安心の音

安心の音 人間関係
安心の音
人間関係性格

三重県の郊外。見渡す限りの田んぼの中に突如として現れる巨大な、改装してイオンモールになる前のジャスコがあった。その一角にある自転車専門店ソーリンの店長を務めるのが、鈴木れい子(37)である。「はい、いらっしゃいませ! パンク修理ですね、30分でガチッと直しますよ!」

自転車専門店

電動アシスト自転車のバッテリー交換から、ロードバイクのチェーン調整までテキパキとこなすれい子は、店内でも「あそこの店長はとにかく元気で楽しそう」と評判だった。しかし、一歩店を出て我が家に帰れば、小学4年生の娘・葉子(ようこ)の「お口にチャック状態」にやきもきする一人の母親でもあった。

ある土曜日の夜。リビングでは、自動車部品メーカーで事務員をしている夫の零士(れいじ)が、お気に入りのマイナスドライバーを熱心に磨いていた。その横で、葉子がポツリとため息をついた。

「ねえ、ママ。来月の学年キャンプ、私、絶対に行きたくない」

れい子が「え、どうしたの?」と尋ねると、葉子は唇を尖らせた。

「だって、大人数でワイワイするのうるさいし、みんなといるの疲れるんだもん。あのキャンプ、絶対つまんない。行っても楽しくないもん」

葉子は最近、何かにつけて「これつまんない」「あの授業嫌だ」「あの子苦手」と、自分が楽しめるかどうかを、全部周りの環境のせいにして殻に閉じこもる傾向があった。

れい子は、磨かれたドライバーを光にかざしている零士に視線で助けを求めた。零士は静かにドライバーを置くと、穏やかな声で言った。

「葉子。お父さんな、毎日会社で同じ部品の数字をずーっとパソコンに入力する仕事をしてるんだ。客観的に見たら、地味でつまんない仕事かもしれない。でもな、どうやったら昨日より1分早く入力できるか、どうやったらミスをゼロにできるか、ゲームみたいに自分でルールを作って楽しんでるんだよ。人生ってな、環境に楽しませてもらうものじゃなくて、自分で楽しむ力を育てるものなんだぞ」

れい子も葉子の隣に座り、優しく語りかけた。

「葉子、大人数がうるさくて嫌って言ったけどさ。それって、本当はみんなの輪に上手く入れなかったらどうしようっていう不安なんじゃない?」

葉子がハッとしたように顔を上げた。図星だったのだ。

「いい?家族が大声で喋ってても、うるさいじゃなくて安心するでしょ?それと同じで、お友達と繋がれた瞬間、そのガヤガヤした音はノイズじゃなくなるの。人ってね、自分の居場所ができると、景色の見え方がガラッと変わるんだよ」

「でも、いきなり全員と仲良くなんて無理だよ」

「最初から完璧じゃなくていいの。大人数が苦手なら、まずは同じ班の大人しい子一人とだけお喋りしてみる。少人数なら行ってみる、っていう少しだけの挑戦でいいんだよ。嫌だ、無理だ、で終わらせずに、どうやったらちょっとでも楽しめそうか、突破口を一緒に探してみよう?」

葉子は膝を抱えたまま、しばらく考えていたが、「班のサクラちゃんとなら、お家も近いし、少し喋れるかも」と小さく呟いた。

「よし、それで十分!できない理由より、できる方法を探す。それが鈴木家のサイクリング術よ!」

キャンプ

数週間後、学年キャンプの当日。れい子と零士は、フードコートで遅めのランチをとりながら、スマホの時計を気にしていた。

「零士。葉子、今頃テント張りやってる時間かな。泣いてないかしら」

「大丈夫だよ、れい子。僕たち親がうちの子には無理、繊細だからって避け続けていたら、あの子は挑戦するチャンスを失っていた。結果はどうあれ、一歩踏み出したんだから」

次の日の夕方、キャンプから帰ってきた葉子は、リュックを玄関に放り出すなり、リビングへドタバタと駆け込んできた。その顔は、キラキラとした笑顔で輝いていた。

「パパ!ママ!キャンプ、すっごく楽しかった!」

「お、サクラちゃんと喋れたか?」と零士が聞くと、葉子は嬉しそうに頷いた。

「うん!テント立てるとき、上手くいかなくてみんなでうわ、倒れるー!って大騒ぎしたの。その時、周りの声が全然うるさいって思わなくて、むしろみんなで笑ってるのが楽しかった!自分でカレーのニンジン切り係に立候補して、それも上手くできてさ!」

葉子は、好きなことだけをやるのではなく、苦手だと思っていた環境の中に、自分で役割と楽しみを見つけて帰ってきたのだ。れい子は、泥だらけになった葉子の帽子をポンポンと叩いた。

「よく頑張ったね、葉子。挑戦したこと自体、ママは誇らしいよ。人生を楽しめる人ってね、環境が完璧な人じゃなくて、どんな環境でも意味を見つけられる人なんだから」

「うん!私、学校の運動会も、どうやったら楽しめるか自分で考えてみる!」

頼もしく胸を張る娘の姿に、れい子と零士は顔を見合わせて破顔した。

主体性という名の新しいギアを手に入れた葉子の人生は、これからどんなデコボコ道であっても、自分の力でぐんぐんと、楽しく進んでいくに違いない。れい子は冷えたビールを掲げ、我が家の小さな挑戦者に、最高の乾杯を送るのだった。

親の歳を迎えて

あの、カレーのニンジン切り大成功を報告したキャンプから、27年。三重県ののどかな郊外に、また一つ、賑やかな場所が誕生しようとしていた。

「和弘さん!そこ、カベの棚の角度が数ミリ右肩下がり(デッドクロス)になっとる!
もうちょっと右を上げて!」

「ようこ、もうこれ以上上げたら、せっかく並べた手芸のペンギンたちが全員滑り落ちちゃうよぉ」

37歳になった佐藤葉子(ようこ)の指示に、夫の佐藤和弘(37)が脚立の上で情けない声を上げていた。

手芸品のお店

葉子は数年前に和弘と結婚。和弘が実家の不動産屋「佐藤不動産」を継ぐことになり、葉子もその店頭で事務仕事を手伝っていた。だが、そこはあの「どんな環境でも楽しむギア」を持った葉子である。ただの事務作業で終わるわけがなかった。

「お堅い不動産屋の窓口って、みんな緊張して入ってくるでしょ?
どうやったらここを楽しい場所にできるかな」

そう考えた葉子は、事務机の片隅に、趣味で集めていた地元三重の手芸作家たちの可愛いハンドメイド作品をディスプレイし始めたのだ。すると「あら、この編みぐるみ可愛いわね」「家を探しに来たのに癒やされたわ」と大評判になり、気づけば窓口の半分が手芸ギャラリー化。

そしてついに、長年の念願だった手芸品を展示販売する小さなカフェを、不動産屋の隣にオープンする日を迎えたのである。

店の名前はカフェ・ソーリン。もちろん、今もイオンモール内で自転車屋を営む実家の母・れい子の店から名前をもらった。

開店10分前。お店のドアが勢いよく開いた。

「はい、おめでとう!
開店祝いに、ソーリン特製のチェーンオイルじゃなくて、綺麗なお花持ってきたよ!」

「ようこ、おめでとう。和弘くん、脚立から落ちないようにね」

やってきたのは、白髪が少し混じりつつも相変わらずパワフルな母・れい子(64)と、相変わらず穏やかに工具をポケットに忍ばせている父・零士(64)だった。

「ママ、パパ、来てくれたんだ!」

「あったりまえじゃない!
葉子が自分でゼロからリノベーションして作ったお店だもん。見届けにこなアカンわ」

れい子は店内にズラリと並んだ、色とりどりの刺繍ブローチや布小物の棚を見渡して、嬉しそうに目を細めた。

カフェ

「すごいねぇ。不動産屋の事務っていう、一見すると手芸とは全然関係ない環境から、こんな素敵な突破口を見つけ出すなんてさ。やっぱり葉子は、どこにいても意味を見つけられる子に育ったね」

「フッ、私の背中を見て育ったからね」とドヤ顔をする零士に、和弘が脚立から降りてきて「お義父さん、本当にようこの楽しむ力には毎日救われてます。僕が仕事でミスして落ち込んでても、ゲームみたいに解決法を探そうって引っ張ってくれるんです」と笑顔で言った。

「和弘さん、褒めても内装作業は免除されないよ!
ほら、次はあっちのテーブルにメニュー表を並べて!」

「はいっ、ただいま!」

葉子の小気味いい指示に、和弘が嬉しそうに動き回る。その姿は、かつて大人数のガヤガヤをうるさい!と嫌がっていた少女の面影を完全に消し去っていた。

カランコロン。

ついにオープンのチャイムが鳴り、最初のお客さんが入ってきた。地元の主婦グループや、佐藤不動産時代からの手芸ファンたちが、次々と席を埋めていく。

「わあ、可愛いお店!」

「この刺繍のバッグ、素敵ね」

店内が一気に賑やかな音で満たされていく。葉子はそのガヤガヤとした音を聴きながら、カウンターの奥で温かいコーヒーを淹れていた。かつて母に言われた言葉を、葉子は今でも鮮明に覚えている。

人ってね、居場所ができると、景色の見え方が変わるんだよ

ここは、手芸作家たちの居場所であり、地域の人たちがホッと一息つける居場所。かつて自分がキャンプのガヤガヤを安心の音に変えたように、今度は自分がこの街に、新しい安心の音を響かせる番なのだ。

「はい、お待たせしました!特製ブレンドコーヒーです。ごゆっくりどうぞ!」

葉子の弾けるような笑顔と、和弘の優しいサポート、そして温かい手芸品に囲まれて、カフェ・ソーリンの物語が始まった。どんな環境も自分のギアで楽しい道に変えていく葉子のサイクリングは、これからもたくさんの人を巻き込みながら、右肩上がりにハッピーな軌跡を描いていく。

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