澄江と隆の出会いの物語。これは、聞いてるつもり物語の根っこになっている部分でした。澄江が、聞く達人になる前、まだ若くて、まだ不器用で、まだ誰かに聞いてほしいだけの女の子だった頃。そして、隆もまた、寡黙で不器用で、でも心の奥には誰にも言えない優しさを抱えていた青年でした。
坂の町のバス停
澄江が十八歳の春。長崎の坂の町は、海風が少し冷たかった。高校を卒業し、地元の会社に就職したばかりの澄江は、毎朝同じバス停でバスを待っていた。そのバス停に、いつも同じ時間に立っている青年がいた。
背が高く、無口で、作業服の胸元には港湾運輸と刺繍されている。澄江は、彼の名前も年齢も知らなかったが、なぜか気になっていた。
ある朝、風が強く、澄江の手に持っていた書類が風に飛ばされた。
「あっ」
紙が舞い上がり、坂道を転がっていく。澄江が追いかけようとした瞬間、青年がすっと走り出した。風に揺れる紙を追いかけ、坂の途中で拾い上げると、無言で澄江に差し出した。
「ありがとう」
青年は小さくうなずいた。そのとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
それからも、二人は毎朝同じバス停に立った。青年は相変わらず無口だったが、澄江が挨拶すると、小さくうなずいて返してくれた。
ある朝、バスが遅れていた。珍しく青年が口を開いた。
「港が混んどるけん、バスも遅れとるとよ」
澄江は驚いた。彼の声を初めて聞いた。
「港で働いとると?」
「うん。荷揚げの仕事ばしよる。俺は隆って言う」
隆。その名前は、海の匂いがする町に似合っていた。
「私は澄江。よろしくね」
隆は照れたようにうなずいた。その日から、二人の間に小さな会話が生まれ始めた。
ベンチ
ある日曜日。澄江が海沿いのベンチに座っていると、偶然隆が通りかかった。
「澄江さん」
「隆さん」
二人は少し照れながら並んで座った。海は穏やかで、波の音だけが静かに響いていた。隆がぽつりと言った。
「俺は話すのが下手なんだ。何を言えばいいかわからんくなる」
澄江は微笑んだ。
「話すのが下手でもいいよ。聞いてくれる人がいたら、それで十分」
隆は驚いたように澄江を見た。
「聞く方が得意なんか」
「うん。話すのは苦手だけど、誰かの話を聞くのは好き」
隆はゆっくりとうなずいた。
「そういう人、好きやな」
胸の奥が熱くなった。
すれ違い
二人が付き合い始めて数ヶ月。澄江は、隆の寡黙さに少しずつ不安を感じ始めていた。仕事で嫌なことがあった日、澄江は隆に話したかった。
「今日ね、ちょっと嫌なことがあって」
隆はラジオを聞きながら言った。
「そうか」
その一言で、胸の奥がすっと冷えた。
(ああ、私は母と同じことをされているんだ)
澄江は黙り込んだ。隆は気づかなかった。
数日後。隆が澄江を海辺に呼び出した。
「この前のこと、悪かった」
澄江は驚いた。
「気づいとったと?」
「澄江が話したそうにしとったのに、俺は聞かんかった。俺は話すのが下手で、どう返せばいいかわからんかった」
隆は続けた。
「でも、澄江が黙ったとき、胸が痛かった。俺は、澄江の話を聞きたい」
澄江の目に涙がにじんだ。
「ありがとう。私も、隆に話したいよ」
二人は、波の音の中で静かに寄り添った。
プロポーズ
ある夕暮れ。海が金色に染まる頃、隆が澄江を呼び出した。
「澄江。俺は不器用で、話すのも下手で、気の利いたことも言えん」
澄江は微笑んだ。
「知っとるよ」
隆は深呼吸をした。
「でも、澄江の話を聞きたい。これから先も、ずっと聞きたい。俺と一緒になってくれんか」
澄江の胸に、あの日の先生の言葉がよみがえった。話してくれてありがとう。今度は自分が言う番だった。
「隆。私の話を聞いてくれてありがとう。これからも、聞いてくれる?」
隆はうなずいた。
「聞くよ。ずっと」
夕陽の中で、二人は静かに手を重ねた。

コメント