業は、いつしか攻略サイトのない難易度激高のリアルタイムストラテジーゲームに変わっていた。そして、このゲームに夢中になっている自分に気づき、ケンの毎日は再び楽しくなっていくのだった。

3台の軽バン反乱と、エネルギー源の山分け

その日のケンは、いつにも増して疲労困憊していた。新規開拓の目標件数をクリアしようと必死に回った結果、インターホンを押した軒数は32件。足の裏には水ぶくれができ、夕焼けの空は、汗と埃で汚れた彼の目には、溶けかかった巨大な金メダルのように見えた。

夕方5時。集合場所である郊外の廃れたコンビニの駐車場に、会社の軽バンが続々と集結した。いつもは一台ずつバラバラに事務所に戻るのだが、この日はタカシの軽バン、ミサキの軽バン、そしてもう一人の先輩であるタケシの軽バン、計三台が不自然に並び、エンジンを切るや否や、三人は車を降りてひそひそと相談を始めた。

ケンは少し離れたところから郵便ポストにもたれかかって死んだように休んでいたが、どうやら彼らの会話が聞こえてくる。

「なあ、マジでもう限界だろ」と、マッチョなタカシの声。

「うん、この前のお客さんにも言われたよ。まだ富山の薬売りなんてやってるの?って」と、ミサキの少し諦めた声。

ケンは耳をそばだてた。富山の薬売り、社長がいい響きだと苦笑していた言葉が、今や若手の口から時代遅れの代名詞として吐き出されている。

「それにさ、佐野社長もいつまでこの足と顔の商売続けるつもりなんだろうな。新しいシステムも入れない、給料も報奨金頼みじゃ、夢がないっすよ」とタケシが加勢する。

そして、運命の結論が出た。

「結論、こうなったらみんなで一斉にやめよう!」タカシの低い声が響いた。三人は強く頷き合い、まるで卒業旅行の計画でも立てるかのように、生き生きとした表情になった。

そして次の行動は、さらにケンの想像を絶するものだった。カチャリ、カチャリ。三人がそれぞれの軽バンの後部ドアを開け、積んであった置き薬の箱の中から、特定の商品を取り出し始めたのだ。彼らが山分けし始めたのは、高額な栄養ドリンクの瓶や、高級な滋養強壮剤の箱だった。置き薬のシステム上、売れていない商品は会社の在庫だが、給料日が今日だったため、彼らの心の中ではもう精算済みだったのだろう。

「主任!」

タカシがケンに気づき、笑顔で手招きした。

ケンは逃げるに逃げられず、ノロノロと三人の輪に近づいた。

「主任さんも、お疲れ様です!今日で終わりですよ、俺たちは」
「え?」
「今日、給料日だったでしょ。僕たち三人は、明日辞表も出さずに仕事をやめます。どうせ試用期間なんてなかったようなもんだ。この会社じゃ、履歴書に傷がつくだけっすよ」

ミサキがケンの目の前に、栄養ドリンクの箱を差し出した。

「主任さん、これ、戦闘用高濃度エナジーポーションですよ。一本千円するやつ。たぶんみんなで30本ずつ山分けできますから、持っていきませんか?主任さん、まだ試用期間だって言ってましたよね。辞めるの、他の社員より楽なはずですよ」タカシは肩を組んできた。

「そうっすよ、主任。こんな会社、早く見切りつけたほうがいいですよ。俺たち、もっとデカいフィールドでフロンティア・スピリットに満ちたチャレンジを探します!」

彼らの目には、新しい人生への希望が満ち溢れていた。ケンは、手に持たされた重い栄養ドリンクの箱を見つめ、反射的に言葉を返した。

「そうですよね」

それは、会社の不正行為への賛同でも、彼らの行動への共感でもなかった。ケンが脳内で処理していたのは、ただ一つの事実だった。

そうだ、俺はまだ試用期間だ。辞めるのに、誰の顔色を伺う必要もない。佐野社長にも、同期の課長にも、誰にも咎められずに、静かに、ウェブ担当主任のときと同じように、逃げ出せる!

ケンは不法に手に入れた30本の栄養ドリンクを抱え自宅へ向かう電車に乗り込んだ。この30本の戦闘用高濃度エナジーポーションは、辞めるためのエネルギーとして、ありがたく頂戴するのがいいのかずっと悩んでいた。

妻には、「今日、大口の新規開拓に成功して、クライアントから高級ドリンクをたくさんもらった」と報告しようと想像してみたりもした。そして、妻はまた、部長になった同期の話をするのだろう、と。

翌朝、事務所に行ったケンを待ち受けていたのは、タカシたちが置いていった、空っぽになった軽バンと、事務所の電話をひっきりなしに取っている佐野社長の、怒りを通り越した無表情だった。

エネルギーポーションの秘匿と、残された主任の使命

自宅へ向かう電車の中で、ケンは自分の手に握らされた戦闘用高濃度エナジーポーションの重みを再認識した。一本千円。30本で3万円。これで最新のゲームソフトが買える。しかし、彼らが在庫を精算したと言ったところで、これは会社の持ち物だ。

俺はウェブ担当主任時代、大学のトップページを壊しただけでクビにはならなかった。しかし、会社の備品泥棒でクビになるのは、あまりにもダサい。

主任という役職をもらっているとはいえ、キャリアの危機に直面すると、ケンの道徳心は急に強火になる。彼は、最寄駅のホームで30分間、高級栄養ドリンクの箱を抱えて悩んだ末、意を決して逆方向の電車に乗り込んだ。今夜中に、この裏切りの証拠を会社に戻さなければならない。

深夜の事務所。普段なら真っ暗でもいいはずだが、佐野社長の小さなデスクだけが、ポツンと灯っていた。社長は、スーツを脱ぎ、ワイシャツ姿で、机に突っ伏すように地図を広げ、その顔は怒りを通り越して、蝋人形のように無表情だった。

ケンは、会社の鍵を開ける音を静かに立て、お疲れ様です!と、異常なほど明るい声で社長に挨拶した。

「忘れ物を、取りに帰りまして」社長はゆっくりと顔を上げたが、何も言わなかった。

ケンは心臓が口から飛び出しそうになりながら、手に持った重い箱を社長に見せないよう、大げさにポケットを叩き、スマホを探すふりをし始めた。

「あれ、スマホが。どこだろ?」そう言いながら、ケンはそそくさと倉庫に続く細い通路へ滑り込み、重さの割に静かな戦闘用高濃度エナジーポーションの箱を、彼らが商品を抜き取ったであろう場所へ、そっと押し戻した。

「あ、ありました!ポケットの奥に!お騒がせしました!」ケンは笑顔で一礼し、社長の返事を待たずに、そそくさと事務所を後にした。社長はただ、広げられた住宅地図の上で、細い指を滑らせるだけで、ケンを追及することはなかった。

翌朝。事務所は静寂に包まれていた。タカシ、ミサキ、タケシの軽バンだけが駐車場に残されていた。事務所の電話は朝からひっきりなしに鳴り響いており、佐野社長は、ほとんど声を出さずに、低く静かな声で対応を続けていた。全て、昨日の集団失踪によって、サービスが行き届かなくなった顧客からの苦情の電話だった。電話が一段落したとき、社長は深いため息をつき、静かにケンに向き直った。

「山田主任。昨日の夕方、なにか変わったことはなかったかね?」社長の目には、疲れと、何とも言えない諦めが混じっていた。ここで、何もありませんと嘘をつくのは簡単だ。だが、佐野社長の、あの足と顔の商売へのこだわり、そして昨夜の無表情な姿を見て、ケンは急に自分が小賢しい嘘をつくことに耐えられなくなった。

「別に、特別なことはありませんでした。ただ」ケンは言葉を選んだ。
「ただ、皆さんが駐車場で、これからどうするか、相談されていたのは見かけました。そして、皆さん、この足と顔の商売は、もう時代遅れだと言ってました。ですから、どういうことか、なんとなく理解していました」

ケンは正直に話したが、佐野社長からの追及の言葉はなかった。社長はゆっくりと頷くと、次の電話を取るために受話器に手を伸ばした。そして、その電話が終わったとき、社長はケンに言った。

「そうか。理解していたか。山田主任、今日の新規開拓は、私がやる。君は社内にいてくれ」

ケンは驚いた。社長が自ら、あの炎天下の半径2kmのサバンナへ行くというのか。

「しかし社長、電話対応は」

「電話は、君ができるだろう。君は元ウェブ担当主任だ。きっと、私よりもデジタルな知識がある。今日一日は、私が出社するまで、この会社に残された最後の社員として、この事務所を守っていてくれ」

佐野社長は、壁にかけてあった、埃をかぶった自分の置き薬の箱を静かに手に取った。それは、ケンが主任という役職をもらっているが同期は課長という現実、そして自分のうだつの上がらない人生が、一瞬にして、会社を救う最後の砦という、壮大な(そして重すぎる)使命に変わった瞬間だった。

5年目のウェブマスターと、富山の薬売りの信頼

佐野社長が半径2kmのサバンナに消えてから、ケンは一週間、事務所で電話対応と在庫整理のインフラ業務に追われた。電話口で「富山の薬売り山田です!」と名乗るたび、苦情を言っていたはずの顧客が「あら、主任の山田さん?あんたがいてくれてよかったわ」と安堵の声を上げる。

ケンは、自分に向けられた小さな安心が、佐野社長の言っていたこの商売のコアコンピタンスだと痛感していた。

社長は毎日、全身汗だくになって夕方に帰社し、その日の新規開拓の地図を黙々と広げた。ケンは社長の隣で、ひたすらお茶を淹れ、苦情電話のリストを整理し続けた。

そして、例の集団失踪から一週間も経たない月曜日。ケンの人生史上、最も奇妙な光景が事務所に現れた。会社の軽バン三台が、見慣れた駐車スペースに、まるで何事もなかったかのように、後部ハッチを開いたまま整然と並んでいた。

そして、タカシ、ミサキ、タケシの三人の先輩社員が、新しいスーツ(のように見えるジャージ生地のユニフォーム)に身を包み、置き薬の箱を片手に事務所に入ってきた。ケンは、口を開けたまま立ち尽くした。

「お、おはよう?」という言葉は喉に詰まったままだ。
な、なんだ?社長が告訴したのか?彼らは今から、会社に謝罪に来たのか?それとも、俺をハメた件で、俺に報復を!?

ケンは反射的に、倉庫の奥に秘匿しておいたはずの、あの戦闘用高濃度エナジーポーションの箱がまだあるか、脳内在庫を確認した。三人はケンを見つけると、何一つ反省している様子のない、爽やかな笑顔で元気よく挨拶してきた。

「おはようございます!主任さん!」
「お疲れ様です!お久しぶりです!」
「元気そうで何よりっす!」

彼らの態度はあまりにも自然で、まるで一週間休みを取って温泉にでも行ってきたかのようだ。深刻な事態に一切なっていないことに気づいたケンは、困惑と安堵と、かすかな怒りで混乱した。
「あれ、みなさん、一体、どういう、こと?」

その時、佐野社長が奥の部屋から出てきた。社長は、満面の笑みではないが、これまでにないほど穏やかな顔をしていた。

「山田主任。彼らはMR研修に行っていたんだよ。全国の置き薬屋の次世代を担う若手の勉強会だ。ちょうどいい時期だったから、一週間、泊まり込みでね」

そして、社長はケンに向かって、ゆっくりと言い放った。

「主任、テストに合格だ」
「テスト?」

ケンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「そうだ。主任、この伝統的な富山の薬売りというビジネスを、現代でも継承していくには何が必要だと思う?」

佐野社長は、ケンのウェブサイトの専門用語よりも、遥かに重い言葉を使った。

「お客様は、店舗を持たない、顔も知らない我々を、箱を置くという形で信用してくれている。その信用を繋ぐためには、幾万という人を信用していくしかないんだ。つまり、人を疑わないこと。お客様は神様だ。そして、新しく仲間になる人たちも、一度は信用する」

佐野社長は、タカシたち三人に目配せした。
「みんなに頼んで、君を引っ掛けるテストをしてもらった。もし君が、あの栄養ドリンクを持ち帰っていたら、君も彼らと同じだ。会社を信用せず、会社の商品を盗む。そんな人間には、お客様を信用しろとは言えないからな。君は、持ち帰らずに戻した。よかったよ、山田主任」

ケンは心の中で叫んだ。
危ない!俺の道徳心の急な高火力が、俺を救ったのか!そして、こいつら、俺を引っ掛けたのか!ゆるせん!

タカシはそんなケンの心の叫びを知る由もなく、ニカッと笑った。

「主任、ごめんなさい!別に騙そうとしたんじゃないんです。一週間不在にするから、その前に主任の信用度テストをやってみてくれって社長に言われたので。俺たちも、主任が正直に戻してくるか、ドキドキしてました!」

ミサキが続けた。
「栄養ドリンク、美味しかったですか?私たち、社長に返したら、お前らが飲めって言われて、結局飲みました」

ケンは、彼らが飲んだという一本千円の高級ドリンクの味を想像し、激しく後悔した。そして、この一週間、社長と二人きりで苦境を乗り越えた主任としての使命感が、急にただの、お人好しの勘違いに変わった気がした。

それからちょうど5年後のことだった。佐野社長の次の言葉で、ケンのうだつの上がらない人生に、再びスポットライトが当たった。

「山田主任。君は、この5年間、事務所で電話を取り、私の泥臭い営業の後ろ盾になってくれた。そして、この数日で、君は新規開拓や泥臭い営業の苦労と喜びを、足と顔で学んだ」

社長は、ケンの目を見て、ニヤリと笑った。あの、入社当日の苦笑とは違う、確信に満ちた笑みだった

「さあ、やってもらおうか。富山の薬売りの、本当のウェブページを。五年前、君が作った、グローバルな視点なんていう大袈裟な看板じゃなく、お客様が本当に安心して、私たちの顔が見えるような、足と顔のウェブサイトを。それが、君のこれからの主任の仕事だ」

ケンは、かつて大学の職員としてIT雑用で終わった自分の技術が、泥臭い伝統的な商売の信用というコアに直結した瞬間を感じた。

「はい、社長。承知いたしました」

ケンは、ようやく自分の居場所と、自分のウェブ担当主任としての本当の使命を見つけた。箱一杯の置き薬を抱えて今日もどこかの家を回る。

彼にとって同期(ニューヨーク在住らしい)のことは今はもうどうでもよかった。彼は今、この古びた薬局で、最も重要な信用という名のウェブサイトの設計図を、頭の中で描き始めていたのだから。

Xでフォローしよう

おすすめの記事