長野県須坂市。山々に囲まれたこの街の片隅に、毎朝4時半にアラームと格闘する男がいた。池田吾郎(37)。仕事はシステムエンジニア。勤務先はなんと片道2時間かかる場所にある。それだけでも白目をむきそうなスケジュールなのだが、現在の吾郎にはもう一つの、そして最大のミッションがあった。
めまい

中学1年生になる息子の翔太が、ここ数ヶ月、学校に行き渋っているのだ。朝5時過ぎ。吾郎はすでにリビングで、翔太の学校の準備やスケジュールを睨みつけていた。
「翔太、もう起きる時間だぞ。ほら、5分経った。早く起きないと今日のリズムが崩れるぞ」
「翔太、朝ごはんはちゃんと全部食べろ。栄養が足りないと脳が働かないぞ」
「宿題は?
昨日の夜の時点でやってなかっただろ。今すぐやれ。カバンの中身は入れたのか?
プリント出したか?」
部屋からノロノロと出てきた翔太は、一言も喋らない。ただ、ロボットのように吾郎の指示に従って動くだけ。その表情は完全に消えていた。それを見る吾郎の心は、焦りと不安で破裂しそうだった。
「なんで自分で動かないんだ。このままじゃ、この子の将来はどうなってしまうんだ」
毎晩、会社から帰宅するのは22時過ぎ。そこから不登校に関するネットの記事を読み漁り、気づけば時計は午前1時を回っている。寝るのはいつも1時半。そして4時半に起きる。睡眠時間は3時間あるかないかだ。
吾郎は本気で思っていた。「この子のために、親である俺が全部管理して、導いてやらなきゃいけない」と。
そんなある日、あまりの目まいに耐えかねた吾郎は、翔太のカウンセリングのついでに、自身も同じ病院の心療内科を受診することにした。
「池田さん、ちょっと自律神経のバランスと、疲労度を測ってみましょうか」
疲弊

白髪の穏やかな医師に促され、センサーを指先につける。数分後、パソコンの画面に表示されたグラフを見て、医師はうーんと唸った。
「池田さん。翔太くんの心配をされている場合じゃないですね。一番ボロボロなのは、お父さん、あなたの方です」
「え?」
「慢性疲労の数値が、同年代の正常値の半分以下、いや、3分の1くらいしかありません。文字通り、いつ倒れてもおかしくない状態です」
医師は、吾郎のクマの浮き出た顔をじっと見つめた。
「毎晩、何時に寝ていますか?」
「1時過ぎです。ネットで不登校の解決法を調べていると、不安で眠れなくて」
「なるほど。人間、睡眠が足りなくなると、脳のブレーキが効かなくなって不安が何倍にも膨らむ仕組みになっているんです。今のお父さんは、24時間体制で、我が子が崖から落ちるんじゃないかと、見張っている状態。だから、口出しが止まらないんですよ」
吾郎はハッとした。
「池田さん、今日から難しい子育ての本を読むのはやめてください。スマホで調べるのも禁止。夜は、いつもより30分、いや、できるなら1時間早く寝てください。お父さんの体が整わないと、何も始まりません」
病院からの帰り道、吾郎は車の中で自分の顔をバックミラーで見た。顔色が悪い。最後に心から笑ったのはいつだろうか。大好きなラーメンを美味いと感じて食べたのはいつだったか。全部、思い出せなかった。
その日の夜。吾郎は23時半にスマホの画面を伏せた。いつもなら「あと1本だけ動画を見よう」「もう1サイトだけ記事を読もう」となるところを、ぐっとこらえて布団に入った。
翌朝。いつもより30分多く寝ただけなのに、頭のモヤが少しだけ晴れている気がした。リビングに上がってきた翔太が、ソファでダラダラとスマホをいじっている。いつもなら「おい、早く着替えろ!
何やってるんだ!」と怒号を飛ばす場面だ。しかし、少しだけ体が軽い吾郎の口から出たのは、まったく違う言葉だった。
「まあ、そのうちやるか」
吾郎は口を出さず、キッチンへ向かって自分のコーヒーを淹れた。驚いたのは翔太の方だった。いつもなら飛んでくるはずの「先回り指示」が来ない。翔太はチラチラと吾郎の様子を伺っていたが、10分ほど経つと、自分でノロノロと立ち上がり、クローゼットから制服を出して着替え始めた。
「あ」
吾郎はコーヒーカップを握ったまま、その光景を黙って見つめた。自分が先回りをやめたら、子どもが自分で動き出した。それからの吾郎は、とにかく早く寝ることを最優先にした。夜のネット検索をやめ、好きな音楽を聴く時間を5分だけ作り、週末には趣味のサイクリングの道具を引っ張り出した。自分が笑える時間が増えるにつれて、不思議なほど、翔太の行動に対するイライラが消えていった。
「ちゃんとやりなさい」が減り、「まあ、大丈夫だろ」が増えた。
一ヶ月後。相変わらず遅刻はするものの、翔太は自らカバンを背負って玄関に向かうようになっていた。靴を履きながら、翔太がふと振り返る。
「あ、パパ。今日、帰りにコンビニで新しいグミ買ってきてよ」
そう言った翔太の顔には、久しぶりの、眩しい笑顔があった。ずっと親の視線で見張られ、プレッシャーに押しつぶされていた引き金が、すっと外れたような、そんな顔だった。吾郎は、自分の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
子どもに口出しが増えていたとき、悪かったのは子どもじゃない。自分の体が「疲れているぞ」と悲鳴を上げていたサインだったのだ。完璧な親になろうと必死になるより、ただ寝て、食べて、笑う。それだけで、家庭の空気は勝手に変わっていく。
今夜も、時計が23時を回る。吾郎は、あと1本だけ、と言いかけた指を止め、部屋の明かりを消した。
デジャブ

長野県須坂市にも少しずつ本格的な夏が近づいていた。
池田吾郎(37)の23時半完全就寝ルールは、その後もなんとか守られていた。片道2時間の通勤電車では、これまでのようにスマホで「不登校
一発解決」などと検索するのをやめ、アイマスクを着けて爆睡する時間に充てている。
その結果、吾郎の顔からはあの土気色が消え、鏡の前の自分と目が合っても「まあ、今日もなんとかなるか」と思える心の余白が生まれていた。
そんなある日の夕方。吾郎が仕事を終えて帰宅すると、リビングで妻の真希(36)が、机に突っ伏して頭を抱えていた。
「もう嫌。なんでうちの子は、言われないと何一つやらないの」
バッテリー切れ

真希の前には、中1の翔太が学校から持って帰ってきたはずの、くしゃくしゃになったプリントの山。そして、当の本人は部屋でYouTubeを見ているのか、楽しそうな笑い声が漏れてきている。
「真希、どうしたんだ」
吾郎が声をかけると、真希は疲れ切った顔を上げた。目の下には、かつての吾郎と同じ、濃いクマが居座っている。
「どうしたのじゃないわよ!
翔太、明日の部活の準備もしてないし、提出物の期限もとっくに過ぎてるの。私が毎朝起こして、宿題やったのって聞いて、カバンの荷物まで一緒に確認してあげてるのに。私が先回りしてあげないと、この子、本当に何にもしないロボットになっちゃう!」
真希は怒りと不安で声を震わせ、今にも泣き出しそうだった。
吾郎はその光景を見て、強烈なデジャヴ(既視感)を覚えた。
(ああ、半年前の俺だ)
真希は性格が悪いわけでも、ヒステリックなわけでもない。ただ、毎日朝早くからお弁当を作り、パートに行き、家事をこなし、さらに翔太の学校のことで頭を悩ませて、完全に「バッテリー切れ」を起こしているだけなのだ。余裕がないから不安が暴走し、その不安が「先回りの過干渉」となって溢れ出ている。
「真希。ちょっと、そこに座って」
吾郎は真希の肩を優しく叩き、キッチンから温かい麦茶を持ってきた。
「翔太が自分でやらないんじゃないんだよ。真希がやる前に全部先回りして完璧にやっちゃうから、翔太は『あ、俺がやらなくてもママがやってくれるな』って、やる必要がなくなっちゃってるんだ」
真希は麦茶のグラスを握ったまま、反論しようと口を開きかけた。しかし、吾郎はそれを手で制した。
「真希を責めてるんじゃないんだ。そうしちゃうのは、真希の愛情が足りないからでも、性格のせいでもない。ただ、疲れてるんだよ、お互いに」
吾郎は真希の顔をじっと見つめた。
「最近、最後に夜ゆっくり寝られたの、いつだ?」
真希はハッとしたように目を丸くし、それから視線を落とした。
「夜中に翔太が部屋でガサゴソ動いてる音が気になって、毎日2時過ぎまで眠れなくて。朝は5時に起きるから」
「ほらね。脳が完全にSOSを出してるんだ。人間、寝不足になると『世界が終わるんじゃないか』ってくらい不安が大きくなるようにできてるんだってさ。病院の先生が言ってた。今の真希は、翔太のことでイライラしてるんじゃなくて、自分の体が、休ませてくれ!ってアラームを鳴らしてるんだよ」
真希はしばらく黙っていたが、やがて深く、大きなため息をついた。肩の力が、すっと抜けたようだった。
「確かに、最近ずっと頭が痛くて、何見ても不安で、翔太がダラダラしてるだけで将来が真っ暗になる気がしてた」
「だろ?
だから、今日の夜の準備はもう終わり。宿題もカバンの確認も、全部そのまま放っておこう。翔太が明日学校に何か忘れて困っても、それは翔太の人生の勉強だ」
吾郎はそう言うと、真希のスマホを取り上げてリビングの棚の奥に仕舞った。
「今夜はあと1本動画を見るのも、SNSを見るのも禁止。いつもより30分早く、23時には布団に入ろう。完璧な母親になろうとしなくていいから、まずは寝よう」
真希は少し戸惑っていたが、吾郎の穏やかな顔を見て、「じゃあ、お言葉に甘えて、もう寝るね」と、23時前に寝室へ向かった。
翌朝。
リビングに降りてきた真希は、昨日より少しだけ顔色が良くなっていた。
そして、いつものようにソファでダラダラしている翔太を見ても、今朝の真希は「コラ!早くしなさい!」とは言わなかった。ただ、「おはよう」と言って、自分の朝食のパンをトーストし始めた。余裕があるから、見守る準備ができていた。
すると、いつもなら「早くしろ」の怒号を浴びて膨れていただろう翔太が、自分でカレンダーをチラッと見て、ボソッと言った。
「あ、今日部活の道具いるんだった。忘れるところだったわ」
翔太は自分で部屋に戻り、バタバタと準備を始めた。その背中を見送りながら、真希は驚いたように吾郎と目を合わせ、それから「ふふっ」と小さく笑った。久しぶりに見る、妻の自然な笑顔だった。
「ねえ、吾郎。今日の夜、翔太の不登校の親の会があるんだけど行くの、やめてもいい?」
真希が少し照れくさそうに言った。
「もちろん。そんなの行くより、美味いもん食べて、早く寝よう。それが一番の効果がある子育て法だからさ」
子どもを変えようとする前に、まずは自分を休ませる。
池田家の夜は、今日もスマホの明かりを消すところから始まる。少しだけ早くなった静寂の中で、家族の新しいリズムが、静かに、そして確かに回り始めていた。

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