タクシー

タクシー 対人
タクシー

三重県津市。日本一短い名前の市として知られるこの街で、時田剛(ときたつよし・37)は今日もタクシー会社の無線室にいた。「はい、時田です。津駅東口に1台ですね、5分で向かわせます」

配車係

ひっきりなしに鳴り響く電話を受け流し、的確に配車を組んでいく剛の仕事ぶりは職人技だった。しかし、家に帰れば、11歳になる一人娘・映美(エミ)の静かな変化に頭を悩ませる一人の父親だった。

最近の映美は、学校から帰ってきてもどこか元気がなかった。元々優しくて気が利き、周りの友達との調和を大切にするいい子なのだが、宿題のドリルを広げては、どうせ私なんかやっても間違えるし、とため息をつく。テストの点数が少しでも悪いと、まるで世界の終わりのように自分を責めてしまうのだ。

ある日の夜、剛がリビングに入ると、妻の美佐江(みさえ:36)が、映美のテスト用紙を前に険しい顔をしていた。

「エミ、今回の算数、ここ間違えてるよ。ちゃんと考えなきゃダメじゃない。お友達のサクラちゃんは100点だったんでしょ?
あなたもちゃんとしなきゃ」

「うん。ごめんなさい」

映美は小さく丸くなって部屋へ逃げて行ってしまった。その背中を見送りながら、美佐江はハァと大きなため息をつき、頭を抱えた。

「また言っちゃった。なんで私、あんな言い方しかできないんだろう。エミのためにいい親でいなきゃって頑張れば頑張るほど、イライラしてひどいこと言っちゃう。私、母親失格だわ」

美佐江の目から涙がこぼれ落ちる。実は美佐江自身も、子供の頃から「いい子でいなきゃ」と育てられ、大人になった今も完璧な親であろうと自分を追い詰め、自己嫌悪の悪循環に陥っていた。

伊勢茶

剛は、無線室で何百台ものタクシーのトラブルを収めてきた男だ。ここで焦って「お前がそんなだからエミが」などと正論を言えば、我が家の配車は大パニック(デッドクロス)を起こす。剛は美佐江の隣にそっと座り、温かいお茶を差し出した。

「美佐江、お前がダメな親なわけないだろ。毎日エミのために一生懸命やってるの、俺が一番知ってる。たださ、俺たちちょっと、家を評価する場所にしすぎてたかもしれないな」

「え?」

「タクシーの無線もさ、なんで遅れたんだ!って怒るばっかりの班は、運転手が委縮して事故を起こしやすくなるんだよ。逆に、渋滞の中よく裏道工夫して走ったな、って声をかける班は、みんな安心してのびのび走る。家も同じじゃないか?
エミが、ちゃんとしなきゃ、迷惑かけちゃダメって空気の中で弱音を出せなくなってるなら、まずは俺たちが、できない日があってもいいよって言ってやらないと」

剛は美佐江の手を優しく握った。

「美佐江、お前もいい親を手放していいんだよ。疲れたら手伝ってって言っていいし、立ち止まっていいんだ。お前が自分に優しくなれたら、エミも自分を許せるようになるさ」

美佐江は伊勢茶の湯気を見つめながら、ぽろぽろと涙を流し、何度も頷いた。

自由研究

数日後の週末。リビングで映美が夏休みの自由研究の工作をしていた。ペットボトルで貯金箱を作っているのだが、ハサミの使い方が上手くいかず、ガタガタになってしまっている。

「あーあ、また失敗した。私、やっぱり不器用だし、ちゃんとしたの作れないや」

映美が諦めてゴミ箱に捨てようとしたその時、美佐江がそっと声をかけた。

「エミ。別に完璧じゃなくていいんだよ。ママなんて、昔自由研究で貯金箱作ろうとして、接着剤で自分の指と指がくっついて大騒ぎになったんだから」

映美が驚いたように顔を上げた。「お母さんが?」

「そうだよ」剛も笑いながら会話に入った。

「あの時はママのパパが慌ててお湯で溶かしたんだぞ。エミ、できたかどうかじゃなくてさ、そのペットボトルの底をくり抜こうとしたの、すごく工夫したね。諦めずにここまでハサミを進めたの、パパは格好いいと思うぞ」

「工夫した?」

映美の目が少しだけ動いた。すごいねと結果を評価されるのではなく、自分のプロセスを諦めずにやったねと認めてもらえたからだ。

美佐江は映美の目をじっと見つめて、優しく問いかけた。

「エミ、さっきハサミが引っかかったとき、どう感じた?
どんな形にしたかったの?」

「本当はね、お魚の形にしたかったの。でも上手く切れなくて悔しかった」

「そっか。悔しかったね。言えてエラいね。じゃあ、ママも手伝うから、もう一回一緒にやってみようよ。ママもハサミ苦手だから、ガタガタになっても笑わないでね」

映美の顔に、久しぶりにパッと明るい笑顔が戻った。

「うん!やってみる!」

家庭が、完璧を求められる場所から、失敗しても安心できる場所へ変わった瞬間だった。映美はもう、間違えることを恥ずかしがらなかった。

それからの時田家は、驚くほど言葉と空気が変わっていった。美佐江が「今日はお母さん疲れちゃったから、夕飯はぎょうざを買ってきてもいい?」と言えば、剛が「お、ナイス工夫!」と返し、映美も「わーい!
諦めずに手抜きしたね!」と笑うようになった。

強くなるって、倒れないことじゃない。弱さを見せて、誰かに頼れること。

津市の小さな家から溢れる笑い声は、映美の、そして美佐江の心の中に、何があっても折れない本物のメンタルの土台を、ゆっくりと、だけど確かに育て直していくのだった。

就職

あのペットボトル貯金箱・指くっつき大騒動から十数年。三重県津市の時田家では、またしても新たな歴史の1ページがめくられようとしていた。

「エミ、ネームプレートは持ったか?ハンカチは? ぎょうざのキーホルダーはカバンにつけたか?」

「お父さん、キーホルダーは置いていく。保育園の子どもたちにおもちゃと間違えられて齧られたら困るから」

22歳になった時田映美(エミ)は、きりっとしたエプロン姿でスニーカーの紐を結んでいた。

地元の大学で保育士(保母)と幼稚園教諭の資格を無事取得した映美は、この春から、実家から自転車で15
分ほどの場所にある「津なぎさまち保育園」へ就職し、今日が記念すべき初出勤の日だったのだ。

かつてはテストの点数1つで「私なんて」と丸くなっていたあの映美が、今や立派な新米保育士。父親の剛(49)は、嬉しさと心配が限界突破(ゴールデンクロス)し、無線室の配車指示なみに早口になっていた。

「とにかく、最初はいい先生でいなきゃって頑張りすぎんことやぞ。疲れたら、ベテランの先生に手伝ってくださいって配車要請を送るんだ」

「分かってるって。お母さんに完璧じゃなくていいって育ててもらったから、私、メンタルの土台は頑丈だもん」

映美は頼もしく笑うと、春の爽やかな風の中を自転車で颯爽と駆けていった。

その背中を見送りながら、妻の美佐江(48)は、しみじみとコーヒーをすすった。

「あの子、昔は間違えるのをあんなに怖がってたのにね。良い先生になりそう」

「ああ。でも、現場は甘くないからな。まぁ、エミなら大丈夫か」

しかし、現実は初日から波乱万丈だった。映美が配属されたのは、やんちゃ盛りの4歳児クラス。

「せんせー!ケンタくんが粘土を鼻の穴に詰めようとしてるー!」

「先生、サクラちゃんが『私は将来、ペンギンになる』って言って砂場から動かないの!」

あっちでトラブル、こっちで迷言。映美は右往左往しながら、子どもたちのエネルギーに圧倒されていた。

お絵かき

さらに夕方のお絵かきバトルの時間、一人の女の子・ミウちゃんが、画用紙を前にポロポロと涙をこぼし始めた。

「ミウちゃん、どうしたの?」

映美がかがんで目線を合わせると、ミウちゃんは消え入りそうな声で言った。

「お花の絵、お友達みたいに上手に描けない。間違えたら恥ずかしいもん。いい子でお絵描きできないから、ママに怒られちゃう」

映美は胸がキュッとなった。周りの目を気にして、いい子でいようと自分を責めていた、かつての自分の姿がそこに重なった。

(よし、ここは時田家の秘伝、発動だ!)

映美はミウちゃんの隣に座り、ニヤリと笑った。

「ミウちゃん。先生のママなんてね、子どもの頃に自由研究で貯金箱を作ろうとして、接着剤で自分の指と指がくっついて、大騒ぎになったんだよ」

「えっ?ゆびが、くっついたの?」

ミウちゃんが涙目を丸くして映美の手を見る。

「そう!
パパにお湯で溶かしてもらうまで、ずーっとチョキの形のままだったの。お絵描きだって、ママが描くお花、いっつもキャベツみたいになっちゃうんだから」

映美は画用紙に、あえてガタガタの、でも一所懸命に描いた花の絵を描いてみせた。

「できたかどうかじゃなくてさ、ミウちゃんが、お花を描こうって、クレヨンをここまで握って諦めずにやったの、先生は格好いいと思うな。ねえ、ミウちゃん。上手く描けなくて悔しかったとき、どんなお花にしたかったの?」

ミウちゃんはゴシゴシと涙を拭くと、少し考えてから、ぽつりと言った。

「ピンク色の、大きいお花にしたかったの」

「そっか!
聞かせてくれてありがとう。じゃあ、先生の下手くそなキャベツお花の隣に、ミウちゃんのピンクのお花、一緒に並べて描こうよ」

「うん!」

ミウちゃんは笑顔を取り戻し、元気よくピンクのクレヨンを走らせ始めた。それを見た先輩保育士の主任先生が、後ろから優しく微笑んでいた。

ピザ

その夜、時田家のリビング。初日の仕事を終えて帰宅した映美は、ソファに泥のように沈没していた。

「エミ、初日はどうだった?誰か粘土食べたりしなかったか?」

剛が心配そうに覗き込むと、映美は薄目を開けて、へろへろの声を絞り出した。

「お父さん、お母さん。私、今日、頑張った。でも、すっごく疲れた。だから、今日のご飯、お父さんの奢りで出前のピザにしてほしいです。手伝ってください」

自分の弱音や疲れを、ちゃんと愛嬌を交えて言葉にできる娘。美佐江はクスクスと笑い、剛は「よっしゃ!
任務了解、特急で配車(注文)する!」と嬉しそうにスマホを握りしめた。

「エミ、初日から完璧な先生になろうとしなくていいのよ。疲れたら立ち止まって、私たちに甘えなさい」

美佐江が映美の頭を優しく撫でる。

「うん。でもね、今日、泣いてる子にママ直伝の失敗談を話したら、その子、笑顔になってくれたんだ。私、この仕事、諦めずにやっていけそう」

山盛りのピザが届く頃には、リビングはいつもの賑やかな笑い声で満たされていた。

失敗を許され、愛されて育った女の子は、今度は別の誰かを安心させるための優しい居場所を、その手でしっかりと作り始めていた。時田家の心の土台は、次の世代へと、確かにバトンされていくのだった。

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