
今年の鉄工所の夏休みは、なんと8日間。お盆休みに土日がくっついただけなのに、まるで誰かが「働きすぎ注意」と言っているかのような絶妙な並びだ。もちろん、タクマ(44歳・工場長)の采配ではない。会社が持つ三つの工場全部を同じ休みにすると本社が決めたのだ。
夏休み初日のバーベキューと謎のチーズケーキ事件
「まあ、休めるから文句はないのですが」
前日の終礼で、タクマは年上の社員たちに向かって言った。
「初日の土曜日、バーベキューしませんか。家族で来てもいいです。参加自由、雨天中止。食材は人数で割り勘にしましょう。朝9時にキャンプ場集合で」
年上のベテラン社員・佐々木さん(62)が腕を組んでうなった。
「タクマくん、家族サービスのついでにオレたちを巻き込んだな?」
「いやいや、みんなで食べたほうが楽しいじゃないですか」
そんな軽口を交わしながら、夏休み初日の朝を迎えた。
9時前に来たのは二家族。9時を1時間過ぎて来たのが3家族。
「まあ、うちの工場らしいよね」
タクマは苦笑しながら参加費を集め、買い出し部隊をスーパーへ送り出した。
残ったメンバーで火おこし、タープ張り、テーブルのセッティング。
タクマの妻・ミホは、朝から焼いてきたチーズケーキ2ホールをクーラーボックスにしまいながら言った
「4時くらいに食べようね。冷やしてあるから大丈夫」のはずだった。
肉も焼け、子どもたちは川で遊び、ベテラン社員たちはビール片手に「昔はなぁ」と語り始める頃。
いよいよチーズケーキの登場だ。
ミホが箱を開けた瞬間、タクマは違和感を覚えた。
「なんか、色が濃くない?」
「え、そう?朝は普通だったよ」
切り分けてみると、ふわっと漂う、なんとも言えない香り。
食べた社員の奥さんが、眉をひそめた。
「これ、ちょっと変な味しません?」
タクマは1口食べて、すぐに悟った。
(あ、これは?)
ミホが青ざめる。
「もしかして、直射日光に当たってたからかしら?」
「クーラーボックスのフタ、子どもが開けっぱなしにしてたの見たぞ」
遠くからベテラン佐々木さんの声が飛んできた。
タクマは天を仰いだ。
夏の太陽 × クリームチーズ × 時間=オイル酸化の三重苦
健康テーマの物語としては完璧な導入だが、当事者としては笑えない。
「みんな、ごめん!これは無理して食べないで!」
タクマの声に、社員たちは「まあまあ、こういうこともあるよ」と笑ってくれたが、ミホはしょんぼり。
その横でタクマは、心の中で決意した。
(よし、この夏休み、食物の酸化についてちゃんと勉強しよう)
こうして、タクマの健康と酸化にまつわる騒動が幕を開けるのだった。
実家の天ぷらと1センチの哲学
夏休み3日目。
タクマ一家は、関東の小都市からタクマの実家へ向かった。
普段なら1時間半で着く道のりが、この日は帰省ラッシュと見事に重なり、3時間の長旅になった。
後部座席では小学生の息子ユウタが「まだー?」を10回以上繰り返し、ミホは「渋滞ってこういうものだから」となだめ続け、タクマは「まあ、夏だしな」とハンドルを握りながら苦笑いしていた。
実家に着くと、玄関からすでに天ぷらの香りが漂っていた。
「おかえりー。今ちょうど揚げてるところよ」
エプロン姿の母が、汗をぬぐいながら迎えてくれた。
台所をのぞくと、天ぷら鍋にはサラダ油がたったの1センチ。
「え、少なくない?」
タクマは思わず声を上げた。
「平気平気。これで十分よ」
母は、片面だけ揚がったサツマイモを菜箸でひょいっとつまみ、くるりと返した。
その動きは熟練の職人のように迷いがない。
しかし、揚がったサツマイモは、上と下で色が微妙に違う。
まるで船の喫水線のように、境目がくっきりしている。
「これ、ひっくり返すタイミングむずくない?」
「慣れよ、慣れ」
タクマは思わず笑いながらも、油を足そうとボトルを手に取った。
「ちょっと足すよ。これじゃなんか変だよ」
すると、母がすかさず止めた。
「ダメ。1センチでいいの。油ってすぐ痛むんだから」
「いや、でも」
「古い油は体に悪いのよ。あんたたちに変なもの食べさせたくないの」
その言い方があまりに真剣で、タクマは菜箸を持ったまま固まった。
天ぷらと冷やしそうめんが並んだ食卓。
家族がそろって「いただきます」を言ったあと、母はぽつりと話し始めた。
「お父さんが亡くなって、もう5年ね」
タクマは箸を止めた。
「うん」
「お父さんが大腸がんになったの、食事のせいだと思ってるのよ」
ミホが驚いて母を見る。
「そんな、お義母さん」
「昔はね、油のことなんて気にしなかったの。揚げ物も好きだったし、マーガリンもパンに塗ってたし。でも、あとから油が酸化すると体に悪いって聞いて」
母は少し笑った。
「だから、今は気を付けてるのよ。あんたたちまで病気になったら困るからね」
タクマは胸がぎゅっとした。
(母さん、そんなふうに思ってたのか)
ミホがそっと母の手を握った。
「お義母さん、気にしすぎですよ。でも、その気持ち、ちゃんと伝わってます」
母は照れくさそうに笑い、話題を変えるように言った。
「それにね、マーガリンも外国じゃ禁止なんでしょ?よくわからないけど、怖いじゃない」
※著者注:マーガリンは技術改良が進んでいるようです(詳しくはお手持ちのマーガリン食品表示をご確認ください。以下、参考までに)。
マーガリンは、製造過程で含まれるトランス脂肪酸が健康リスク(心臓病など)を高めるとされていましたが、近年は技術改良が進み、トランス脂肪酸含有量が大幅に減少しています。現在市販されている柔らかいチューブタイプのマーガリンは、水素添加物を使わない製品が多く、バターより飽和脂肪酸やコレステロールが少ない場合もあり、一概に「悪い」とは言えず、むしろバターより健康的な選択肢となりつつあります。ただし、過剰摂取は避け、食品表示を確認し、バランスの取れた食生活が重要です。Google検索より
タクマは苦笑した。
(母さんの情報源、だいたいテレビのワイドショーなんだよな)
でも、母の家族を守りたいという気持ちは痛いほど伝わってきた。
そしてタクマは、ふと気づく。
(安全な食事って、ただの健康ネタじゃなくて家族の話なんだな)
その気づきが、この夏休みのテーマを少しだけ深くした。
マーガリンと大学芋の母
実家の夕食が始まってしばらくした頃、タクマはどうにも落ち着かなかった。
理由は、母のあの一言だ。
「マーガリンも外国じゃ禁止なんでしょ?」
普段のタクマの朝食は、食パンにマーガリンを控えめに塗るスタイル。
そこにいちごジャムを足す日もあるし、気分がいい朝はマーガリン+はちみつという黄金コンビで決める。
(あれ、めちゃくちゃ健康的だと思ってたんだけどな)
母の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
そこでタクマは、こっそりスマホを取り出し、検索してみた。
「マーガリン」「トランス脂肪酸」「外国禁止」
すると、出てくる出てくる。
海外ではトランス脂肪酸(TFA)について、米国・カナダ・タイ・シンガポール・台湾など多くの国で、部分水素添加油脂(PHOs)の使用禁止や含有量規制、表示義務化が進んでいますが、日本は規制が遅れています。特に米国は2021年以降、ほぼ全ての食品でのPHOs使用を禁止しており、EUも上限値設定や表示義務で対応しています。Google検索より
(あれ、母さんのワイドショー知識、意外と侮れないな)
もちろん、ネットの情報は玉石混交だ。
でも、油の酸化やトランス脂肪酸についての話は、どうやら完全なデマというわけでもないらしい。
タクマは、天ぷらをつまみながら、なんとも言えない気持ちになった。
天ぷらと冷やしそうめんで、家族全員がもう食べられないと言い始めた頃。
母が満面の笑みでキッチンから戻ってきた。
「はい、大学芋できたわよー」
「え、今!?」
タクマは思わず声を上げたが、テーブルに置かれた大学芋は照りが美しく、誘惑の塊だった。
「うわ、もう無理」
「でもちょっとだけなら」
「甘いものは別腹だよね」
結局、家族全員でぺろりと完食してしまった。
そして、驚くほどおいしい。
「これね、天ぷらの残り油を使い切って作るのよ」
母が誇らしげに言う。
「天ぷらの揚げ方も、大学芋の作り方も、お隣の林さんに教えてもらったの。だから油は少しでいいのよ。使い切れる量でね。油分控えめで」
タクマは、大学芋を噛みしめながら思った。
(なるほど、母さんのてんぷら1センチには、ちゃんと理由があったんだな)
- 油をケチっているわけではない。
- 健康のため、そして無駄にしないため。
母なりの知恵と経験が詰まっている。
タクマは、さっき検索した情報を思い出しながら、心の中でつぶやいた。
(油の話って意外と深い)
そして、ビールの残りを飲み干した。
(いや、深いのはオレの胃袋かもしれない)
そんなふうに、タクマの油の酸化探求は、実家の食卓から本格的に始まっていくのだった。
工場のにおいと、タクマのなんでもない新しい特技
8日間の夏休みが終わり、鉄工所の朝が戻ってきた。
タクマは、久しぶりに旋盤のスイッチを入れ、金属が削れる独特の音を聞きながら、仕事モードに切り替えていった。
そのときだった。
ふと、鼻をつくような酸っぱいにおいが漂ってきた。
(ん?なんだ、このにおい、どこかで嗅いだような)
しばらく考えて、タクマはハッとした。
チーズケーキだ。
あの、直射日光の下で放置されてしまった、ミホの手作りチーズケーキ。
味は甘かったのに、どこか変な風味がして、みんなで首をかしげたあの午後。
(そうだ、この酸っぱいような、むせるようなあの感じだ)
タクマは旋盤の横に置いてある切削オイルの容器を手に取り、そっとにおいをかいだ。
「いや、いつもと同じだよな」
念のため、熱い鉄板にオイルを一滴垂らしてみる。
もわっと煙が出て、ふわりと立ちのぼるにおい。
「あ、なるほど」
熱が加わると、ほんのり酸味のあるような、独特のにおいが立つ。
普段なら気にも留めないが、夏休み中に酸化した油のにおいを経験したタクマには、妙にわかる。
(これが酸化ってやつか?)
タクマは腕を組んでうなった。
(いや、まさかオレ、酸化したオイルを嗅ぎ分けられるようになったかも?)
自分で思って、自分で笑ってしまう。
「工場長、何ニヤニヤしてるんです?」
後ろから声をかけてきたのは、若手のカズマだ。
「いや、ちょっとな、オイルのにおいがさ」
「え、オイルのにおいなんて、いつもこんなもんじゃないですか?」
「まあ、そうなんだけど」
タクマは言葉を濁した。
(説明しても絶対伝わらないやつだな、まさか、オレの特殊能力開花か?)
でも、タクマの中では確かに何かが変わっていた。
油のにおいに敏感になった。 酸化の気配を感じ取れるようになった。
まるで、夏休みのチーズケーキ事件と実家の天ぷらが、タクマに新しいセンサーを授けたかのようだ。
(よし、この調子で油のこと、もっとわかるようになってみるか)
そんなふうに、タクマの油の酸化探求は、職場でも静かに続いていくのだった。
夕方のキッチンと焼き魚の焦げ
夕方。ミホが仕事から帰ってきて、タクマと並んで夕食の準備をしていた。
玉ねぎを切るミホの横で、タクマはふと思い出したように言った。
「ミホ、オレさ、油の酸化、においで分かるようになったんだよ」
ミホは包丁を止めずに、さらっと返した。
「そんなの知ってるわよ」
(いや、絶対知らなかっただろ)
タクマは心の中でツッコミを入れつつ、流しの下から天ぷら油のボトルを取り出した。
「ちょっと実験してみる」
キッチンペーパーに油を少しだけ染み込ませ、火をつける。
ぱち、と小さな炎が上がり、すぐに黒い煤のようなものがふわりと漂った。
「ほら、この匂い。あのチーズケーキと同じだよ」
ミホは鼻をひくつかせた。
「あ、言われてみれば、ちょっと似てるかも」
タクマは得意げにうなずいた。
「それに、会社のコーヒーも。時間がたつと不味くなることあるよね。油じゃないかもしれないけど、あれも酸化らしい。」
「あ、コーヒーを作り置きしてるとなるよね。」
「焼き魚の焦げって体に悪いって言うじゃん?あれも、あのチーズケーキみたいに酸化してるんだと思うんだよ」
ミホは目を丸くした。
「えっ、じゃあ、お魚食べられないじゃない?」
「あ、そうか。そうなるのか」
タクマは一瞬、真剣に考え込んだ。
(魚の焦げ=酸化した油?いや、でも魚って油少ないし、そもそも焼き魚って全部悪いのか?)
こういうときのタクマの相談相手は、だいたいネットだ。
スマホを取り出し、検索してみる。
「魚焦げ健康」「焼き目酸化」「焼き魚体に悪い?」
すると、意外な答えが出てきた。
「魚の焦げと焼き目は違う」
タクマは思わず声に出した。
「え、違うんだって」
ミホが振り返る。
「どういうこと?」
「えっと、魚の焼き目って、メイラード反応っていうやつで、香ばしさの元なんだって。で、焦げはもっと進んだ状態で、炭化してるやつらしい」
メイラード反応とは、アミノ酸(タンパク質)と還元糖が加熱されることで褐色物質(メラノイジン)を生み出し、風味や香ばしさを生む化学反応です。パンの焼き色、肉の焼き目、味噌・醤油のコクや色、コーヒーの香りなど、多くの食品のおいしさ(風味、色、香り)に関わり、加熱だけでなく熟成(味噌、醤油)でも起こります。Google検索より
「へぇ、じゃあ、焼き魚は大丈夫なの?」
「うん。普通に焼いて、黒こげにしなきゃ問題ないって」
ミホはほっと息をついた。
「よかった、私、サバの塩焼き好きなのに」
タクマは笑った。
(料理って、なんか難しいけど、こうやって一つずつ理屈が分かっていくの、ちょっと楽しいな)
そして、キッチンに漂う夕食の匂いを吸い込みながら、タクマは思った。
(でも、あの直射日光に当たったチーズケーキの匂いだけは、もう二度と嗅ぎたくない)
実家の味に近づくタクマ家のキッチン
あのチーズケーキ事件以来、ミホはベイクドチーズケーキを作らなくなっていた。
代わりに、火を使わないレアチーズケーキを時々作っては、家族の甘い時間を守っていた。
しかし、タクマはあの日のことをどこかで引きずっていた。
(あのチーズケーキ、本当はすごくおいしかったんだよな)
だからこそ、タクマはミホに頼んだ。
「オレにも、ベイクドチーズケーキの作り方、教えてくれない?」
ミホは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「いいよ。じゃあ、一緒に作ろう」
それからというもの、タクマは休日のたびにオーブンと向き合った。
温度の調整、焼き時間、混ぜ方、材料の順番。
ミホの横で何度も失敗しながら、少しずつ腕を上げていった。
そしてある日、タクマはついにみんなに出せるレベルのベイクドチーズケーキを焼き上げた。
「お父さん、これ売れるよ!」
「ほんとにお店みたい!」
子どもたちの言葉に、タクマは照れくさく笑った。
- タクマは、朝食のマーガリンをやめた。
パンにはオリーブオイルを少し垂らすか、ジャムだけにした。 - ホウレン草のバター炒めは、サラダオイルで作るようになった。
ミホは最初こそ風味が違うと言っていたが、慣れてくるとこれはこれで軽くていいねと言うようになった。 - 魚の焦げ目は絶対に食べない。
ミホは焼き目だけをきれいにつける焼き方を研究し、ついには焦がさず香ばしいという絶妙な技を身につけた。
タクマはその焼き魚を食べながら、ふと思った。
(なんか、実家の味に近づいてきたな)
あの夏休み、母が作ってくれた天ぷらや大学芋。
油を少しだけ使う、あの独特の軽さ。
家族の健康を思う、あの優しい味。
気づけば、タクマの家の食卓にも、同じような空気が流れていた。それは、
油の酸化について調べたこと。
チーズケーキ事件。
実家の天ぷら。
ミホとの会話。
工場での気づき。
全部がつながって、今の生活がある。
タクマは焼き上がったチーズケーキを冷ましながら、静かに思った。
(健康って難しいことじゃなくて、家族のことを考えてちょっとずつ工夫することなんだな)
その横でミホが笑って言った。
「ねえタクマ、次は何作る?また一緒にやろうよ」
タクマはうなずいた。
「うん。今度は実家の大学芋、再現してみようか」
夏休みの思い出が、ゆっくりと、家族の未来につながっていく。
完
