
どうにもこうにも、十月の風というのは少し湿っぽくて、それでいて男の心を妙にソワソワさせる。マモル(30歳)は、目の前を歩くマサコ(28歳)の、姿勢の良い背中を見つめていた。一週間前の土曜日、映画館の暗がりのなかで、泥縄式にどうにかこうにか手をつないだのが、彼らの恋愛史上における最高到達地点だった。
肩もみの野望と十月の湿った風
マサコはといえば、ここのところ会社の外回り営業の上司という人種から、まるで冬支度のアリのごとく大量の事務仕事を押しつけられていた。
「頼りにしてるよ、マサコさん」
などという上司の言葉は、聞こえはいいが、要するに俺の代わりに机にしがみついていろという命令に等しい。マサコはマジメ一徹、断るという機能が脳から欠落しているため、首から肩にかけてが、まるで乾燥した生コンのようにカチコチに固まってしまったのである。
「なんだか、首が回らなくなっちゃって」
マサコがボソリと漏らした。借金があるわけではない。物理的に、首が左右に振れないのだ。
マモルは、ここで一気に勝負に出ることにした。
「あ、あのさ。マサコさん、よかったら、肩、ももうか?」
言った。ついに言ったのである。
マモルの心臓は、出来損ないのモーターみたいに、バクバクと不規則な音を立てた。
肩もみという言葉には、親愛と、奉仕と、そして下心という名のスパイスが三位一体となって封じ込められている。
「えっ、いいの?」
マサコが少し驚いたように、けれど嬉しそうに振り返った。その拍子にイタタタと顔をしかめたが、それは二人の距離が、マッサージという名のスキンシップによって、グイグイと縮まる合図でもあった。
マモルは、己の手のひらを見つめた。
よし、やってやろう。
俺のこの手で、彼女の肩に溜まった上司の無理難題を、粉々に粉砕してやるのだ。
だが、この時のマモルはまだ知らなかった。
良かれと思ってやるという善意が、時として筋肉という名の精巧な組織を、無惨にも叩き潰す凶器に変わるということを。
親指と月曜日の後悔
マモルの親指は、今や恋の情熱によって、制御不能と化していたのである。
マサコの華奢な肩に対し、マモルは己の持てる全筋力を、その指先に注入した。グイ、グイ、グイ。指が沈み込むたびに、マサコの口からは「あ、そこ、そこ。うぅ、イタタタ」という、なんともいえない声が漏れる。
マモルは思った。
(そうか、痛いか。痛いということは、そこに邪悪なコリが潜んでいる証拠なのだ。俺がこの手で、その邪悪な塊を粉砕してやらねばならぬ。それが男の、そして愛情の、全責任というものだ!)
バカである。実に見上げたバカな男なのである。
マサコが身を捩(よじ)れば捩るほど、マモルはおっと、逃がさないぞとばかりに、さらに力を込めて親指を突き立てる。もはやマッサージというよりは、岩盤掘削作業に近い。マサコが痛いと言えば言うほど、マモルはそれをもっと強くしてという愛のコールだと勝手に脳内変換していたのだ。
だが、日曜の夜が明け、運命の月曜日がやってきた。
出勤前の慌ただしい時間に、マモルのスマホがピコーンと鳴った。マサコからのラインである。
「昨日はありがとうございました。お陰で首が楽になりました。すこし肩に痛みが残っていますが、またお願いいたします」
マモルは鼻の下を伸ばした。またお願いいたしますという末尾の言葉に、勝利の美酒を味わう気分だった。しかし、歩きながらその一文を読み返すうちに、ふと胸の奥に小さな、トゲのような違和感が刺さった。
「痛みが、残っている?」
その瞬間、マモルの脳裏に、かつて所属していた大学陸上部の、あの汗臭い部室の光景がフラッシュバックした。鬼のような先輩が、マッサージについてこう言っていたはずだ。
「おい、マッサージはな、十五分以上やるんじゃねえぞ。やりすぎると、かえって筋肉をぶっ壊すからな!」
あれれ、とマモルは思った。
通勤電車の、ムッとするような人の熱気のなかで、彼は必死にスマホを叩いた。検索画面に「肩もみ やりすぎ 痛み」と打ち込む。
するとどうだ。画面には、マモルの背筋を凍らせる言葉が続々と躍り出てきたではないか。
『揉み返し:強すぎる刺激によって、筋肉の繊維が損傷し、炎症を起こしている状態』
『筋肉を炒める(傷める):過度な圧迫は筋組織を破壊する恐れがある』Google検索
「うわあ。やってしまった」
マモルは吊り革を掴んだまま、ガクゼンと膝を折った。
マサコのイタタタは、快感の悲鳴ではなく、まさに筋肉たちが悲鳴を上げていたリアルな叫びだったのである。愛情だと思っていた親指のパワーは、ただの重機による破壊工作に過ぎなかったのだ。
マモルの額から、変な汗がじわりと滲み出した。
このままでは、マサコの肩を治すどころか、彼女の体を物理的に破壊してしまう。
マモルは、電車の窓に映る自分の情けない顔を見つめながら、次なる作戦、すなわち正しい医学的フォローについて、必死に思考を巡らせるのだった。
極寒の保冷剤か灼熱のカイロか
夜、マモルは帰宅して、自宅の押し入れの奥底、カビ臭い段ボール箱をひっくり返して唸っていた。
「熱か。それとも、冷か。それが問題だ」
手には、去年の冬に使い残したカサカサのホッカイロが二個。これを今すぐマサコの元へ届け、彼女の肩に貼り付けるべきか。それとも、冷凍庫の隅っこでカチコチに凍っている、ケーキを買った時についてきた得体の知れない保冷剤をタオルにくるんで走るべきか。
マモルの脳内検索エンジンは、過熱して煙を上げていた。
一般的に、打撲や捻挫、そして今回の揉みすぎによる炎症といった急性の痛みには、冷やすのが鉄則である。熱を持って腫れている筋肉に対し、さらに熱を加えるのは、火事の現場にガソリンをぶちまけるような暴挙なのだ。
逆に、慢性の肩こりや血行不良なら温めるのが正解だ。
だが、マモルが昨日やったのは、愛情という名の暴力的圧迫である。筋繊維をズタズタに引き裂いた可能性が高いのだから、本来なら冷湿布あるいは氷嚢で、火照った筋肉を鎮めるのが先決だったのである。
「うーむ。ホッカイロを持っていって余計に痛くなったなんて言われたら、俺の恋愛マニュアルは第一章でシュレッダー行きだ」
冷・温湿布の効果の違い:どちらも主成分(消炎鎮痛剤)に大きな差はなく、基本的には冷やす・温める効果はさほど高くない。成分により「冷たく感じる」「温かく感じる」ことで痛みを紛らわせる効果が主。
どちらを使うべき?:迷った場合、自分の痛みに心地よく感じる方を選んで良い。
Google検索より
マモルはさらに、スマホの画面を凝視して愕然とした。
そこには筋肉の走行(そうこう)という、聞き慣れない言葉が躍っていた。
筋肉には筋(すじ)の方向がある。木材に木目があるように、筋肉にも流れる方向があるのだ。マモルは昨日、その方向など一切無視して、まるでうどんの生地でもこねるかのように、縦横無尽に指を動かしていた。
「横にゴリゴリやっちゃダメなんだ。筋に沿って、優しく、流すように。俺は今まで、マサコさんの肩をただのツボとして扱っていたのではないか」
深い自省の念が、マモルを襲った。
と、その時である。ポケットのスマホが震えた。マサコからのラインだ。
「痛みはなくなりました、ご心配なく。夕方になったら、なんだかスッキリしました!」
「おおお!」
マモルは、狭い自室で一人、歓喜の雄叫びを上げた。
幸いにしてマサコの生命力は、マモルの重機のような親指に打ち勝ったのである。危機は去った。炎症は、彼女の自己治癒力によって鎮火したのだ。
だが、マモルという男は、実に懲りない生き物であった。
ホッカイロを押し入れに放り込み、鏡の前で自分の親指を見つめながら、彼はすでに次のことを考えていた。
「よし。次は完璧だ。筋の方向は把握した。まずは冷やすか温めるか、状況を正確に診断し、適度な力加減で。フフフ、待ってろよマサコさん、俺の新生・マモルハンドが、君を真の安らぎへと誘ってやるぞ」
事態が収束した安堵感よりも、次なる肩もみチャンスへの野望が、彼の胸の中でどしどしと膨らんでいたのである。
再戦!そして医療機関の影
土曜日の夕暮れ。空の端っこが、煮え切らないカボチャのような色に染まり始めた頃、マモルとマサコは近所の公園をのそのそと歩いていた。
マモルの脳内には、この一週間、膨大な医学的データが蓄積されていた。万が一、マサコの肩が再起不能のダメージを負った場合、どの医療機関に駆け込むべきか。外科か、それとも整形外科クリニックか。マモルは地図アプリで近所のあおき整形外科の評判をあさり、診察時間まで暗記していたのである。
だが、今日のマモルは違った。一週間の猛勉強の末、彼は肩という難攻不落の要塞を攻めるのを、きっぱりと諦めたのだ。
「あのさ、マサコさん。今日は、手のひらをもませてくれないか」
マサコは「えっ、手のひら?」と目を丸くした。
マモルは、陸上部時代の汗臭い記憶を総動員していた。部活の遠征バスのなかで、先輩にやってもらったあの手のひらマッサージ。あれは、肩もみのような肉体破壊のリスクが極めて低い。それでいて、指の腹でむにゅりと押されると、なんともいえない浮遊感に包まれるのだ。
マモルは、ベンチに座ったマサコの右手を、まるで壊れやすい花瓶を扱うように、そっと両手で包み込んだ。
「手のひらにはさ、全身のスイッチが集まってるんだ。こうして優しく刺激すると、交感神経と副交感神経のバランスが整って、全身がふにゃあとリラックスするらしいんだよ。肩もみみたいに筋肉を傷める心配もないしね」
マモルは、付け焼刃の知識を披露しながら、マサコの親指の付け根のふくらんだ部分を、円を描くように、ぐにぐにと押し始めた。
マサコは「ふふっ、なんだか、くすぐったいけど。気持ちいいかも」と、力を抜いてマモルに手を預けた。
マモルは必死だった。
強すぎず、弱すぎず。相手の呼吸に合わせる。これこそが、陸上部で培った調整(コンディショニング)の真髄。手のひらという小さな宇宙を通じて、マモルの誠実さがマサコの神経系にダイレクトに流れ込んでいく。
その時だった。
「あ、見て!マモルさん、あれ!」
マモルはとっさにドキッとした。マサコが空を指さしている。
見上げた紺碧の夜空の底に、奇妙な光の列が浮かんでいた。
一列に並んだ星たちが、まるで夜空を走る銀河鉄道の夜行列車の如く、音もなく、整然と移動していく。
「なんだ、あれ。UFOか? それとも、神様のいたずらか」
マモルが呆然と呟くなか、光の列はスルスルと星の海を渡っていく。それは最新鋭のスターリンク衛星の群れだったのだが、そんな科学的名称はどうでもよかった。
「スターリンクトレイン」
打ち上げ直後の衛星が整列して夜空を流れる様子はスターリンクトレインと呼ばれ、光の列が銀河鉄道のようだと話題になることもあります。Google検索より
マサコの手は、まだマモルの手のなかにあった。
手のひらから伝わる体温と、夜空を横切る不思議な光。
マモルの心臓は、またしても不規則なリズムを刻み始めたが、今度は揉みすぎを心配する必要はなかった。手のひらマッサージの効能か、二人の間には、これまでになくまろやかで安らかな空気が、どっぷりと満ちていたのである。
冬の足音とお風呂の科学
12月の山というのは、どうしてこうもツンと澄ましやがって、男の鼻先を冷たくあしらうのだろう。
マモルとマサコの二人は、読売新聞の隅っこで見つけた一泊二日・連休の初滑り&温泉三昧ツアーという、実にてんこ盛りのバス旅行に身を投じていた。標高の高いそのスキー場では、季節外れの11月ころから雪がどっさりと斜面を覆っていた。二人は泥だらけのジャガイモのように転げ回りながら、慣れないスキー板と格闘したのである。
「さぶぶぶぶ」
マサコが、小刻みに震えていた。彼女は筋金入りの冷え性なのだ。スキーウェアの下に何枚も着込んではいるが、一度芯まで冷え切った彼女のつま先は、もはや冷凍庫の隅で忘れ去られた凍ったイカのごとく、感覚を失いつつあった。
そんな彼女を救ったのは、昼休みにゲレンデのすぐ脇で湯気をモウモウと上げている足湯を見つけたことだった。
「おお、これは神の助けか、それとも文明の利器か」
マモルが唸るなか、二人はズボンの裾をバタバタとたくし上げ、真っ白なふくらはぎを惜しげもなくさらして、その黄金色の湯の中に足を突っ込んだ。
「はふぅ、生き返る」
マサコが、とろけるような声を漏らした。
マモルは、ここで一週間仕込んだ温熱療法の知識をさっそく披露しようと身構えたが、先に口を開いたのはマサコのほうだった。
「ねえ、マモルさん。知ってる? こうして足を温めるのはね、単にあったかいだけじゃないのよ。これが立派な温熱療法なんだって」
マサコは、新聞で読んだばかりの知識を、湯気に乗せて語り始めた。
「血管っていうのはね、温めるとぱあぁって広がるの。そうすると、今まで渋滞してた血液がドクドクと流れ始めて、酸素や栄養を全身に運んでくれるのよ。特に足の裏は第二の心臓でしょ? ここを温めると、内臓までポカポカになって、免疫力もグンと上がるんだって」
マモルは、湯気に巻かれながら、ほうほうと感心して頷いた。
マサコの話によれば、温熱療法のコツは熱すぎない温度で、じっくりとだという。かつてマモルがマサコの肩を重機のように粉砕しかけたあの力任せの愛情とは対極にある、いわばお天道様のような、慈しみの熱こそが正解なのだ。
「肩もみのときは私が教わっちゃったけど、温めるのは私のほうが詳しいかもね」
マサコが、いたずらっぽく笑った。
足湯の底で、マモルの足とマサコの足が、偶然か、それとも必然か、ぬるりと触れ合った。
かつてのマモルなら、ここで焦って変なマッサージを開始して自爆するところだが、今の彼は違う。温熱療法の真髄、すなわち静かに熱を共有するという境地に達していたのである。
「気持ちいいね、マサコさん」
「うん、最高だね、マモルさん」
夕闇が迫る山脈の向こう側で、冷たい風がヒュウと鳴ったが、足湯に浸かった二人の周りだけは、春の陽だまりのような、どこまでもまったりとした時間が、どっしりと居座っていたのである。
健やかなる愛の結末とショウガ湯の午後
ゲレンデでの熱狂と筋肉痛という名の山の置き土産を抱えて、二人は日常へと戻ってきた。
日曜日の午後。
マモルはマサコの部屋で、台所に立っていた。
かつての彼なら、ここで「よし、今日は一時間コースのフルマッサージだ!」と鼻息を荒くして、親指のウォーミングアップを始めるところだろう。だが、今のマモルは、もうあの頃の無知な破壊神ではない。
「はい、マサコさん。これ」
マモルが差し出したのは、すりおろしたショウガをたっぷりと入れ、ハチミツで甘みをつけた熱々のショウガ湯だった。
「わあ、いい匂い。温まるね」
マサコが、湯気に目を細めて笑う。
マモルは、その隣にのそりと座った。
彼は悟ったのである。
健康とは、そして相手をいたわるということは、特別な手技や重労働を施すことではない。相手の体が今、何を欲しているかを、五感を研ぎ澄ませて感じ取ることなのだ。
「マサコさん。肩、ちょっとだけ触ってもいいかな。揉むんじゃなくて、置くだけ」
「うん、お願い」
マモルは、温かいショウガ湯で温まった自分の掌を、マサコの肩にそっと乗せた。
力を入れない。指も立てない。
ただ、自分の体温がマサコの服を通り抜け、カチコチに固まった彼女の責任感という名のコリに、じわじわと浸透していくのを待つ。
「ああ、あったかいね、マモルさん。なんだか、肩から力が抜けていくみたい」
マモルの手は、もはや凶器ではなかった。
それは、相手の自然治癒力をそっと後押しする、優しくて、少しだけ頼りない伴走者のような手だったのだ。
「俺さ、決めたんだ」
マモルが、天井を見上げてどしりと言った。
「マサコさんが、おばあちゃんになっても。もし俺が、ヨボヨボのじいさんになっても。こうして、冷えたり痛かったりするところを、ただ温め合えるような、そんな健康的な関係でいたいんだ。マッサージのやりすぎで怒られるんじゃなくてさ」
マサコは、マモルの手の甲の上に、自分の手を重ねた。
「ふふっ、マモルさんなら、きっといいおじいちゃんになるね。でも、たまには手のひらマッサージ、お願いするよ」
外では、秋の終わりの冷たい風が、窓をガタガタと揺らしていた。
だが、部屋の中には、ショウガの香りと、二人の体温が混ざり合った、どこまでも健やかで、どこまでもまっとうな幸福が、どっしりと居座っていた。
特別な医学的知識や、魔法のようなゴッドハンドは、もういらない。
ただ、お互いの痛いや冷たいに耳を傾け、隣に座る。
マモルとマサコの健康的な愛の物語は、こうして、一杯のショウガ湯のように、心と体の芯までじんわりと温めながら、これからも続いていくのである。
完










